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わたしたちの立場についての説明と、これまでの経過

ノブさんの長女と結婚してすぐ、幼児園をスタートさせて間もなく「久雄と英子が家出したので助けてくれ」との電話を受けて、いそぎ福島に急行。真夜中に蓬莱団地の子供の家の場所を確認し順路を覚えて、翌朝2人が不在のまま、保育をした。
昼前までには戻ってきたが、2人とも保育には加わらず、けっきょくこの日は、仕事を放棄したのである。福島で幼稚園を手伝うということで、ノブさんが、ひきとった格好であるが、命令されることが面白くなかったのか。母親を困らせてやれ、という態度のようだった。地域の子供と保護者に対する責任を放棄した。なんで私が尻拭いをせねばならぬのか。新婚時代も、最初から休日などなく、毎週が、義母と義妹夫婦にふりまわされて災いの連続だった。
こういう状況では、幼稚園を経営すること自体を継続すべきでないと主張したが、ついぞ聞き入れてもらえなかった。ノブさんは「初めてしまったんだからしかたがない」という。この仕事をやりたい、というのは判る。しかし、同居でなくてアパートから通うべきだ、と指摘した。
1981年の5月の連休には、疲労と心労で入院したノブさんの看病で休みが終った。ほぼ毎週、休みのたびに久雄と英子の間で、彼らとノブさんとの間でいざこざがあって、電話で呼び出された。
年末にかけて、妻が出産のため母親のもとで生活するため伏拝に移るも、妹英子は截ちハサミをナイフのように振りかざして、「お前をこの家に置かない。出て行け」と妊産婦の姉を脅すに及んで、私はすかさず荷物をまとめて妻を川俣に連れかえった。
女のヒステリーなるものを見た最初であった。
84年から、川俣から原町へ転勤させていた。私自身も原町に活の拠点を設けて、高校の講師をつとめ、自営の新聞と雑誌を経営した。この間に、青い顔をして夜中に原町の家の玄関先に、英子が亡霊のように立っていたことが二回ほどある。夫婦関係が険悪であるのはすぐわかった。
久雄が外で女遊びをくりかえし、その心配ごとを相談されるのは当然だが、英子が妊娠中に暴力をふるったらしく、病院に入院するという事態になり、見舞いに行ったときに「本当のところはどういう気持ちなのか」と尋ねたら英子は「別れたい」と答えた。しかし未練があったのだろう。
今回、義母の葬儀を終えた晩に、私らが別れたのは。あんたらにも責任があるんだからね」と、わたしたちに対して責め始めた。恨みを持っていたようである。何でも他人のせいにするうちは、自分の人生の主人公にはなれないだろう。

参考資料①
1989年1月提出の上申書

人身保護請求裁判の時の、吉田ノブの裁判所への上申書コピー。仏壇に大切に保管してあった。よほど心に残っていたものと思われる。安齋弁護士の助言により、係争中のため、ノブさんは緊急にまとめた。公判は毎週水曜日に開催され、そのたびに原町から呼び出されて同伴した。福島まで1時間半。ここから高速道路で小山まで行き、新幹線で急行した弁護士を小山駅でひろって下館の家庭裁判所まで行き、そこで公判。毎週その繰り返しである。帰りは逆のコースで、伏拝のノブさん宅で愚痴の聞き役をして慰撫してから、私はさらに福島から原町まで帰宅する。たいてい夜遅くなる。それも自分の妻と家族を必死で護るためだった。

参考資料②
1988年末から1989年1月にかけての状況
「わが離婚裁判体験記」に仮名でメモ代わりに書いた。これはブラジル滞在中、同郷者を歴訪取材する合間に、観光とショッピングの時間を削って執筆した。先に2月なかばに日本へ帰国する友人に原稿を託して、成田空港から郵送してもらって、3月号に掲載。執筆にあたっては、ノブさんが予定表や備忘録としてメモをびっしり書きこんだカレンダーを借りて、そのままブラジル中を持って歩いていた。

1989年5月 詩集「花吹雪」にこめられたノブさんの思い
「花吹雪」という詩集に収められた「沈黙」という一編に、当時のノブさんの苦渋に満ちた感情がにじんでいる。

 沈黙

本当の苦しさは
沈黙の中にある

本当の辛さは
沈黙の中にある

それを背負い続ける
沈黙がある

 しかし、ノブさんは沈黙してはいなかった。こうして詩集に、折々の作品として記録しつづけ語り続けていた。古くからの詩人交流のあった宮町の高橋新二氏に全編に目を通してもらい、序文を寄稿してもらった。序文の中で、新二氏は作者の気持ちを代弁している。もちろん、「沈黙」ということの具体的な内容すなわち家庭的ないざこざに関しても詳細に熟知していた。まだ、この段階では、ロマンチスト女流詩人としてのリズムが残っていた。ものをかく人間は、こうして人生経験を昇華してゆく方法で、自己を表白しながら、みずからを慰めるのである。

花吹雪
夢が散る
情が散る
そんな気がする
花吹雪

気力が散る
生が崩れる
そんな気がする
花吹雪

この詩集「花吹雪」は、原町に住んでいたわたしのもとに手書きの草稿の段階で郵送してきたので、誤字などを校正した。ノブさんは平成元年5月に印刷して発表した。7月の県の文学賞に応募するスケジュールに合わせたものである。
その後、1990年には「こんな人生」「最後のアルバム」というタイトルで次々に手稿をまとめ、わたしに印刷を依頼されたので、富士通ワープロで印字し、印刷したものをコピーしてみずから綴じて冊子にした。

1990年 詩集「最後のアルバム」の詩篇
もはや文学の香りは失せていた。生活記録メモをわかち書きにしたような詩篇が並んでいる。ノブさんにといって、貴重な自分の人生をいろどる最後の世界が、詩集であった。
 

 判決
 
時代の波に乗ったように
起きてしまった次女の離婚問題
たとえ離婚裁判であっても
法廷に立つ時の気持ちの重さは・・・・
2年も続くうちには
信頼しなければならない弁護士さんに
時間がかかりすぎると、つっかかる娘
「我ままですみません・・・」
と侘びながらも、
「弁護士さんはお金持ちの坊ちゃんだから
弁護士さんの道に進んだようですね」
そんな冗談まで言ってしまう・・・
「大丈夫ですよ・・・」
弁護士から見たら二人のもがきは
わかり過ぎていたに違いない
昨年の暮れ、下妻での
人身保護裁判の時も
寒風の中を四回も同行してくれた
おだやかで人情味のある
弁護士さんである
  〇
又、何ごとが起きてもすぐ駆けつけ
協力してくれる長女夫妻!

