ふくしま映画100年

博徒と孤児の背中が映搖籃だった
庶民は日露戦争を同時代に目撃した

明治三十年七月三十日午後七時、福島町の駅前万歳館という寄席で、シネマトグラフ・リュミエール映写機による活動写真の上映会が開かれた。ちょうど今から百年前。これが福島県で初めての映画であった。
明治三十七年に、福島侠義団を名乗る博徒吉田佐次郎が県内を巡回上映したのが福島の映画普及ことはじめ。さらに侠義団の機材一式を受け継いだ福島育児院活動写真隊が資金集めのために県内を巡回興行し続けた。孤児や貧児もみずから少年音楽隊や弁士として参加し、県内の草深い山道を分け入り潮風吹く浜街道を徒歩で踏破した。日露戦争という国家一大事を実写したフィルムを尋常小学校や芝居小屋で見せたのが国民をさらに沸かせた。映画を普及させた力は第一に戦争だった。また飯坂出身の高松豊次郎は社会改革の夢に燃えて映画興行師となり、初期日本映画界に独自の功績を残した。

映画より弁士の方が偉かった。しかしトーキーは弁士と東北弁を葬った。

大正は常設館のブーム。日本独特の弁士の存在は映画作品よりも偉かった。人々は映画の題名より人気弁士の名前で集まった。しかし昭和初期から十年代にかけてのトーキー普及は、無声映画時代のスターを駆逐し弁士の職を奪った。あるものは東北弁の壁ゆえに役者生命を絶たれた。

戦争は映画を模倣する
戦ふ映画館が日本臣民を創造した

そしてまたも戦争。ナチスの映画政策に倣った昭和14年の「映画法」によって、戦地のニュース映画が農村を巡った。映画普及の第二の推進力もまた戦争であった。銀幕に写った兵士のなかに民衆は肉親の姿を求めた。写された映画は朗らかで元気な将兵が常に勝つというもので、疲れて眠りこける兵士や戦火に苦しむ中国人民衆の真実の姿を写した幻の反戦映画「戦ふ兵隊」は軍に没収され監督亀井文夫は太平洋戦争の開戦を前に逮捕投獄された。
戦争は映画を模倣した。映画は真実を写すものでなく、意図をもって特定のイメージを伝える。民衆の戦争イメージは映画によって作られた。それが昭和十四年の映画法の真実の目的だった。

夢見る力と批評する目
歴史を見据え歴史を超える映像

「ハワイマレー沖海戦」で円谷英二の特撮は「事実」に肉薄し、実写を超える技術と効果を示した。亀井文夫の戦中戦後の一連の反骨ドキュメンタリーは、戦争でも変節せぬ良心を示した。両者は、映画の本質を考えさせるうえで深い意味を持つ。夢見る力と映像を創造する力、真実を見つめて屈しない批判力こそが映画を支える大きなエネルギーである。
古くは鈴木伝明から現在の西田敏行まで、女優なら水戸光子から最近の岡本綾まで福島県出身の俳優は映像の世界で活躍。映画音楽で親しまれた古関裕而など忘れがたい才能もきら星のごとくきらめいている。
才能ある映画人と、感動に飢えた民衆の間で激しく発火する「映画」が時代を写してきた。また移ろいゆく故郷の豊かな自然と働くものの喜怒哀楽の姿を記録してきた。

映画館の死は地域の死

住民のメディアとしての映画館の死は、地域の死だった。
かつて公共の場であった劇場は、大正時代に常設館として映画館に変貌した。どこの町にも存在した映画館が戦後の映画ブームで娯楽の中心となったが、娯楽の多様化で斜陽化し次々に閉鎖された。
しかし、映画は二十世紀の魔法である。デジタル衛星放送やインターネットの登場で、未来の映像世界は人類の第二の現実になりつつある。「フラ・ガール」で福島はロケーションの天国であることを証明したうえ、同作品はキネマ旬報ベストテンの第一位を射止めた。映画は滅びず。福島の映画の百年目。次の百年をいきるための夢と希望を我々に与え続けてくれるだろう。

活動写真がやってきた

映画は二十世紀の魔法である。
1995年12月27日は、フランスのリュミエール兄弟が、世界初の映画会を開いてから百年目の日だった。
百年前のパリ。グラン・カフェに集まった人々は、画面に映った汽車が蒸気を吐いて駅に到着する様子に圧倒され、思わず椅子から腰を浮かせた。
映画の発明者は、有名な発明王エジソンということになっているが、彼が発明したのはキネト・スコープというのぞき見る式の、箱型機械だった。一度に一人の人間しか見られない代物で、実に短期間ですたれてしまった。
リュミエール兄弟が発明したのはのは映写式機械で、映写幕に上映する方式。我々が持っている「映画」の概念に当てはまる故をもって、1995年が映画100年といわれたのだ。
しかし、19世紀末において発明された映画機械には多くの種類があり、光学研究者の仕掛け道具まで多種多様。
日本に映画が渡ってきたのは、1896年、明治29年のこと。別ルートで、エジソン式とリュミエール式の二タイプが輸入された。これらが初めて上映されたのは神戸、大阪。
これをもって日本初の映画元年といえる。これから数えて、1996年が日本映画百年になる。
初の上映は11月末のことだったが、これを記念して12月1日が映画の日とされている。(昭和31年制定)
福島県内における初めての映画上映は、その翌年の1897年(明治30年)のこと。来年で百年になる。

