はらまち自治・消防史
付 はらまち警察・犯罪史

江戸時代の姿

郷土史家斉藤笹舟に「各町々における中堀」という文がある。
今はその陰を没して、町中の堀は最近まで大坪、黒木、鹿島、原町、小高、浪江、長塚、新山、熊町にありました。是は使水(つかいみず)として便利でありましたが火防のため主として開通せられました。両岸に柳桜を植ゑ、街路樹は又一種の趣を呈して、いふにいはれぬ美観、月下梢風に恋を囁く、又風情でありました
(斉藤笹舟「相馬郷土文化志」第2巻郷土編(前編)226p)
各町の目抜き通りに中堀をうがってあった。防火のためである。原町は、ペリーの黒船が江戸城下を騒がせた嘉永六年(1853)に全焼している。明治のはじめ(1868)に、兵火という猛火によって再び町並みは焼き尽くされた。笹舟らが風情として懐旧を抱いた風景には、防火というしんじつ町民の願いがこめられていたのである。

戊辰の兵火、原町を焼く

慶応4年 戊辰の役で、仙台兵が退却しながら原町宿場を焼き払った。
齋藤笹舟は昭和二十五年の「相馬郷土志」において、「明治戊辰仙台兵原町を焼いて退く」と題して次のように書いている。
「明治戊辰、平落城の直後でありました。連合軍は四ツ倉に退いて負け、木戸・広野に破れ、独り相馬藩兵は南境に足を止めて戦ってゐました。仙台兵これを顧みず、なだれをうって北走いたしました。その道すがら小高・原町の駅家を焼いて敗走致しました。かれ官賊に宿舎にさるるをおそれてであったさうな。即ち、
「原ノ町放火の折焼死面々(田代清右エ門手記より)
八月二日中郷原駅焼死。入山上給人 牛河内婿七 道広二十二歳 山田直衛 秀勝十七歳 桃井勇太郎 義知三十五歳 渡部与惣右エ門 良宗四十二歳 戊辰七月、原町はその快災に苦しみました。」
上栃窪村志賀与祖右衛門由隆の「戊辰戦争記」の覚書によれば、「二日目玉薬箱江火入原町焼失ス怪我人出来申候」とある。
富田高慶は次のように日記に記した。
「八月二日雨 昨朝浪江ニテ又々争戦不利。今日鹿島迄引揚、原町焼失ノ趣申来ル」(富田高慶日記)
つづいて8月3日には、鹿島と中村でも同様の火事が続いた。
「八月三日鹿嶋江引揚中村田子屋兵具蔵焼失」(志賀由隆覚書)
「城郭東北隅ノ弾薬倉製薬ヲ誤テ火ヲ失ス、備蓄ノ弾薬瞬息烏有トナル、其声恰モ百千ノ兵襲撃シテ大砲小銃一時ニ連発スルカ如シ」(相馬市史2相馬偉人顕彰会編「戊辰戦争記」)
「戊辰戦争記」は、中村城郭の弾薬庫の爆発を偶発的な火事として記録しているが、原町、鹿島、中村の三件ともに、同じような状況下で兵具弾薬庫に連続して火が入っている。しかも、官軍に降伏する直前の8月2日、3日という、中村藩幹部が水面下で終戦工作に奔走していた時期に重なっている。
敗走する仙台藩兵による戦略的な連続放火とみるのが合理的な解釈であろう。

原町大火と消防組起源

原町市史では「明治十五年の原町大火」として次のように書いている。
「明治十五年二月十二日午後八時ころ旧原町陣屋に設けられていた青年学校より出火し、折りからの西北の烈風にあおられて町の大部分を焼いてしまったことがある。火勢は十一時頃まで続き、町の中心部八十余戸を焼き尽くして鎮火した」
「明治十六年の大火」では「明治十六年一月四日下町小川橋付近前田伊助方より火を発し、前年に続く大火災となり、前年の大火で焼け残った家屋のほとんどを焼き尽くしてしまった」
相馬市史年表も、原町市史の既述をそのまま再録している。
ところが、郷土史家齋藤笹舟の「原町における消防発達史」によれば、原町大火は明治十四年と十五年であった、として、状況を次のように説明している。