蔭に陽に力になってくれる
PTA会長さん達や保護者達!
又は、生まれて間もないうちから
二人の孫の世話を依頼し
今は園児のバス送迎を依頼している
道向かいに住むご夫妻の協力!
語り合いをしてくれる私・娘の友人
又は2年間、何をおいても
裁判の傍聴を続けてくれた
兄・妹・長男・甥たち!
そうした多くの人々に助けられ
きょう! 裁判長の鋭利な判断による
判決が下されたのである
    〇
判決の結果はすべて良かった
親権者も娘と決まったが
こどもにとっては父親は父親!

成人になるまで春、夏、冬に五日間の
面接交渉は続くことになり
これまでの裁判関係の書類の整理に
数ヶ月はかかるということであった

家庭内暴力の萌芽
ここに書かれた通り、親権を失っても面会権を主張する石橋家には、年に3回、二人の子供があずけられた。最初は福島市まで子供を迎えにきた久雄だったが、そのうちに子供だけを新幹線に乗せるように指示して来たようである。裁判で決められた養育費の支払いは一度も護られなかった、と聞いている。裁判当時に2才だった息子は、まだ幼なくて2つの家庭の関係も状況もわからないので、茨城に連れて行かれて、短い間でも親戚が遊園地に連れて行かれ、ごちそうを食べさせられ、高額の小遣いを貰って単純に喜んで、福島の家に帰ってくると、はしゃいでこれを報告する。英子は、「一年中いったい誰があんたらの世話をして食べさせているのか!」と、感情を抑えることが出来ない。その結果として夫への怒りからヒステリックに子供を叱りつけ、子供達が傷つく、という悪循環を数年間継続しながら思春期をむかえる。その都度、われわれは義母から相談を受けて、幼児の成長発達について助言をしてきたつもりであるが、結果として二人の子供は、生活態度に放縦な他人の家に入り浸りになって、自分の家庭での愛情に飢えていったようである。
私にとって、わざわいは、ノブさんからの電話から始まる。
英子の海外旅行中に、息子の家庭内暴力の萌芽がみられた。電話ですぐ来て、というので、老齢の義母を心配してかけつけると、夏休みに台所のガラス戸がこなごなになって、床に割れていた。英子の海外旅行は毎年のように一人ででかける。母親にかまってもらえないことから、息子の家庭内暴力が噴出したようである。そして娘の非行が顕在化しつつあった。
ベストセラーの「積木崩し」に描かれたとおり、夫婦の亀裂が家庭の崩壊を招き、子供たちの非行へまっしぐら。家庭は積み上げた積み木のように、絵に描いたように、みごとに崩れて行く。

参考資料③
1995年の家庭状況

「政経東北」の社長から原稿テーマを示して依頼されて書いた「お父さんが知らない怖い話」は、1995年に発行されている。

スーパーマーケットには、いくつかの評価基準があるが、低い(子供の)視点から見て、万引きしやすい店と、しにくい店とがあるという。
店員教育がきちんとしていて、あらゆるケースに対するマニュアルが整備して万全であれば、おのずと店の対応にもスキがなくなる。
最近では、家庭の事情や子供の発達に配慮するというより、万引きで甚大な被害を出していて、警察に通報するのは。ごく一般的である。
 ノブさんからの電話で、英子の子供達が「警察沙汰」を起こしたという連絡を受けた最初の事件は、この年であった。まず年長の娘に、非行のサインが出ていた。
 「万引き」行為というのは、家族に対する「もっと愛情が欲しい」「かまってくれ」「助けてくれ」の意味なのだ。
 一緒に万引きした娘の母親から「ベニマル店を訴えてやろう」と相談されたが、どうしたらよいだろうか、訴えないほうがいいだろうね、とノブさんから尋ねられて、唖然としてしまった。もはや、この頃から、警察沙汰、学校内での補導などが常習化してきて、家庭内の教育力は麻痺状態であった。

 参考資料④
1997年の家庭状況。福島民報、3月の福島一中の卒業式で4人の生徒が校長室にとどめられて出席停止されたケースである。長女の歯止めがきかなくなった。ここまでくるまでに何度も教師から補導されている。そのたびに英子は「学校の対応が悪い。教師が悪い」と、ヒステリックに主張していた。
そのたびにノブさんから電話が来る。英子に対しては静かに「社会で、そのような物言いは通用しない」と諌めても、聞く耳を持たず、かえって反発する。

 1999年11月、英子の長男がまた盗みで逮捕された。器物破損で商店のテント看板にスプレーでいたずら書きをしたため、弁償をせまられて金額を支払う。また学校で映画上映のために機材を入れていたプロジェクターを蹴って壊し、業者との間で示談。弁済。その繰り返しであったが、その後、バイクのバッテリーを窃盗して逮捕されるなど、警察に逮捕されるのはこれで何度目かのことなので、福島県警婦人少年室の専門家は、少年の鑑別所行きを宣告。
 「こちらで引き取ります。年末年始の2週間、少年刑務所に送るか、家庭に戻すかを判断するのに様子を見ますから、きょうはお母さんはお帰りください」といわれて、英子は、はじめてことの重大さに驚き、帰宅して号泣し、半狂乱となった。
 今までは、ここの婦人少年室に呼び出されても、しおらしく泣いて頭を下げていれば、娘のときにも息子のときも、すぐに引き取れたのだ。いっとき、我慢すれば子供を取り戻せるつもりだったのだろう。
 年末には、息子も連れてのハワイ旅行を予定していたが、これをキャンセルするのか思えば、翌年3月に延期の手続きをしたようだ。

 12月1日に鑑別所入りが決まったようだ。メモがある。
 2000年12月3日(手紙文から)