明治29年に神戸で日本初上映

活動写真。英語のムービング・ピクチャーあるいはモーション・ピクチャーをそのまま翻訳すると活動写真。日本に映画が入ってきたときに人々は映画を写真舞踊、自動写真、自動幻画・写真活動機・蓄動磯(撮影機)・見動機(映写磯)など、こう呼んだ。映画の発明史には実に多くの発明家や研究家が関わっているが、エジソン式の覗き型映画キネトスコープと、映写型の映画シネマトグラフがほぼ同時に日本上陸した。「日本映画史の研究」(塚田嘉信著・現代書館)によると、日本で最初の映画上映は明治29年(1896年)11月17日「神戸の高橋信治氏”写真活動器機”をもって”写真の舞踏”を小松宮殿下の御覧に供す」と当時の新聞にあり場所は宇治川の旅館常盤。11月19日、小松宮殿下御来神を伝えた神戸又新日報の記事に”活動写真”の文字が初めて登場。11月25日から12月1日にかけて神戸の神港倶楽部でキネトスコーブ(この時はニーテスコップという名称)が一般公開。これはエジソンが発明した箱型の覗き見式の映画である。12月3日には大阪へ進出し南地演舞場にて、さらに翌明治30年1月1日から再び二度目の興行に入った。2月15日からは南地演舞場で、別ルートで輸入されたリュミエール社のシネマトグラフが稲畑勝太郎氏の手で初公開された。これを追うようにエジソン社の映写式映画ヴァイタスコープも輸入され2月に歌舞伎座で初試写。神田錦輝館で3月から興行を行う。当時の映写機械は輸入と機種のルートによって稲畑系、吉沢系(シネマトグラフ)、荒木系、柴田系(ヴァイタスコープ)などがある。

東北初の上映は仙台座で
明治30年4月28日

東北で初めての映画上映は仙台座におけるシネマトグラフの映写で、明治30年4月28日のこと。当時の奥羽日日新聞は次のように報じている。
〔●活動写真の開会 過般来都人士の非常なる喝采を博し居る同写真会を近々当市に於て開会せんと目下夫々照会中の由なるが果して開会を見るに至らば大入大当りは請合なるべし〕(4月15日)
〔●興行物雑俎(だより)…●仙台座は明後二七目から活動大写真で開場する由にて建元白土某より交渉中〕(4月25日)(広告)〔仏国理学榑士リミュル氏発明活動大写真来ル廿七日向一週間六日午後五時開場於仙台座〕(4月25~30日)
〔●仙台座の活動大写真 学理上の一大新発明として殊に其変幻奇趣あるを以て目下欧米諸国に大流行を極め居る着色活動大写真は過般来東京の川上座に開場して貴顕紳士の好評を博し非常の大入大当りを取り到る所大喝采を得たりしが今回当市の牟翠館主針生惣助氏等相談の上仙台座に於て開場せんものと建元白土某氏に謀り愈々一昨日着仙したれば昨日同試験を為し今廿七日より一週間毎日午後五時より東四番丁同座に興行の事に極りたる由其如何に珍奇にして且つ興味あるかは一覧の上ならでは評し難きも始めての事〕(4月27日)
〔●活動大写真仙台座に於て開場の活動大写真は昨日よりの筈なりしも準備の都合にて一日延期愈々本日午後五時より開場と決したるが東京同様宮城音楽隊を請し奏楽を為し且つ一夜三十余種宛を顕すと云ふ〕(4月28日)
〔●活動大写真愈々昨日午後五時を以て仙台座に於て開場せしが兼て評判のありしとて観客も多く頗る好景気なりしと〕
(4月29日)
〔●活動大写真前号にも記載せる如く愈々一昨夜より仙台座に開場せしが同夜は初日のこととて十八種を顕はして打出しとせしも翌晩よりは三十種宛を顕はすとのこと而して同写真は人物禽獣等の行動嬉笑或は舞踊などする光景は勿論波浪の淘湧たる雲烟の揺曳する如き都(すべ)て真に迫り満場をして拍手喝采せしめたりと然れば今後の大入大当りは必然なるべしと云ふ〕(4月30日)