「明治十四年後における火災と設備を知るに、先づ明治十四年二月の大火より出発しなければなりません。即ち二月十四日午後十一時頃、火は陣屋跡に設けられた青年学校より、全町をなめつくしました。焼失家屋八十余軒、重なる建物は原町警察署・戸長役場、阿部検断所(今いふ運送店)伏見茂右エ門・松本孫右エ門酒造家・佐藤太之助(叶屋)原の町郵便局。明くる明治十五年十二月又た下町前田伊助(丸屋旅館)火を失して同所下町渋佐寿郎、管野信忠より以北十五軒を焼き尽くしました。

岡和田甫の回想記によると、これもまた異なる。
「明治十四年二月十四日(旧暦十三年十二月二十七日)陣屋より発火し附近の野馬追の守護神、初発妙見社は類焼し猛火は南北に延焼したる時、不思議にも三島神社境内には火の粉ひとつ落ちず、隣接の宮司菅頭家及び松谷、門馬、佐藤準一郎氏等氏子総代三家を残して全町殆んど烏有に帰したのであった。」と。

佐藤準一郎とあるのは戸長の佐藤純一郎のことである。のちに、昭和33年に純一郎の子佐藤政蔵の葬儀の時に、友人を代表して弔辞を述べた折に、岡和田は、政蔵の出自に触れて父親の純一郎が原町大火のあと、町は罹災者に生活保障の給付を与えたものの、快復してのちも罹災町民からの資金回収が芳しくないことを戸長として責任を心痛のあまりに悶死したという故事を紹介したことを、子孫が聞き覚えている。町の財政はその程度に逼迫しており、連続して起きた明治の原町大火はその程度に甚大な被害であった、ということだろう。純一郎は明治25年にわずか39才で没している。

市立博物館の年表は、平成6年に原町市教育委員会から発行された「中の郷から原町市へ」年表と同じく明治15年の大火の項目だけを記して、14年とも16年ともに記録していない。
確証に足る典拠がないから、確定せずに、あらゆる記録に重複してあらわれている「明治15年」ならば、確かだろうと推定したのでもあろう。内容と日付まで記していないので、どちらにでも逃げられる記述になっている。2年続きの原町大火が、明治14.15年なのか、明治15.16年であったのかさえも、判断を放棄しているように見える。旧版の原町市史の記述も、あるいは当時存在していた報告書か、行政資料にもとずいての記述と想定されるものの、かんじんの史料そのものが、昭和42年の市役所の火災によって、「烏有に帰した」ので、かえすがえすも残念なことである。
原町の明治の御世の最初が兵火という人為的な火事によってスタートし、その懊悩の苦しみから立ち直りかけた15年、16年の連続した失火によって、さらに苦悩したのである。戸長の佐藤純一郎が、その後の町政復興に人生の大切な時期を消耗し、懊悩の中で死んでいったという故事を、当時を知る岡和田甫氏の記憶を介して、昭和33年の、純一郎の次男政蔵の葬儀のときに、政蔵の長女桃子が聞いていた。かすかに佐藤家の家族史と、同時代を記録しつづけた「富田高慶日記」をつなぐとき、ようやく、生まれたばかりの原町の姿がおぼろげながらに見えてくる。おそらくは、もっとも具体的で即時的な富田の日記に判断の典拠を求めるのが、妥当な線かと思われる。

明治14年 中村大火
1月18日「昨夜中村市中大火ノ由」(富田高慶日記)
3月15日「中村市中焼失極御手当トシテ君公ヨリ金三円、並細木被下候趣、当社ヨリ百円手当致候様木崎ヘ托ス」(富田高慶日記)