 すばらしい日曜日でした。
 今日はおだやかな天候で、きのうから過ごしやすかった。
 ゆうべは長女夫妻と一緒に、食堂に寄っての夕食でした。
 ブラジル行きのメンバーの顔ぶれに息子も加わって、こないだは横浜行きでも一緒だったから。一周間をそれぞれに暮しながら、また顔を合わせるという和やかさは、静かな喜びですね。
特に金曜日に、家裁の審判が下りて、義妹の息子の鑑別所送致が決まったということもあったので、夫婦以外のものに言うわけにもいかず、内に憂いを秘めつつも、それぞれの家庭は、それぞれに週末を過ごすことになる、土曜日の夕方には義母の家にも行ってきました。長い間の、甘やかしと放置の結果を今、刈り取らねばならないのを、目の当たりにして、言うべきことばもないのですが。
すなわち鑑別所送致が決まったのが3日前、12月1日であることがわかる。

 英子の息子の非行が、男親の不在によるためと思ったのかどうか、英子は年があけてすぐ行動したのは、12年間どこでどのように生活していたのかもわからない、かつて離婚裁判までして離縁した相手の男を呼び寄せて、復縁するという思いもよらぬ行動だった。
 12年の不在も、養育費もいらない。これまでのことはすべて水に流せる、というのだから、やはり未練がずっとあったのだろう。頼りたいときに思いついたのが、昔の男だったというわけだ。子供の父親なのだから、と。

 2001年の2月に、一枚のはがきが届いて、復縁したという内容であった。
実はその前に、ノブさんから「あんたら二人で届に証人として判子を捺してくれ」という電話がきた。
 「判は捺しません。前回の離婚裁判と同じような地獄になるのが心配です。幼稚園で働くのなら、免許を取るべきですし、しばらく様子を見たらいいでしょう。同居でなく通ってもらったらどうなんですか。本人たちが復縁するのに反対できませんが、なんでまた養子に戻すのですか。わざわざ裁判までして家から出したものをまた戻すなんて、あとに災いを残すようなことをなぜするんですか。」
 わたしの対応は、ノブさんの気に入らなかったらしい。
 「あんたらじゃなくっても、判子なんか誰だって捺せるんだからね!」というなり、電話が切れた。
 その後、別な県から、久雄が国民年金と社会保険を払っていなかったので請求がきた、40数万円を払ってやった、というノブさんから電話がきた。
 あ~あ。久雄はなんと運の良い放蕩息子なんだろう。

 2001年6月メモ
ふりかえれば20数年間、同じような電話を受け取り続けてきた。
 最初の数年は、毎日がおろかしさと、いきどおりと、無念さで、胸をかきむしられるような思いばかりしてきた。

 2001年6月9日(手紙文から)
 季節は同じ経過をたどり、同じ庭に同じ花が咲きますけれども、すこしずつ、先輩たちを見送り、また肉親も、妻の伯父がなくなり、わたしの伯父もあと半年という宣告をうけ、友人の伯父の訃報をきき、まさにそんな年齢なのでしょう。
 愛するものとの別れではあっても、ヨハネの黙示録の、うるわしい真珠の門のおとぎ話を、すなおに信じつつ、すなおというより、老化のような気もしますが・・・・。

2001年6月23日(手紙文から)
 娘夫妻を我が家に招いての一緒の夕食をしました。夕刻、次女を駅まで迎えに行ったついでに、惣菜屋で中華とサラダのバイキング形式でおかずを買ってきて、並べただけのテーブルでしたが、妻にすれば休日手が抜けるし、みんなで囲んでの食卓はそれだけでご馳走で、たまの惣菜屋のものも、オードブルの大皿に盛られて豪華に見えて「パーティだね」と、はしゃぐのも、子供たちの喜ぶのもいい感じでした。
 食べてる途中で、電話がかかってきた。おばあちゃんからの電話で、内容はいつもの恒例の愚痴だった。
 久雄(英子の夫)が、車や何やかやと、すべての名義を自分のものに書き換えていること、警察が来て、それをノブさん自身の名義に戻してくれたことなど、なのだが、どこまで本当の話なのか判らない。
 英子を連れてゴルフに行った、というのだが、面白くなくて憂げ口のような電話なのだ。「うんうん、そうかい、そうかい」と、ただこちらは聞くだけなのだが、前にも我が家で団欒の会食をしていたときにも、同じような電話がかかっ
てきたことがあった。
 みずから蒔いた種を、再び育てて、同じ災いをふりまいている義母を見て、もはやあわれみもなく、淡々と聞くだけだ。だって、どうしようもないことなのだから。 わたしたちの立場についての説明と、これまでの経過

ノブさんの長女と結婚してすぐ、幼児園をスタートさせて間もなく「久雄と英子が家出したので助けてくれ」との電話を受けて、いそぎ福島に急行。真夜中に蓬莱団地の子供の家の場所を確認し順路を覚えて、翌朝2人が不在のまま、保育をした。
昼前までには戻ってきたが、2人とも保育には加わらず、けっきょくこの日は、仕事を放棄したのである。福島で幼稚園を手伝うということで、ノブさんが、ひきとった格好であるが、命令されることが面白くなかったのか。母親を困らせてやれ、という態度のようだった。地域の子供と保護者に対する責任を放棄した。なんで私が尻拭いをせねばならぬのか。新婚時代も、最初から休日などなく、毎週が、義母と義妹夫婦にふりまわされて災いの連続だった。
こういう状況では、幼稚園を経営すること自体を継続すべきでないと主張したが、ついぞ聞き入れてもらえなかった。ノブさんは「初めてしまったんだからしかたがない」という。この仕事をやりたい、というのは判る。しかし、同居でなくてアパートから通うべきだ、と指摘した。
1981年の5月の連休には、疲労と心労で入院したノブさんの看病で休みが終った。ほぼ毎週、休みのたびに久雄と英子の間で、彼らとノブさんとの間でいざこざがあって、電話で呼び出された。
年末にかけて、妻が出産のため母親のもとで生活するため伏拝に移るも、妹英子は截ちハサミをナイフのように振りかざして、「お前をこの家に置かない。出て行け」と妊産婦の姉を脅すに及んで、私はすかさず荷物をまとめて妻を川俣に連れかえった。
女のヒステリーなるものを見た最初であった。
84年から、川俣から原町へ転勤させていた。私自身も原町に活の拠点を設けて、高校の講師をつとめ、自営の新聞と雑誌を経営した。この間に、青い顔をして夜中に原町の家の玄関先に、英子が亡霊のように立っていたことが二回ほどある。夫婦関係が険悪であるのはすぐわかった。
久雄が外で女遊びをくりかえし、その心配ごとを相談されるのは当然だが、英子が妊娠中に暴力をふるったらしく、病院に入院するという事態になり、見舞いに行ったときに「本当のところはどういう気持ちなのか」と尋ねたら英子は「別れたい」と答えた。しかし未練があったのだろう。
今回、義母の葬儀を終えた晩に、私らが別れたのは。あんたらにも責任があるんだからね」と、わたしたちに対して責め始めた。恨みを持っていたようである。何でも他人のせいにするうちは、自分の人生の主人公にはなれないだろう。