明治30年7月30日に
福島万歳館で県下初上映

福島県内で初めて映画が上映されたのは明治30年(1897)7月30日のことだ。明治20年に開通した鉄道のおかげで新しく開設された福島駅前の停車場通りには柳の木が植えられ、10年後の明治30年には通りのシンボルになっていた。旅館や商店が次々に立ち並び、ようやく道路両側をうめつくしたころだった。福島の夏は蒸し暑いが、この日にかぎっては午前中ずっと雨が降り、気温は最高でも午後2時に20.2度を記録しただけで、午後6時には18.3度。むしろ肌寒いタ方だった。風はなかった。駅前の柳の並木はだらりと枝を垂れて動かない。午後7時、人々は駅前の萬歳館(以下万歳館と記す)につどい始めていた。
その一帯は、明治20年12月に東北線が開通、福島駅を設置した際に開発された所で、それまでは一面たんぼだった。新しく道路を切り、停車場通りと名付けられた。万歳館跡は「鈴木堂二番地」という往所だったが、間もなく「栄町二十一番地」という地名に変わった。
当時の万歳館の間取りも分かっている。
明治31年9月16日に福島民報社の新社屋となったからだ。内部を改装して新社屋に移転したのだ。建物は寄席だったから、玄関を入ると正面に舞台、その手前には畳敷きの観客席、その左右は手すりを回して一段高くなった、これも客席だった。二階は中央が吹き抜けで、廻りに観客席があるという具合だった。この中央の吹き抜け部分に床を張って二階建てとしたが、寄席当時は、もちろん大広間であった。
当時の民報の広告をみると、福島県初の活動写真がどのようなものであったか分かる。

〔佛國理学博士リミエル氏発明各皇帝陛下観覧受
電気作用活動大写真到ル所拍手ヲ以テ迎ヘラル貴顕紳士淑女ニ宝賞ヲ得タルモノハ此活動写頁ナリ電気ノ作用ニヨリ種々ノ写真カ一丈余ノ大サニ映シ人ヤ獣ノ走ルモノ汽車ノ発着欧米市街ノ盛況騎兵ノ進軍凡テ現物通リ活動スルモノニシテ御来観ノ上御高評ノ程奉希望候当七月三十日ヨリ八月三日マテ晴雨共毎日午後七時開場ステーション前萬歳舘〕
明治30年7月30日の福島民報には、上のような広告が載っている。福島県で初めての映画上映の広告である。仏国理学博士リミエル氏発明(仙台座ではリミユル博士)といった表記から類推すると、仙台で上映された稲畑系シネマトグラフであろう。この上映の様子を、明治30年8月3日の民報は次のように報道している。
〔活動写真(萬歳舘) 萬歳舘の活動写真は中々の評判にて他の興行物より木戸銭などの随分高きに拘はらず 非常の入りにて毎夜大当たりなりと〕
萬歳舘(以下万歳館と記す)での上映はガス燈によるものだった。さらに対抗上、前年に新装なった新開座が大劇場の面子もあって同年10月18日に活動写真を上映し、これは電気映写による鮮明な映像で喝采をえた。
〔新開座の活動写真一昨夜より興行を始めたる当町新開座の活動写真ハ先般万歳館に於て瓦斯燈を以て興行したるものとは大に其趣を異にし仕組の大なるが大に電気を以て映画を鮮明ならしめ且つ興行中毎夜幾十種の変り種を活動せしめてお負に木戸銭も大人四銭小人三銭との安価なればにや一昨夜は四五百名の大入を占めたり多分引続き其人気を占むる事なるべく居ながら欧山米水に遊ぶの心地せらるるこそ面白けれ〕(民報10月20日)
明治30年に福島で上映された作品は人や獣が走るもの、汽車の発着、欧米市街の盛況、騎兵の進軍などだという。これらは最初期に撮影されたリュミエール社の実写フィルムである。弁士はまだつかなかった。
(これらのフィルムは、映画伝来百年を迎えた1996年に郡山市のリュミエール映画祭において上映された。)
最初の会場となった万歳館は福島駅前の寄席だったが、持主は上野屋洋物店主斎藤彦太郎といって当時の福島の有名人。これを鈴木千代吉という興行主が借りて経営していた。翌年の明治31年9月16日からは福島民報の新社屋として使われた。倒産寸前の同紙の経営を救うため原町出身の松本孫右衛門が社長となって就任早々の仕事が懸案だった社屋移転である。
〔主筆の石川欽四郎と久保蘇堂らが斎藤彦太郎に交渉したが、新聞社は金まわりが良くないから貸したくない、資産のある実業家なら貸してもいい、という返事。そこで石川らは松本孫右衛門の名前を出して、ようやくOKを取りつけた。松本の信用はたいしたものだった。〕(民報百年史)