明治15年   原町大火
2月「同十二日晴
一午後九時頃原駅元学校所ヨリ出火。烈風同駅過半焼失。午後一時頃鎮火」「同二十八日晴 一原町焼失難人ヘ当社ヨリ助成金、五拾円今延之助持参、戸長へ相渡候事」(富田高慶日記)
明治16年 仝
明治16年1月「同四日晴
一午後八時頃原駅出火。二拾軒頬類焼。同十一時頃鎮火」(富田高慶日記)

「福島県消防史」(昭和7年・福島県消防協会)によると、明治の大火は14.15年としてある。すでに資料提供の段階で、誤謬があるのだが、概略と設備の変遷については他に参考すべきものがないため、便宜上そのままこれを使うことにする。

町の復興と消防組縁起

この明治十四、十五年両度の火災に罹りたるを以て、組織立ちたる消防隊員のなきの不便を覚り、先づ鈴木竜助を推して組頭として、雲竜水ポンプを購入して防備の要に供しましたが、規律訓練にあらず、器具亦完備せるにあらざれば、烏合の集に等しきものにして、組頭でさへ殆ど持ち廻りでありました。消防手の如きは全町の男子は全部消防手でありました。器具としては各個人、鳶口・ズックの水吸(みずくみ)を持ち、服装は亦モジリ脚絆でありました。
そののち雲竜水ポンプを一台購入し、このポンプは二人にて肩負(かつぎ)、火事場に到って使用いたしました。
去る明治十七年より同二十六年に至る十有余念間における消防に関する事項は不明でありますが、明治二十七年勅令第十五号消防組頭規則により公認となり、当原町村においては、同年十月六日村会の決議により消防器具・設備・員数を備ふこととなり組名は原町組、部は第一、二、三、四部(一部は南新田、二部は同上三部は桜井、上渋佐、四部下渋佐)設備としてはポンプ、竜吐水・水桶類、梯子・長鳶口・手鳶口・刺又・まとい・旗・高張提灯・馬上提灯・細長提灯などであります。
その後明治三十一年四月に至り県令第四十三号消防組施行規則により消防組はいよいよ公認となり、即ち消防組織は、組頭一名、小頭若干名であります。
その後年次不明であるが、阿部市助組頭時代でありました。三島神社境内に木製の火のみ櫓を設置し警報の具と致しました。腕用ポンプは角田千代記組頭時代でありました。

笹舟消防史

原町および市域各村の消防組の起源はたとえば次のようである。(「福島県消防史」より)

「第十六節 原町署管内」
「原町

本組沿革は、堀川組頭の厚意により極めて貴重なる文献を豊富に提供されたことを断っておきたい。ただ惜しむらくは各組同様紙数の制限による一事である。但し古文は総論中に加へるつもりである。
秩序なかりし旧幕時代の火消より、近代的消防への第一歩は、中村町の大火、及び明治十四年、十五年のおける本町の火災の影響は見逃し得い(注。得ない)、即ち、此の両度の火災直後に、秩序と設備ある消防組を組織せよと云ふ声は、実に苦い体験から生める住民の叫びであった。その結果が、鈴木龍助を組頭とする近代色の消防組出現となったのである。然し、此の組織でさい(さえ)も、それ一度び(ひとたび)皮相の観を以てすれば、名実伴なはぬとの評を如何とすることが出来なかったほど、極めて幼智(幼稚)なものであった。従って、此の時代、即ち漠然たる消防形態に対して、吾人は殊更に之を明瞭化する煩を避けた方が妥当であると信ずる。勿論、当時の内容に至っては知るに由なく、徒らなる口碑は採らぬこととする。
勅令消防は、明治二十七年十月六日、当時村制であった村会の決議によって組織されたもので、四部編成であった。
大正七年四月二十日高野順方の火災には、時の佐藤組頭焼壁の下敷となり、再起不能になられたことは惜しみても余りある沿革史上の恨事である。
大正十一年の大火には、県当局より救助金として千六百二十八円給与され、遠藤豊外五十六名に伝達された。現在の屋上制限組合は此の時に組織されたものである。更に翌十二年には町会の決議に基いて組員三十名を増員し、即ち元組織に至って居る。
警備費状況
一、明治二十七年度 金二十九円二十三銭八厘
一、昭和六年度   金四千四百六十円
所有ポンプ状況
一、ガソリンポンプ 三台
一、腕用ポンプ 六台
組織状況
一、総人数 百八十四名(四部制)」