参考資料①
1989年1月提出の上申書
人身保護請求裁判の時の、吉田ノブの裁判所への上申書コピー。仏壇に大切に保管してあった。よほど心に残っていたものと思われる。安齋弁護士の助言により、係争中のため、ノブさんは緊急にまとめた。公判は毎週水曜日に開催され、そのたびに原町から呼び出されて同伴した。福島まで1時間半。ここから高速道路で小山まで行き、新幹線で急行した弁護士を小山駅でひろって下館の家庭裁判所まで行き、そこで公判。毎週その繰り返しである。帰りは逆のコースで、伏拝のノブさん宅で愚痴の聞き役をして慰撫してから、私はさらに福島から原町まで帰宅する。たいてい夜遅くなる。それも自分の妻と家族を必死で護るためだった。

参考資料②
1988年末から1989年1月にかけての状況
「わが離婚裁判体験記」に仮名でメモ代わりに書いた。これはブラジル滞在中、同郷者を歴訪取材する合間に、観光とショッピングの時間を削って執筆した。先に2月なかばに日本へ帰国する友人に原稿を託して、成田空港から郵送してもらって、3月号に掲載。執筆にあたっては、ノブさんが予定表や備忘録としてメモをびっしり書きこんだカレンダーを借りて、そのままブラジル中を持って歩いていた。

1989年5月 詩集「花吹雪」にこめられたノブさんの思い
「花吹雪」という詩集に収められた「沈黙」という一編に、当時のノブさんの苦渋に満ちた感情がにじんでいる。

 沈黙

本当の苦しさは
沈黙の中にある

本当の辛さは
沈黙の中にある

それを背負い続ける
沈黙がある

 しかし、ノブさんは沈黙してはいなかった。こうして詩集に、折々の作品として記録しつづけ語り続けていた。古くからの詩人交流のあった宮町の高橋新二氏に全編に目を通してもらい、序文を寄稿してもらった。序文の中で、新二氏は作者の気持ちを代弁している。もちろん、「沈黙」ということの具体的な内容すなわち家庭的ないざこざに関しても詳細に熟知していた。まだ、この段階では、ロマンチスト女流詩人としてのリズムが残っていた。ものをかく人間は、こうして人生経験を昇華してゆく方法で、自己を表白しながら、みずからを慰めるのである。

花吹雪
夢が散る
情が散る
そんな気がする
花吹雪

気力が散る
生が崩れる
そんな気がする
花吹雪

この詩集「花吹雪」は、原町に住んでいたわたしのもとに手書きの草稿の段階で郵送してきたので、誤字などを校正した。ノブさんは平成元年5月に印刷して発表した。7月の県の文学賞に応募するスケジュールに合わせたものである。
その後、1990年には「こんな人生」「最後のアルバム」というタイトルで次々に手稿をまとめ、わたしに印刷を依頼されたので、富士通ワープロで印字し、印刷したものをコピーしてみずから綴じて冊子にした。

1990年 詩集「最後のアルバム」の詩篇
もはや文学の香りは失せていた。生活記録メモをわかち書きにしたような詩篇が並んでいる。ノブさんにといって、貴重な自分の人生をいろどる最後の世界が、詩集であった。
 

 判決
 
時代の波に乗ったように
起きてしまった次女の離婚問題
たとえ離婚裁判であっても
法廷に立つ時の気持ちの重さは・・・・
2年も続くうちには
信頼しなければならない弁護士さんに
時間がかかりすぎると、つっかかる娘
「我ままですみません・・・」
と侘びながらも、
「弁護士さんはお金持ちの坊ちゃんだから
弁護士さんの道に進んだようですね」
そんな冗談まで言ってしまう・・・
「大丈夫ですよ・・・」
弁護士から見たら二人のもがきは
わかり過ぎていたに違いない
昨年の暮れ、下妻での
人身保護裁判の時も
寒風の中を四回も同行してくれた
おだやかで人情味のある
弁護士さんである
  〇
又、何ごとが起きてもすぐ駆けつけ
協力してくれる長女夫妻!

蔭に陽に力になってくれる
PTA会長さん達や保護者達!
又は、生まれて間もないうちから
二人の孫の世話を依頼し
今は園児のバス送迎を依頼している
道向かいに住むご夫妻の協力!
語り合いをしてくれる私・娘の友人
又は2年間、何をおいても
裁判の傍聴を続けてくれた
兄・妹・長男・甥たち!
そうした多くの人々に助けられ
きょう! 裁判長の鋭利な判断による
判決が下されたのである
    〇
判決の結果はすべて良かった
親権者も娘と決まったが
こどもにとっては父親は父親!

成人になるまで春、夏、冬に五日間の
面接交渉は続くことになり
これまでの裁判関係の書類の整理に
数ヶ月はかかるということであった

家庭内暴力の萌芽
ここに書かれた通り、親権を失っても面会権を主張する石橋家には、年に3回、二人の子供があずけられた。最初は福島市まで子供を迎えにきた久雄だったが、そのうちに子供だけを新幹線に乗せるように指示して来たようである。裁判で決められた養育費の支払いは一度も護られなかった、と聞いている。裁判当時に2才だった息子は、まだ幼なくて2つの家庭の関係も状況もわからないので、茨城に連れて行かれて、短い間でも親戚が遊園地に連れて行かれ、ごちそうを食べさせられ、高額の小遣いを貰って単純に喜んで、福島の家に帰ってくると、はしゃいでこれを報告する。英子は、「一年中いったい誰があんたらの世話をして食べさせているのか!」と、感情を抑えることが出来ない。その結果として夫への怒りからヒステリックに子供を叱りつけ、子供達が傷つく、という悪循環を数年間継続しながら思春期をむかえる。その都度、われわれは義母から相談を受けて、幼児の成長発達について助言をしてきたつもりであるが、結果として二人の子供は、生活態度に放縦な他人の家に入り浸りになって、自分の家庭での愛情に飢えていったようである。
私にとって、わざわいは、ノブさんからの電話から始まる。
英子の海外旅行中に、息子の家庭内暴力の萌芽がみられた。電話ですぐ来て、というので、老齢の義母を心配してかけつけると、夏休みに台所のガラス戸がこなごなになって、床に割れていた。英子の海外旅行は毎年のように一人ででかける。母親にかまってもらえないことから、息子の家庭内暴力が噴出したようである。そして娘の非行が顕在化しつつあった。
ベストセラーの「積木崩し」に描かれたとおり、夫婦の亀裂が家庭の崩壊を招き、子供たちの非行へまっしぐら。家庭は積み上げた積み木のように、絵に描いたように、みごとに崩れて行く。