映画以前の幻灯ブーム

日本での活動写真の登場の前に、すでに全国各地では幻灯会というスライド上映方式の観覧が流行しており、蚕業幻灯会、衛生幻灯会、教育幻灯会、機業奨励幻灯、宣教師によるキリスト教伝道などのテーマで、いずれも弁士つきで説明がなされ人気があった。会場はさまざまな場所で行われたが、学校でも寺院でも行われた。当然、芝居小屋でも行われた。明治26年11月2日の民報には「鹿島村鹿島座で幻灯会」という記事がある。相馬市史年表には大正3年に鹿島劇場ができた、とあるが、すでに鹿島には劇場が存在している。そこで明治26年10月26日午後6時から鹿島青年同盟会の主催による教育幻灯会が行われ、千人が見たという。明治27年には川俣座で幻灯会が行われ、千二百人を集めたという。原町では、明治29年に教育幻灯会が原町小学校で、35年2月に新祥寺で「雪中行軍大惨事幻灯会」が行われた。世に言う八甲田山事件の写真である。
鹿島劇場は、常磐線鹿島駅から歩いて五分ほどの町中にあり、戦後まで映画館として生き残った。川俣座は川俣町の曹洞宗の古刹常泉寺に入る橋のたもとにあった芝居小屋で、明治20年に出来た。原町の新祥寺は一本町の本町通りに面した曹洞宗の寺院で町に旦那集の集会場だった。
このほかにも日露戦争の幻灯会はさかんに行われている。日本人は明治20年代からすでに幻灯という手段で、暗闇の中で映像を眺める経験をしており、映画鑑賞の初体験の前の準備は出来ていた。
それでも、日露戦争の幻灯会は人気があった。
明治37年5月28日「鏡石の征露幻灯会」
6月29日「一昨夜の幻灯会 福島座」
9月1日の福島新聞は「湯野の戦争幻灯 衛生幻灯会」を報じており、9月4日は「福島公会堂で既報の如く 日露戦争の写画説明」とある。当時、スライドのことを写画と呼んだようだ。
福島県立図書館で福島民報と福島新聞、福島民友新聞のマイクロ・フィルムをずっとスクロールしてゆく。
私はタイムマシーンに乗っているような錯覚を覚えながら当時の幻灯会を追体験する。
11月17日「征露幻灯会 新開座」
12月3日「戦争幻灯会 相馬郡大野小学校」
12月18日「伯鶴師の講演 関根座」
などと県内各地で映写された。
38年になると4月9日「須賀川豊座 日露戦争の講談」、5月19日「安積部会の幻灯 福良小学校にて去十二日 今回購入せる日露戦争並教育の幻画」とあり。こちらでは幻画と呼んでいる。
さらに5月27日「祈祷・奉読・幻灯 日露戦争旅順背面の幻灯会 岩瀬郡羽鳥有志 湯本温泉場で」と報じている。
6月23日「幻灯会と寄付 郡山 日露戦争幻灯会」
7月16日「本宮朝日座の幻灯会 桜井博士の講話」
新聞は号外まで発行して戦況を逐一報道しており、目ざとい業者がパノラマ、ジオラマを作って見せる物も興行された。
しかし最大の見世物は日露戦争の実写映画であった。戦場を撮影した映像、日本海海戦の実況までが登場したのだ。
明治の活動写真界をリードした福島座

記念すべき福島県における映画第一号は、万歳館という料理店(当時定期的に浪曲など寄席が行われていた)で、ガス灯によって、第二号は電灯によって新開座という芝居小屋で上映されたが、明治30年代の映画は、ほとんど福島座がリードした。座主は飯岡秀雄。福島における映画普及史の最初の功労者である。「脱線飯岡」というあだ名をつけられた栃木県出身の興行師で、のち大正時代に福島劇場を創建する。
明治32年7月4日民報「福島座の活動写真」にこうある。
〔予報の如くいよいよ昨晩より蓋開となりしが右は従来単に興行物として各地に演じ来たりしも昨年は仏国リミュル(リュミエール)会社は今回特に仏国巴里に於て開催さるべき世界大博覧会へ出品する為め発明元なる技師を東洋に派遣し我邦の名勝風俗演劇等の実況を撮影せしめたるものを出品前本邦有名の各地に限り観覧に供するものの由さて日本の写真を演ずるは今回が始めての由なり写真は京都四条小橋の夜景、北海道土人の踊り、大阪梅田停車場の雑踏など技術極めて巧妙なるべき就中演劇の如きは取りも直さず日本中有名なる俳優を一同に集めたるものにて其一挙一動先に迫りて宛ながら其実況を見るが如き思ひあらん其他同会社より齋らし来れる斬新なる西洋写景数番を演ずる由なるが何れも我国人士の未た嘗て眼に触れざるものにして従来演じたるものに比すれば遙かに進歩したるものなりと云ふ日数は五日間にして日延はせざる由なり〕
このフィルムは、ジレルというフランス人青年が撮影した最古の日本の動く映像で、フランス政府から日本に寄贈され、平成の御代に映画百年を祝うリュミエール映画祭で上映された。白黒フィルムで無声だが鮮明である。江戸の情緒を残す日本各地の情景が、そこに映し出されている。
明治33年7月6日民報〔活動写真 福島座の同写真は開場以来可なりの好評にて見物人も多き方なるが一昨夜の如きは四五百名もありしならんとさて其写真は西洋に属する人物風景の活動は頗ぶる奇観を呈す日本の風物は如何なる訳にや朦朧(ぼんやり)としてさらに判明せざるは惜しむべし〕
初期の映画は光源の弱さから、チラチラした。日本での撮影は技術的にさらに低かった。