参考までに、大正七年に出版された岡和田甫編、発行の「原町地方紹介」を次に掲げる。

消防

当町消防組は現在組員百二十七名にしてポンプ六台、鳶口三十三挺、斧六挺、梯子五挺、纏ひ三本を備ひ、毎年十二月初日より翌年三月末まで夜警を行ひ、火災期の警備に当る。近来当所に火災の多からざると罹災損害額の少きとは即ち組員の職務に忠実なるに依る、現在幹部左の如し
組頭佐藤貫良、副組頭石井栄吉、小頭高橋柳助、同遠藤勤、同木村清作、同池田豊治、同大松米治。
明治十五年二月八日当町大火災あり、遠藤周輔、鈴木龍助、門馬直記、今村源八、小林助太郎、佐藤純一郎の諸氏相謀り私設消防組を組織し、鈴木龍助氏組頭となる、之を当町消防組の創始と為す、爾来今村源八、松本良七、佐藤新太郎、桜井政員、佐藤政蔵、佐藤徳助氏等順次組頭となり以て現組頭に至る、現組頭佐藤貫良氏は予備陸軍薬剤官にして現に当町軍人分会副会長たり、常に身を以て衆を率ゐ、屡(しばしば)危険を冒して奇功を奏せり、大正七年四月二十日当町高野医院失火の際、重傷を負ひ一命を危うせり、又た以て其の平生を知るべし。

「高平組

所謂若者組が組織されたのは明治五年である。役付としては頭一名、副頭一名があった。活動内容は単なる馳せ付け消防で、その翌年龍吐水二挺の設備によって多少面目を一新し、更に明治二十五年、篤志家大槻太郎の寄付による腕用ポンプ一台の購入が、近代的消防への第一歩である。勅令消防は百八十一名を以て組織された。」

石神組

旧十三ヶ村時代、明治七年の頃若者火消団が組織された。翌八年は県令達により組織を改められていよいよ統制ある火消組織を見ることが出来たが、特に認むべき活動はなかったやうである。
勅令消防は二百四十七名を以て組織されたが、此の年の警備費は村会の否決するところとなり、組員必死の運動は、遂に翌二十八年十一月十九日の追加予算によって認められ、逐次発達の域に進み、大正九年二月、組員三十名を減員して現組織に及んで居る。因に太田秋之助組頭は、就任十年の組頭にして、実に本組長足の進歩は此の人に負ふところ大なりと云ふべし。
警備費状況 昭和5年 金千円
所有ポンプ状況 腕用ポンプ 9台
組織状況 総人数 百九十名(八部制) 各二十七名
主なる火災(別掲)」

「太田組

沿革殆ど不明である。明治二十年頃火消しといふ名称の団体があって、当時手力水を使用して居たと云ふ以外に凡て不明である。これが亦編者充分の責めを感ずる次第である。
勅令消防は明治二十八年に組織され、特筆すべき変遷を見ぬ。
所有ポンプ
一、腕用ポンプ 四台
組織状況
一、総人数 百五十一名(四部制)
警備費状況  昭和六年度 金五百五円
主なる火災(別掲)」

「大甕組

旧幕時代の状況は判然としない。ただ明治初年頃若者火消がありて、頭、伍長の統率の下に破壊消防に従事した。と云ふ口碑がある。明治十五年に龍吐水を設備したとあるは、此の若者組の進化したものであると思ふ。但し勅令消防直前は村内十一組の消防組があったと云ふが、内容詳らかではない。勅令消防は百五名の五部編成であったが、間もなく三十三名の増員を行ひ、更に明治末期に及んで二十二名されて現組織に至って居る。
所有ポンプ状況
一、腕用ポンプ 八台
組織状況
一、総人数 二百四名(五部制)
警備費状況 昭和六年度 金九百八円
主なる火災(別掲)
歴代組頭

新聞を追って

明治27年民報
日清戦争起こる
3.25.