参考資料③
1995年の家庭状況
「政経東北」の社長から原稿テーマを示して依頼されて書いた「お父さんが知らない怖い話」は、1995年に発行されている。

スーパーマーケットには、いくつかの評価基準があるが、低い(子供の)視点から見て、万引きしやすい店と、しにくい店とがあるという。
店員教育がきちんとしていて、あらゆるケースに対するマニュアルが整備して万全であれば、おのずと店の対応にもスキがなくなる。
最近では、家庭の事情や子供の発達に配慮するというより、万引きで甚大な被害を出していて、警察に通報するのは。ごく一般的である。
 ノブさんからの電話で、英子の子供達が「警察沙汰」を起こしたという連絡を受けた最初の事件は、この年であった。まず年長の娘に、非行のサインが出ていた。
 「万引き」行為というのは、家族に対する「もっと愛情が欲しい」「かまってくれ」「助けてくれ」の意味なのだ。
 一緒に万引きした娘の母親から「ベニマル店を訴えてやろう」と相談されたが、どうしたらよいだろうか、訴えないほうがいいだろうね、とノブさんから尋ねられて、唖然としてしまった。もはや、この頃から、警察沙汰、学校内での補導などが常習化してきて、家庭内の教育力は麻痺状態であった。

 参考資料④
1997年の家庭状況。福島民報、3月の福島一中の卒業式で4人の生徒が校長室にとどめられて出席停止されたケースである。長女の歯止めがきかなくなった。ここまでくるまでに何度も教師から補導されている。そのたびに英子は「学校の対応が悪い。教師が悪い」と、ヒステリックに主張していた。
そのたびにノブさんから電話が来る。英子に対しては静かに「社会で、そのような物言いは通用しない」と諌めても、聞く耳を持たず、かえって反発する。

 1999年11月、英子の長男がまた盗みで逮捕された。器物破損で商店のテント看板にスプレーでいたずら書きをしたため、弁償をせまられて金額を支払う。また学校で映画上映のために機材を入れていたプロジェクターを蹴って壊し、業者との間で示談。弁済。その繰り返しであったが、その後、バイクのバッテリーを窃盗して逮捕されるなど、警察に逮捕されるのはこれで何度目かのことなので、福島県警婦人少年室の専門家は、少年の鑑別所行きを宣告。
 「こちらで引き取ります。年末年始の2週間、少年刑務所に送るか、家庭に戻すかを判断するのに様子を見ますから、きょうはお母さんはお帰りください」といわれて、英子は、はじめてことの重大さに驚き、帰宅して号泣し、半狂乱となった。
 今までは、ここの婦人少年室に呼び出されても、しおらしく泣いて頭を下げていれば、娘のときにも息子のときも、すぐに引き取れたのだ。いっとき、我慢すれば子供を取り戻せるつもりだったのだろう。
 年末には、息子も連れてのハワイ旅行を予定していたが、これをキャンセルするのか思えば、翌年3月に延期の手続きをしたようだ。

 12月1日に鑑別所入りが決まったようだ。メモがある。
 2000年12月3日(手紙文から)

 すばらしい日曜日でした。
 今日はおだやかな天候で、きのうから過ごしやすかった。
 ゆうべは長女夫妻と一緒に、食堂に寄っての夕食でした。
 ブラジル行きのメンバーの顔ぶれに息子も加わって、こないだは横浜行きでも一緒だったから。一周間をそれぞれに暮しながら、また顔を合わせるという和やかさは、静かな喜びですね。
特に金曜日に、家裁の審判が下りて、義妹の息子の鑑別所送致が決まったということもあったので、夫婦以外のものに言うわけにもいかず、内に憂いを秘めつつも、それぞれの家庭は、それぞれに週末を過ごすことになる、土曜日の夕方には義母の家にも行ってきました。長い間の、甘やかしと放置の結果を今、刈り取らねばならないのを、目の当たりにして、言うべきことばもないのですが。
すなわち鑑別所送致が決まったのが3日前、12月1日であることがわかる。

 英子の息子の非行が、男親の不在によるためと思ったのかどうか、英子は年があけてすぐ行動したのは、12年間どこでどのように生活していたのかもわからない、かつて離婚裁判までして離縁した相手の男を呼び寄せて、復縁するという思いもよらぬ行動だった。
 12年の不在も、養育費もいらない。これまでのことはすべて水に流せる、というのだから、やはり未練がずっとあったのだろう。頼りたいときに思いついたのが、昔の男だったというわけだ。子供の父親なのだから、と。

 2001年の2月に、一枚のはがきが届いて、復縁したという内容であった。
実はその前に、ノブさんから「あんたら二人で届に証人として判子を捺してくれ」という電話がきた。
 「判は捺しません。前回の離婚裁判と同じような地獄になるのが心配です。幼稚園で働くのなら、免許を取るべきですし、しばらく様子を見たらいいでしょう。同居でなく通ってもらったらどうなんですか。本人たちが復縁するのに反対できませんが、なんでまた養子に戻すのですか。わざわざ裁判までして家から出したものをまた戻すなんて、あとに災いを残すようなことをなぜするんですか。」
 わたしの対応は、ノブさんの気に入らなかったらしい。
 「あんたらじゃなくっても、判子なんか誰だって捺せるんだからね!」というなり、電話が切れた。
 その後、別な県から、久雄が国民年金と社会保険を払っていなかったので請求がきた、40数万円を払ってやった、というノブさんから電話がきた。
 あ~あ。久雄はなんと運の良い放蕩息子なんだろう。