ボーア戦争と北清事変

「民友百年史」に明治33年の映画評が載っている。
「活動写真を観る」
〔パノラマ以上に真物に近きは活動写真である。名のごとく自在の活動を試みる点に於いて、にわかに愉快の感動を観者に与ふる力が強い。吾輩は昨夜、福島座の該写真を観たが、中にも戦争実況のごときは、これを観るもの胆寒く肉動くの感なきにあたわずで、爆竹の砲声と共に煙雲弾雨となり、その間に突貫する軍人の威勢はえらいものである。その他戦後の景況、赤十字の負傷者手当てなどは、いずれも国民教育の一端たらざるはなしであらう。かの馬の足の演劇、舞台の上で醜声を発する芝居など比べ物にならん。もちろん、吾輩は演劇、芝居好きなるが、当地に来る俳優には害ありの例が多いのをうらむ。高尚壮絶なる活動写真を観て、すこぶる愉快を感ずればなり。活動写真にて一つ残念なるは、多くは西洋製であって、わが国のもの稀なることである。聞く所によると、わが国の写真術が未熟なる所以とのこと。斯道の奮励を臨む。〕
明治33年は、ちょうどボーア戦争にあたり、南アフリカのオランダ系入植者とイギリス軍との戦争である。その記録フィルムも日本に入荷されているので、「戦争実況」「爆竹の砲声と共に煙雲弾雨となり、その間に突貫する軍人の威勢」「戦後の景況、赤十字の負傷者手当て」とはまさに南アフリカの戦争実写であろう。同じ年、北清事変が起きており日本も出兵した。そのフィルムも上映された。
日本で初めて日露戦争の映画が上映されたのは明治37年5月1日、東京の錦輝館でのこと。民友百年史年表ではこれを「ニュース映画第一号」とするが、すでに33年には外国の戦争(南アフリカのボーア戦争)が県内で上映されており(民友百年史の本文にある)、明治34年3月10日民友には〔福島座で北清事変のニュース活動写真公開入場料14銭〕とある。県内での第一号はボーア戦争、第二号は北清事変ニュースあたりだろう。
日清戦争は27年なので映画発明に間に合わず映画記録は存在しないが、日本の初期対外戦争の一である北清事変は動く映像、しかもカラーで国民に公開された。出征、戦死した兵士の肖像写真すら少ない時期であった。

天然色映画と蓄音機

「民友百年史」には「活動写真と発声器」と題する明治34年の記事も収録されている。
ただし原紙の見出しは「○福島座の活動写真」。
〔本日午後五時より福島座に於いて開場する活動写真は、北清事変の外、天然色写真北清地方戦争惨状、内外風景写真等を映し、余興の発声器には、竹本小清、団十郎の声、雲井竜雄の吟声を聞かしむる由。〕(3月10日)
カラーフィルムはまだ発明されておらず、天然色写真とは白黒フィルムに彩色したもの。発声器(蓄音機)はトーキーに先駆けて流布した。色彩と音声とは、映画の大きな課題だったが、きわめて早い時期から試行錯誤が繰り広げられている。しかし何より内容である。ソフト面では、日本の映画は数等レベルが低かった。西洋ものが主流なのは大正までずっと続く。

日露戦争と活動写真

福島県で初めて日露戦争のフィルムが上映されたのは、開戦した同じ明治37年のことで、ほかに東京の業者も興行したが、地元では福島の吉田佐次郎という侠客がこれを実行したのが最初だ。
吉田は、花月楼という料理屋を経営する博徒であったが、未曾有の国難に起った日本軍に共感をおぼえ、最初、戦争に従軍しようと希望したが容れられず、同じ博徒の伊藤某と福島侠義団という団体を作り、発憤して東京にのぼりリュミエール映写機と日露戦争の実況フィルムを買ってきて福島と周辺で巡回上映した。国のためにつくしたい、という素朴な義侠心から、軍関係の団体や孤児施設に収益金を寄付した。
これは明治43年に賭博の罪で捕縛された公判で、吉田が弁明した陳述によって明らかになった。これ以外に、吉田の青年時代の経歴は皆無だ。
興行を成功させるためには、各種の団体に呼びかけたがその中に軍事義会というのもあった。
福島新聞明治37年11月26日にこうある。