明治31年3月15日福島新聞
飯豊村大字百槻小高町大火罹災者義捐金募集広告
蔵小屋の焼失
相馬郡上真野村の火災 小山田 早川常蔵方 楮(こうぞ)を煮んとて竈に火を焚き
4.16. 真野川に溺る

明治32年 小高大火
明治33年12月16日 民報
○消防手の内輪悶着 相馬郡太田村

明治35年 小高大火
2.9.太田学校の椿事 教室の墜落 負傷生徒四十余名
2.26.勤勉の報酬 佐藤新太郎
2.26.軍人団と幻灯 新祥寺で雪中行軍大惨事幻灯会
3.11大甕 青年夜学会
3.11太田学校墜落の後報
4.2.浮世のぞき 小泉屋の草餅
4.10大甕村内選挙騒ぎ
4.11道路問題の紛擾 陳情書

35.5月 新山町大火の詳報 小高町大火罹災者救助義捐金募集広告
5.2. 相馬郡の大火
5.3. 小高付近の大火詳報
5.6. 小高神社本日類焼神体無事 四月三十日右社務所 広告
5.6.  新山町大火 小高大火広告
7.1. 新地大火

明治35年10月19日 相馬郡太田村通信 過日の暴風に就ては左程の被害なく只潰家二ありし
12月6日 相馬郡の罹災救済

「明治38年同じ益田部落の佐藤安治が西の大浦家から東へ6軒類焼する火災にあい、自家の再興のため、隣から800円借りて単身ロサンゼルス市へ出稼ぎに行き」「新妻家の人々」(新妻智著)より

41.9.29.福島新聞 大堀消防組の紛擾

明治42年1月6日 民報
○ 原町組消防の歌
(1) 健児の一隊百五十、股引ハッピの、いき姿、襟に染めぬく、原の町、消防組の模範たり。
(2) 見よひるかへる組旗は、幾戦場の往来に、焔に焦がれ煙に染み、破れし様ぞ勇ましき。
(3) 立つや二条の金馬簾、一は火防の功労に、一は規律と訓練の、好成績の章(しるし)なり。
(4) ポンプは二号の独逸形、水勢飽く迄強烈に、天空をしてほとばしる、猛火もなどて恐るべき。
(5) 肌を裂ざく厳冬の、風も冷たき夜もすがら、夢暖かき幾千の、人の眠りを保護せんと。
(6) 夜毎夜ごとの夜警隊、組を分かちて裏表、警邏をさをさ怠らず。
(7) 花咲く春の野に出でて、歩調正しき教練の、中に平和の風そよぎ、組に一致の和楽あり。
(8) 焔の中に分け入りて、いや目ざましき奮闘の、中に規律の風見いて、意気衝天の概はあり。
(9) 風吹きすさぶ秋冬を、火防の任務身に負ひて、纏ふハッピは薄けれど、思ひや厚き義侠心。
(10) 組に尊き歴史あり、組の前途に、希望あり、百難何か、たゆたわん、イザや進まん諸共に、万歳万歳。

明治41年2月15日、大字高、六戸焼失
(福島県消防史)太田

明治42年 新年の豪雪で大甕村役場が倒壊
1月16日民報
42.1.16.福島新聞 大甕村大雪で倒壊
42.1.14.福島新聞 大戸村 龍田村の消防
42.1.15.双葉郡南消防組の紛擾

明治43年3月4日 民報
○ 三度火を放つ 会社を焼かんとせし女工  原町機業株式会社

明治43年2月24日民報
○ 大野村の大火
○ 中村町の大火 小学校の一部焼失
明治43年8月17日民報
原町全町浸水
●県下各地の出水と被害

小高村の火災

 

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