 2001年6月メモ
ふりかえれば20数年間、同じような電話を受け取り続けてきた。
 最初の数年は、毎日がおろかしさと、いきどおりと、無念さで、胸をかきむしられるような思いばかりしてきた。

 2001年6月9日(手紙文から)
 季節は同じ経過をたどり、同じ庭に同じ花が咲きますけれども、すこしずつ、先輩たちを見送り、また肉親も、妻の伯父がなくなり、わたしの伯父もあと半年という宣告をうけ、友人の伯父の訃報をきき、まさにそんな年齢なのでしょう。
 愛するものとの別れではあっても、ヨハネの黙示録の、うるわしい真珠の門のおとぎ話を、すなおに信じつつ、すなおというより、老化のような気もしますが・・・・。

2001年6月23日(手紙文から)
 娘夫妻を我が家に招いての一緒の夕食をしました。夕刻、次女を駅まで迎えに行ったついでに、惣菜屋で中華とサラダのバイキング形式でおかずを買ってきて、並べただけのテーブルでしたが、妻にすれば休日手が抜けるし、みんなで囲んでの食卓はそれだけでご馳走で、たまの惣菜屋のものも、オードブルの大皿に盛られて豪華に見えて「パーティだね」と、はしゃぐのも、子供たちの喜ぶのもいい感じでした。
 食べてる途中で、電話がかかってきた。おばあちゃんからの電話で、内容はいつもの恒例の愚痴だった。
 久雄(英子の夫)が、車や何やかやと、すべての名義を自分のものに書き換えていること、警察が来て、それをノブさん自身の名義に戻してくれたことなど、なのだが、どこまで本当の話なのか判らない。
 英子を連れてゴルフに行った、というのだが、面白くなくて憂げ口のような電話なのだ。「うんうん、そうかい、そうかい」と、ただこちらは聞くだけなのだが、前にも我が家で団欒の会食をしていたときにも、同じような電話がかかってきたことがあった。
 みずから蒔いた種を、再び育てて、同じ災いをふりまいている義母を見て、もはやあわれみもなく、淡々と聞くだけだ。だって、どうしようもないことなのだから。
わたしたちの立場についての説明と、これまでの経過

ノブさんの長女と結婚してすぐ、幼児園をスタートさせて間もなく「久雄と英子が家出したので助けてくれ」との電話を受けて、いそぎ福島に急行。真夜中に蓬莱団地の子供の家の場所を確認し順路を覚えて、翌朝2人が不在のまま、保育をした。
昼前までには戻ってきたが、2人とも保育には加わらず、けっきょくこの日は、仕事を放棄したのである。福島で幼稚園を手伝うということで、ノブさんが、ひきとった格好であるが、命令されることが面白くなかったのか。母親を困らせてやれ、という態度のようだった。地域の子供と保護者に対する責任を放棄した。なんで私が尻拭いをせねばならぬのか。新婚時代も、最初から休日などなく、毎週が、義母と義妹夫婦にふりまわされて災いの連続だった。
こういう状況では、幼稚園を経営すること自体を継続すべきでないと主張したが、ついぞ聞き入れてもらえなかった。ノブさんは「初めてしまったんだからしかたがない」という。この仕事をやりたい、というのは判る。しかし、同居でなくてアパートから通うべきだ、と指摘した。
1981年の5月の連休には、疲労と心労で入院したノブさんの看病で休みが終った。ほぼ毎週、休みのたびに久雄と英子の間で、彼らとノブさんとの間でいざこざがあって、電話で呼び出された。
年末にかけて、妻が出産のため母親のもとで生活するため伏拝に移るも、妹英子は截ちハサミをナイフのように振りかざして、「お前をこの家に置かない。出て行け」と妊産婦の姉を脅すに及んで、私はすかさず荷物をまとめて妻を川俣に連れかえった。
女のヒステリーなるものを見た最初であった。
84年から、川俣から原町へ転勤させていた。私自身も原町に活の拠点を設けて、高校の講師をつとめ、自営の新聞と雑誌を経営した。この間に、青い顔をして夜中に原町の家の玄関先に、英子が亡霊のように立っていたことが二回ほどある。夫婦関係が険悪であるのはすぐわかった。
久雄が外で女遊びをくりかえし、その心配ごとを相談されるのは当然だが、英子が妊娠中に暴力をふるったらしく、病院に入院するという事態になり、見舞いに行ったときに「本当のところはどういう気持ちなのか」と尋ねたら英子は「別れたい」と答えた。しかし未練があったのだろう。
今回、義母の葬儀を終えた晩に、私らが別れたのは。あんたらにも責任があるんだからね」と、わたしたちに対して責め始めた。恨みを持っていたようである。何でも他人のせいにするうちは、自分の人生の主人公にはなれないだろう。

参考資料①
1989年1月提出の上申書
人身保護請求裁判の時の、吉田ノブの裁判所への上申書コピー。仏壇に大切に保管してあった。よほど心に残っていたものと思われる。安齋弁護士の助言により、係争中のため、ノブさんは緊急にまとめた。公判は毎週水曜日に開催され、そのたびに原町から呼び出されて同伴した。福島まで1時間半。ここから高速道路で小山まで行き、新幹線で急行した弁護士を小山駅でひろって下館の家庭裁判所まで行き、そこで公判。毎週その繰り返しである。帰りは逆のコースで、伏拝のノブさん宅で愚痴の聞き役をして慰撫してから、私はさらに福島から原町まで帰宅する。たいてい夜遅くなる。それも自分の妻と家族を必死で護るためだった。

参考資料②
1988年末から1989年1月にかけての状況
「わが離婚裁判体験記」に仮名でメモ代わりに書いた。これはブラジル滞在中、同郷者を歴訪取材する合間に、観光とショッピングの時間を削って執筆した。先に2月なかばに日本へ帰国する友人に原稿を託して、成田空港から郵送してもらって、3月号に掲載。執筆にあたっては、ノブさんが予定表や備忘録としてメモをびっしり書きこんだカレンダーを借りて、そのままブラジル中を持って歩いていた。