〔軍事義会と活動写真  前号の紙上にも記したる如く福島軍事義会に於ては今回侠義団吉田佐次郎と協議し同人が今回東京より斬新なる活動写真一千五百尺を購入し来れるを幸ひ福島座に開催し出征軍人家族援護寄附金を募らむと云ふ同義会は開戦以来出征軍人の家族救護並に通過軍人に物品供与其他に頗る尽力せるを以て要すべき費用も些少ならず支出のみ多くして収入の途薄きより維持方に困難を生ずるは当然にして同義会長始め役員会等は維持方法に心を労せられつつありしが吉田佐次郎は開戦後専ら国民後援の実を挙ぐるに努め活動写真器を自費にて購入し各地を巡遊して健忍持久の精神を鼓舞しつつある由を聞き同氏と協議し写真会を催ふす事となりしと会期は廿六七の二日間なりと〕
日露戦争の活動写真での上映は、このほか12月7日「活動写真会を開く 田村郡山根村小学校 征露戦争活動写真会 立錐の余地なく」と報じている。
また明治38年には続々と県下各地で行われた。
8月18日「福島座の活動写真会 一昨日より」これは後述する高松豊次郎のフィルム。
8月23日「福島座の活動写真会」
8月24日「日露戦争活動写真 説明者大島伯鶴」
8月29日「戦争活動」「活動写真会の収益」
8月30日「活動写真会収益金処分」
9月12日「中村で活動写真」
と続報がある。

中村座の活動写真上映

この当時、相馬地方の中心は相馬郡の首府は中村町である。この中村で早くも明治37年に最初の日露戦争の活動写真が興行される予告が出たが、これは詐欺であったらしく実現しなかった。
福島新聞明治37年10月20日。
「活動写真の悶着」という記事で、東京軍事活動写真会と称する横浜の人物と同伴六名が「去る十二日相馬郡中村町に乗り込み宇多川橋の東北側に小屋を出来十三日の夜より開会せしと時節柄日露戦争と云ふ声に何れも我れ後れじと詰掛けたるが其影画は古き外国戦争のものを用ゐたるかの疑ひあるのみならず末日の十五日には雨の中に開会し乍ら雨晴れたれば半ばにして忽ち閉会したるよし入場者は大に立腹し山師なり詐欺なりと叫び更に小屋より立ち去らざるを以て止むなく半札を配りたるも今日限りの興行に半札を配るは益々以て不埒なりとの攻撃鋭かりしより巡査も其場に出て結局木戸銭の半分を返して無事を得たりとの当初来れり兎に角近来世の人の戦争に熱中し居るに乗じ従軍実写なりとホラを吹て不都合なる活動写真を持ち歩くものあるやの趣なれば大に注意して此等のものに欺かれざる様なす可きなり」と報じている。
日露戦争は日本国中の話題を沸騰させ、その実写は各地で上映されたが、開戦の37年には戦争ど同時にすでに出回っていた。
東京方面からの業者のものもあり、その中には、インチキもあったようだ。(イギリスと南アフリカの)ボーア戦争の実写がすでに明治33年に公開されているから、これあたりかもしれない。
その翌38年、いよいよ相馬地方で最初の映画上映があった。

〔中村の活動写真
相馬郡中村町の定坐に於て去五日の夜より八日の夜迄日露戦役活動写真会を催ほせしに毎夜七余名の入観者ありて近来の盛会なりしと〕(明治38.9.20福島新聞)

定坐、というのは常設館という意味。宇多川橋のほとりの伊勢屋旅館のあたりにあった中村座というのがそれである。前年の小屋はこのあたりに立った。
伊勢屋旅館には、昭和初年に「丹下左膳」の原作者林不忘が宿泊したことがある。この界隈は、サーカスが興行されたりする場所だったという。のちに馬場になり、野菜市場になりした。
福島新聞も福島民報も、ともに現地からの手紙による投書を情報源にしたらしい。

