伊達の劇場群
伊達郡の芝居小屋の中にも、すでに忘れられた保原町の新栄座というのが明治にあった。明治41年と大正5年に新劇場建設の機運が高まったがそのたびに有耶無耶になり実現しなかった。大正初期には保盛座という劇場が活動写真を上映して活動していた。
保原劇場は大正9年に出来た。
川俣には明治21年生まれの川俣座と、大正9年10月生まれの川俣中央劇場とがあった。
飯野町には明治38年に同町の観音寺で初めて活動写真がカーバイト光源で上映されたという。同年、高橋達之助外三名の共同経営で飯野村大字飯野字境川に共楽座という館ができた。大正3年から高橋個人の経営となり、同年に初の電気映写機で「日蓮上人」「新馬鹿大将」などの活動写真上映がおこなわれた。トーキーが初めて上映されたのは昭和8年2月、共楽座で。朝日新聞社の巡回映画班が「多門師団凱旋ニュース映画」を映した。翌9年10月5日には満州国独立記念公園建設資金募集映画会が開催された。(「飯野町の歩み」年表)
改築はされたが、今なお建物が残っている。
月館(小手村)には清月座という館があった。明治39年に福島育児院の少年活動写真隊が日露戦争の実写フィルムを巡回上映したなかに小手村の「月館座」という名が登場する。これがその清月座のことだろう。
霊山町(旧伊達郡掛田町)には管仁座という昭和初期から50年代まで維持した小屋があり、建物が現存する。管野仁太郎という創立者の名を冠した珍しい館である。「霊山町史」には〔掛田地区は大正元年に電話開通、二年に映画上映を開始〕とある。
〔管野仁太郎(明治十八年生)は掛田の裏西岡に適地を得て、やがて観客数百を迎え入れられる管仁座を開場し、昭和五十年まで維持した。そこは演劇・映画の興業場でもあり、政談演説から郷土芸能にいたるまでの集いに利用された。〕という。
藤田村(現在の国見町)には、錦座という館の名前が大正の頃の新聞に登場する。昭和になって、藤田劇場の名で登場。戦後は藤田演劇場(管野常助)の名で生き残った。
松川には松楽座が大正13年に開館。
桑折座(桑折劇場)、藤田座(藤田劇場・錦座)、梁川広瀬座など、養蚕ブームで景気の良かった明治に出来た館に、大正生まれの新館が加わり、福島の周辺に伊達の劇場群がある。
広瀬座、天戸座、松楽座、管仁座などは家族が愛情こめて保存してきたために建物が残ったのだ。
劇場は人間の顔を持っている。共同体や経営者の性格や運命をも反映するからだ。だから現代の文化ホールや文化センターには、時代を反映して無個性の顔が多い。
それに比べると、大正時代以降の映画館の顔は、看板絵かハリボテのように平面的で立体感がなく、いかにもあやしい雰囲気に満ちていた。
映画自体が銀幕という平面に映し出される虚構世界なのだから、それは似つかわしかった。大正と昭和戦前の映画館には舞台がついており、花道さえある館もあって、実際、芝居をやったり町民大会もやった。
しかし戦後ともなると、演劇は映画に駆逐され滅んだ。映画館は安普請で雨後のタケノコのように日本国中に乱立した。
戦後の映画最盛期にも、明治大正の館は生き残り、新時代のフィルムを上映いたのである。
劇場はメデイアである。巨大な仕掛けの、夢の工場だった。共同体の魂がそこに生きていた。映画の歴史とはいえ、劇場の歴史にも言及する本稿のねらいは、そのあたりにある。
保原忘己館の参入
大正6年の福島新聞によると保原町に新劇場が参入した。
10.26.{忘己館(保原町)伊達郡保原町九丁目大久保イシ並に桑島貞治の両氏は同町に娯楽場のなきを憂ひて多額の私財を投じて建築中なりし常設館は此程竣成認可申請中なりしが今回認可されたるを以て郷社神明宮秋季例祭に旧劇市川照蔵一行を招き落成祝をなし華々敷開場五日間毎夜盛況なりしが今回は周年の蛇を上演し本人囃子幸太郎並に一条浄連師を熱演実物大蛇を使用して観客に供すべしと}
保原劇場の舞台開き
大正9年5月5日、保原劇場の開館披露式が実に華やかに行なわれた。
「保原劇場 五日舞台開き」(民友5月3日)〔延若八百蔵一座が乗込む 伊達郡保原町有志等は地方階月の一手段としてさきに保原劇場を計画せしが三万円の株主組織として社長に松田栄之助、専務熊坂邦雄、取締に佐藤幾之助、管野洋吉、小林吉兵衛、太宰保次郎、遠藤貞二、鑑査役に青柳平内、木村岩次、栗原安次郎の諸氏を揚げ昨年九月より工事に着手し建築は伊東国治氏内部の造作は乃村泰資氏をして担当せしめ爾来八ヶ月を経て要約竣工したるより、落成祝ひを兼ね舞台開きとして東京松竹会社の専属歌舞伎幹部俳優実川延若、中村雀右衛門の一行片岡愛之助、浅尾開十郎、実川雁蔵、林女長、実川八百蔵、中村芝太郎、実川延枝等八十七名の大一座を聘し来る五日より四日間開演する事となりたる〕
5月7日民友。〔保原劇場の舞台開き 延若と=雀右衛門の人気 不景気の風は 何処を吹く〕の続報がある。
〔青い麦畑の間を縫ふて、歌舞伎役者の浅黄の旗が、折柄ふ□みふ□ずみの愚月の空になびいてゐるのは宛がらの美しい叙景詩である。伊達郡保原町有志発起の下に地方開発の一手段として建設された資本金三万円の保原劇場の開館は芽出度一昨日、さうした美しい叙景詩的の背景裡に華々しく差右所の幕が切って下ろされた、館は凡そ一千五百名を収容し得るとの噂だが、当日は観客が一杯で鮨詰の光景それに保原、梁川辺の芸者がそこここに陣取って一層の景気を添へる(後略)〕とある。