1989年5月 詩集「花吹雪」にこめられたノブさんの思い
「花吹雪」という詩集に収められた「沈黙」という一編に、当時のノブさんの苦渋に満ちた感情がにじんでいる。

 沈黙

本当の苦しさは
沈黙の中にある

本当の辛さは
沈黙の中にある

それを背負い続ける
沈黙がある

 しかし、ノブさんは沈黙してはいなかった。こうして詩集に、折々の作品として記録しつづけ語り続けていた。古くからの詩人交流のあった宮町の高橋新二氏に全編に目を通してもらい、序文を寄稿してもらった。序文の中で、新二氏は作者の気持ちを代弁している。もちろん、「沈黙」ということの具体的な内容すなわち家庭的ないざこざに関しても詳細に熟知していた。まだ、この段階では、ロマンチスト女流詩人としてのリズムが残っていた。ものをかく人間は、こうして人生経験を昇華してゆく方法で、自己を表白しながら、みずからを慰めるのである。

花吹雪
夢が散る
情が散る
そんな気がする
花吹雪

気力が散る
生が崩れる
そんな気がする
花吹雪

この詩集「花吹雪」は、原町に住んでいたわたしのもとに手書きの草稿の段階で郵送してきたので、誤字などを校正した。ノブさんは平成元年5月に印刷して発表した。7月の県の文学賞に応募するスケジュールに合わせたものである。
その後、1990年には「こんな人生」「最後のアルバム」というタイトルで次々に手稿をまとめ、わたしに印刷を依頼されたので、富士通ワープロで印字し、印刷したものをコピーしてみずから綴じて冊子にした。

1990年 詩集「最後のアルバム」の詩篇
もはや文学の香りは失せていた。生活記録メモをわかち書きにしたような詩篇が並んでいる。ノブさんにといって、貴重な自分の人生をいろどる最後の世界が、詩集であった。
 

 判決
 
時代の波に乗ったように
起きてしまった次女の離婚問題
たとえ離婚裁判であっても
法廷に立つ時の気持ちの重さは・・・・
2年も続くうちには
信頼しなければならない弁護士さんに
時間がかかりすぎると、つっかかる娘
「我ままですみません・・・」
と侘びながらも、
「弁護士さんはお金持ちの坊ちゃんだから
弁護士さんの道に進んだようですね」
そんな冗談まで言ってしまう・・・
「大丈夫ですよ・・・」
弁護士から見たら二人のもがきは
わかり過ぎていたに違いない
昨年の暮れ、下妻での
人身保護裁判の時も
寒風の中を四回も同行してくれた
おだやかで人情味のある
弁護士さんである
  〇
又、何ごとが起きてもすぐ駆けつけ
協力してくれる長女夫妻!

蔭に陽に力になってくれる
PTA会長さん達や保護者達!
又は、生まれて間もないうちから
二人の孫の世話を依頼し
今は園児のバス送迎を依頼している
道向かいに住むご夫妻の協力!
語り合いをしてくれる私・娘の友人
又は2年間、何をおいても
裁判の傍聴を続けてくれた
兄・妹・長男・甥たち!
そうした多くの人々に助けられ
きょう! 裁判長の鋭利な判断による
判決が下されたのである
    〇
判決の結果はすべて良かった
親権者も娘と決まったが
こどもにとっては父親は父親!

成人になるまで春、夏、冬に五日間の
面接交渉は続くことになり
これまでの裁判関係の書類の整理に
数ヶ月はかかるということであった

家庭内暴力の萌芽
ここに書かれた通り、親権を失っても面会権を主張する石橋家には、年に3回、二人の子供があずけられた。最初は福島市まで子供を迎えにきた久雄だったが、そのうちに子供だけを新幹線に乗せるように指示して来たようである。裁判で決められた養育費の支払いは一度も護られなかった、と聞いている。裁判当時に2才だった息子は、まだ幼なくて2つの家庭の関係も状況もわからないので、茨城に連れて行かれて、短い間でも親戚が遊園地に連れて行かれ、ごちそうを食べさせられ、高額の小遣いを貰って単純に喜んで、福島の家に帰ってくると、はしゃいでこれを報告する。英子は、「一年中いったい誰があんたらの世話をして食べさせているのか!」と、感情を抑えることが出来ない。その結果として夫への怒りからヒステリックに子供を叱りつけ、子供達が傷つく、という悪循環を数年間継続しながら思春期をむかえる。その都度、われわれは義母から相談を受けて、幼児の成長発達について助言をしてきたつもりであるが、結果として二人の子供は、生活態度に放縦な他人の家に入り浸りになって、自分の家庭での愛情に飢えていったようである。
私にとって、わざわいは、ノブさんからの電話から始まる。
英子の海外旅行中に、息子の家庭内暴力の萌芽がみられた。電話ですぐ来て、というので、老齢の義母を心配してかけつけると、夏休みに台所のガラス戸がこなごなになって、床に割れていた。英子の海外旅行は毎年のように一人ででかける。母親にかまってもらえないことから、息子の家庭内暴力が噴出したようである。そして娘の非行が顕在化しつつあった。
ベストセラーの「積木崩し」に描かれたとおり、夫婦の亀裂が家庭の崩壊を招き、子供たちの非行へまっしぐら。家庭は積み上げた積み木のように、絵に描いたように、みごとに崩れて行く。

参考資料③
1995年の家庭状況

「政経東北」の社長から原稿テーマを示して依頼されて書いた「お父さんが知らない怖い話」は、1995年に発行されている。

スーパーマーケットには、いくつかの評価基準があるが、低い(子供の)視点から見て、万引きしやすい店と、しにくい店とがあるという。
店員教育がきちんとしていて、あらゆるケースに対するマニュアルが整備して万全であれば、おのずと店の対応にもスキがなくなる。
最近では、家庭の事情や子供の発達に配慮するというより、万引きで甚大な被害を出していて、警察に通報するのは。ごく一般的である。
 ノブさんからの電話で、英子の子供達が「警察沙汰」を起こしたという連絡を受けた最初の事件は、この年であった。まず年長の娘に、非行のサインが出ていた。
 「万引き」行為というのは、家族に対する「もっと愛情が欲しい」「かまってくれ」「助けてくれ」の意味なのだ。
 一緒に万引きした娘の母親から「ベニマル店を訴えてやろう」と相談されたが、どうしたらよいだろうか、訴えないほうがいいだろうね、とノブさんから尋ねられて、唖然としてしまった。もはや、この頃から、警察沙汰、学校内での補導などが常習化してきて、家庭内の教育力は麻痺状態であった。