福島侠義団

明治37年の日露戦争の時には全国の日本人が熱狂し、戦況を写した実写フィルムを見世物にする巡回興行が人気を博した。
県内を巡回して初めて映画を見せて歩いたのは、福島の遊郭娼楼主人で博徒の吉田佐次郎が中心となって組織した福島侠義団というグループであったが、明治37年から日露戦争の実写フィルムを購入し、これを見せて得た売上金から在郷軍人会に寄付したりしていた。軍人会の組織を利用し興行を成功させたのだ。
明治38年に東北大凶作があり、親が死んだり捨てられた孤児が増え、翌39年からは福島侠義団は細民救済慈善上映を謳い文句にして冷害被害者の孤児たちに寄付した。
39年6月から福島育児院の青山馨が同行し、青山はこの時の巡回上映について新聞に報告記事を載せている。40年には育児院が侠義団の器材も興行もすべて引き継いでいる。吉田が映写機、フィルム、テントすべて寄付した。
青山馨という名を手がかりに福島愛育園で古い職員名簿がないかどうかを尋ねたが、明治の頃のものはなく、職員に青山馨の名前に心当たりのある人物はなかった。日本のナイチンゲールと呼ばれた瓜生岩の巨大な陰の中で、職員も孤児も、影が薄い。
ただ躍動するが如き少年活動写真隊の、猛烈な県内移動興行の跡を新聞紙面で辿ることのみが、私に許された手がかりであった。
たいていは、小学校で上映会が開かれた。村長や校長など村の名士が挨拶し、日露戦役に従軍した軍役経験者が説明に立った。
時々は、市部の劇場で上映することもあり、かろうじて色彩がつくような印象がある。
しかし、もともとがテント持参の野外興行も敢行した一座である。吉田佐次郎も含め、青山馨の献身も、何かしらピューリタンのにおいがする。
国家危急の時に何かせずにおれない吉田と、孤児たちに付き従って資金稼ぎに邁進する青山馨の情熱とは、そのまま明治の日本の青年の熱を感じさせる。
そうして福島県各地の草いきれや、埃っぽい田舎道の塵埃や、海辺の磯の香りが漂ってくるのだ。
会津の雪を踏みしめ、浜街道の砂を踏みしめ、重いリュミエール映写機やテント幕を担ぎながら歩き続ける彼らの染み込んだ汗や、息づかい、頬の火照りまでを感じてしまうのだ。雪にしおれた草々や、夏の日差しを浴びた浜えんどうの花弁の揺らめきまで瞼に浮かんできた。
活動写真と日露戦争を同時代に体験した村人たちは、ほとんどが拍手と賛嘆の溜息で彼らを迎えた。大人も子供も珍しいリュミエール映写機に群がった。明治の夜は漆黒の闇であった。郡部にはまだ電気の通らない地区もあった。小学校は貧しい日本の最初の公共施設であり、ほかには寺院ぐらいの伽藍しか大きな建物はなかった。活動写真上映会の日は村の名士であった村長や校長、巡査、従軍経験者が居並び、村人が「国家」を身近に感ずる「ハレ」の日でもあった。
文明と国運とを運ぶ彼ら佐次郎たち、青山馨と少年たちに、喜びがなかったとは言えまい。それは明治に生きる者が味わった、共感と昂揚の感情である。
遠い平成の空間で、マイクロ・フィルム・リーダーの前で彼らと同じ時間を追体験しながら、かすかな空調の響きと、逐次刊行物の女性司書の打つパソコンのキー・タッチの音を耳にしながら、私は少年活動写真隊に、ほのかな憧れをいだいている自分を見いだすのだ。