 参考資料④
1997年の家庭状況。福島民報、3月の福島一中の卒業式で4人の生徒が校長室にとどめられて出席停止されたケースである。長女の歯止めがきかなくなった。ここまでくるまでに何度も教師から補導されている。そのたびに英子は「学校の対応が悪い。教師が悪い」と、ヒステリックに主張していた。
そのたびにノブさんから電話が来る。英子に対しては静かに「社会で、そのような物言いは通用しない」と諌めても、聞く耳を持たず、かえって反発する。

 1999年11月、英子の長男がまた盗みで逮捕された。器物破損で商店のテント看板にスプレーでいたずら書きをしたため、弁償をせまられて金額を支払う。また学校で映画上映のために機材を入れていたプロジェクターを蹴って壊し、業者との間で示談。弁済。その繰り返しであったが、その後、バイクのバッテリーを窃盗して逮捕されるなど、警察に逮捕されるのはこれで何度目かのことなので、福島県警婦人少年室の専門家は、少年の鑑別所行きを宣告。
 「こちらで引き取ります。年末年始の2週間、少年刑務所に送るか、家庭に戻すかを判断するのに様子を見ますから、きょうはお母さんはお帰りください」といわれて、英子は、はじめてことの重大さに驚き、帰宅して号泣し、半狂乱となった。
 今までは、ここの婦人少年室に呼び出されても、しおらしく泣いて頭を下げていれば、娘のときにも息子のときも、すぐに引き取れたのだ。いっとき、我慢すれば子供を取り戻せるつもりだったのだろう。
 年末には、息子も連れてのハワイ旅行を予定していたが、これをキャンセルするのか思えば、翌年3月に延期の手続きをしたようだ。

 12月1日に鑑別所入りが決まったようだ。メモがある。
 2000年12月3日(手紙文から)

 すばらしい日曜日でした。
 今日はおだやかな天候で、きのうから過ごしやすかった。
 ゆうべは長女夫妻と一緒に、食堂に寄っての夕食でした。
 ブラジル行きのメンバーの顔ぶれに息子も加わって、こないだは横浜行きでも一緒だったから。一周間をそれぞれに暮しながら、また顔を合わせるという和やかさは、静かな喜びですね。
特に金曜日に、家裁の審判が下りて、義妹の息子の鑑別所送致が決まったということもあったので、夫婦以外のものに言うわけにもいかず、内に憂いを秘めつつも、それぞれの家庭は、それぞれに週末を過ごすことになる、土曜日の夕方には義母の家にも行ってきました。長い間の、甘やかしと放置の結果を今、刈り取らねばならないのを、目の当たりにして、言うべきことばもないのですが。
すなわち鑑別所送致が決まったのが3日前、12月1日であることがわかる。

 英子の息子の非行が、男親の不在によるためと思ったのかどうか、英子は年があけてすぐ行動したのは、12年間どこでどのように生活していたのかもわからない、かつて離婚裁判までして離縁した相手の男を呼び寄せて、復縁するという思いもよらぬ行動だった。
 12年の不在も、養育費もいらない。これまでのことはすべて水に流せる、というのだから、やはり未練がずっとあったのだろう。頼りたいときに思いついたのが、昔の男だったというわけだ。子供の父親なのだから、と。

 2001年の2月に、一枚のはがきが届いて、復縁したという内容であった。
実はその前に、ノブさんから「あんたら二人で届に証人として判子を捺してくれ」という電話がきた。
 「判は捺しません。前回の離婚裁判と同じような地獄になるのが心配です。幼稚園で働くのなら、免許を取るべきですし、しばらく様子を見たらいいでしょう。同居でなく通ってもらったらどうなんですか。本人たちが復縁するのに反対できませんが、なんでまた養子に戻すのですか。わざわざ裁判までして家から出したものをまた戻すなんて、あとに災いを残すようなことをなぜするんですか。」
 わたしの対応は、ノブさんの気に入らなかったらしい。
 「あんたらじゃなくっても、判子なんか誰だって捺せるんだからね!」というなり、電話が切れた。
 その後、別な県から、久雄が国民年金と社会保険を払っていなかったので請求がきた、40数万円を払ってやった、というノブさんから電話がきた。
 あ~あ。久雄はなんと運の良い放蕩息子なんだろう。

 2001年6月メモ
ふりかえれば20数年間、同じような電話を受け取り続けてきた。
 最初の数年は、毎日がおろかしさと、いきどおりと、無念さで、胸をかきむしられるような思いばかりしてきた。

 2001年6月9日(手紙文から)
 季節は同じ経過をたどり、同じ庭に同じ花が咲きますけれども、すこしずつ、先輩たちを見送り、また肉親も、妻の伯父がなくなり、わたしの伯父もあと半年という宣告をうけ、友人の伯父の訃報をきき、まさにそんな年齢なのでしょう。
 愛するものとの別れではあっても、ヨハネの黙示録の、うるわしい真珠の門のおとぎ話を、すなおに信じつつ、すなおというより、老化のような気もしますが・・・・。

2001年6月23日(手紙文から)
 娘夫妻を我が家に招いての一緒の夕食をしました。夕刻、次女を駅まで迎えに行ったついでに、惣菜屋で中華とサラダのバイキング形式でおかずを買ってきて、並べただけのテーブルでしたが、妻にすれば休日手が抜けるし、みんなで囲んでの食卓はそれだけでご馳走で、たまの惣菜屋のものも、オードブルの大皿に盛られて豪華に見えて「パーティだね」と、はしゃぐのも、子供たちの喜ぶのもいい感じでした。
 食べてる途中で、電話がかかってきた。おばあちゃんからの電話で、内容はいつもの恒例の愚痴だった。
 久雄(英子の夫)が、車や何やかやと、すべての名義を自分のものに書き換えていること、警察が来て、それをノブさん自身の名義に戻してくれたことなど、なのだが、どこまで本当の話なのか判らない。
 英子を連れてゴルフに行った、というのだが、面白くなくて憂げ口のような電話なのだ。「うんうん、そうかい、そうかい」と、ただこちらは聞くだけなのだが、前にも我が家で団欒の会食をしていたときにも、同じような電話がかかってきたことがあった。
 みずから蒔いた種を、再び育てて、同じ災いをふりまいている義母を見て、もはやあわれみもなく、淡々と聞くだけだ。だって、どうしようもないことなのだから。