博徒吉田佐次郎とは

吉田佐次郎は博徒であった。
佐次郎は伊達郡長岡村田町の吉田佐伝治の次男として明治4年8月8日に生まれた。
小学生の時に、担任の教師が新時代の洗礼を受けたクリスチャンで、この影響で、佐次郎は宿直室に自炊していた教師と同居し、自宅から米味噌をくすねて差し入れしたりして教師になついたという。
家は農を主に、蚕種業を副とし資産も家柄もともに上位を占め、特に父親は村会議員や学務委員をしていた。国学を好み、忠君愛国を任じていた。佐次郎は学制発布間もない小学校に学齢早々に入れられた。
佐次郎は幼時から才知にすぐれ悟りが早かったが、これが過ぎて学業は優秀でも素行点はいつもゼロだった。
小学生の時に佐次郎は究理学(物理学)が好きで、熱気球の原理を学校で習うや、自分たちで紙を持ち寄り工夫して飯粒で紙風船を張り合わせ、試しに寺の境内で飛ばして子供仲間で遊んでいたが、紙底に仕掛けた灯心から風船が燃えて、寺の屋根に燃え移り火事を出してしまった。友達はさっさと逃げたが、佐次郎は独り残され大声で「お寺が燃えるうッ」と騒いだ。寺の住職が「何ッ」と飛び出し、大人の手でもみ消すことができた。目玉の飛び出るほど叱られると思ったが、「お前が騒いだおかげで火事にならずによかった」とかえって誉められた。
「悪戯をして誉められたのは、あの時一度だけだった」と佐次郎は晩年に述懐している。
後年の義侠心の、片鱗がこの時芽生えたのであろうか。
博打と喧嘩はとにかく好きだったようで、この人物の喧嘩好きは異常である。人間との喧嘩ならまだ分かるが、この人はしばしば犬と喧嘩をしたという。しかも、少年の頃から晩年までやったらしい。
一体どういう人なのか。ともあれ彼の喧嘩の実例は、彼自身が証言している。晩年、彼は仙台の大学病院に入院したが、主治医の加藤博士の診断日にはいつも通って診療を受けていた。その時に、最新の犬との戦いを報告している。「今日は犬と喧嘩をして、尖端に水晶を入れた二十円ばかりのステッキを台無しにして仕舞った。僕は時折犬と喧嘩をするが、かつて負けたことがない。あれは打ったり殴ったりしてはダメだ。突くに限る。突かれると奴が参ってしまう。しかし、今日の奴は大きくもあり、また強情でもあって手応え者だった。何でも三本はたしかに入った。ことに最後の一本は口に入って歯が折れたのだが、それでも怯まない。口からダラダラ血を流しながらかかってくる。こっちは狙いを定めて力一杯に突くのだ。
この奮戦中に近所隣の人々が出て来て追い払ったので、この戦いはやめになったが、僕の十八かの時に、蚕種引きに行ったことがある。
何でも白川の五箇村と覚えている。そこで狂犬にかかられた。向こうは狂犬だから勝手が悪い。やむを得ず、奴に組みついて抱き上げた。抱き上げると犬くらい弱いものはない。ただあがくだけで、何の芸もない。しかし、話すと噛みつかれるから、そのまま水に入って、自分も沈んでぶくぶくさせてやった。奴も弱ったさ。そして放したら、一目散に逃げてしまった。
一体喧嘩は犬ばかりでない。勝とか負けるとか、あるいは死ぬの生きるのという考えがあっては負ける。きっと負ける。何でも勝敗とか生死とか、雑念を脱却し、超越して渾然一体、自分も喧嘩そのものになってしまわねば勝てぬ」
佐次郎の喧嘩哲学のようなものがここにある。勝海舟の「清川清話」に出てくる父親小吉のエピソードに似た印象の、ざっくばらんな喧嘩自慢や武勇伝である。高貴なる野蛮とでも呼ぶべきか。
佐次郎の喧嘩好きは、やがて絢爛たる時代を迎える。彼は回想して「当時は花札の扱いも知らなかったものが、ただ博打ぶちの親分と喧嘩をしたもんだから、博打ぶちの親分にしてしまったんだ。これもその時の傷だ」
と言って、佐次郎は内股の大きな傷を示したことがある。
これは福島御山の陰に棲む丸子の七という親分と命を賭けた喧嘩をした時のもの。
丸子の七は、堂々とした見るからに大親分らしい立派な風采だ。まことに龍虎の戦い。七の腕力は、遂に佐次郎を制して、一旦は組み敷いてしまった。しかし次の瞬間には佐次郎の機知と胆力でたちまち七をその場に倒すほどに滅茶苦茶に斬りつけた。
佐次郎は早くも姿を消した。そして七は担架に運ばれて医者のもとへ。手術を受けて「痛い、痛い」と子供のように叫んだという。
股の傷はこの時の勲章だ。
だからといって淡々としたもので、特別誇る訳でもなく、丸子の七には敬意を払って死ぬまで仕送りし、福島界隈を支配するにいたった。
佐次郎もみずから医者に出向いて大手術を受けたが、平然と雑談をしていたというから、まるで斬られた片腕を持って医者に行き、都々逸を唄っていたという森の石松のような男であった。ちなみに「東海遊侠伝」の石松は実在しないが、斬られた腕を持って医者に行ったというモデルになったブタ松という男の実話は存在する
福島町を征服した後は、今度は米沢地方に遠征を企て、同地を戦慄させたとか、丸子の七に復讐されて大怪我をして、気絶するような傷のまま自分で医者に赴いたとか、女郎屋で豪遊している時に凶状持ちとして、五、六人の抜刀巡査に包囲され、裏口から逃げる客を尻目に「べら棒め、抜き身など怖れていられるものか。五人でも十人でも構うことはない」と、わざわざ表口から大手を振って出ていったとか、武勇伝はいくらもある。
原型は、あのお寺での「逃げない精神」にありそうな気がする。

任侠道とは

幕末から明治にかけての侠客というのは、武士道のモラルがすたれた時代に、武士道の亜流として発生した任侠道という社会モラルの補完運動なのである。
武士の大小二刀の魂をはばかって、二本差しをせず、刀剣は脇に一本差しとした。
関八州の警察権が幕府から宿場の親分達に委任されていたように、統治の基本は自治形態であった。博徒の親分が十手をあずかっていたのである。悪党の親分に、小悪党を取り締まらせていた。
明治という近代国家が誕生して、警察権が中央地方の官吏に一元化されてしまうと、博徒はただの博徒になって、犯罪者扱いされたが、当の博徒は任侠道を実践する者だとうそぶき、憂国の国士を気取った。
次郎長も佐次郎も、その侠気はよく似ているが、次郎長の名前が全国に一般化した背景には、次郎長の後見人の山岡鉄舟(さらには明治天皇)という権威がかくれていたのに対して、佐次郎には伝記作家も権威のバックもなかった。
次郎長こと山本長五郎の養子となったいわき出身の後の愚庵、天田五郎という名文家の伝記によって講談、浪曲、映画になった次郎長に比して、東北一の大親分と言われ東北の次郎長のあだ名を貰いながらも伊達の佐次郎が歴史に埋もれた差は、そこにあった。

実業家吉田佐次郎の誕生

佐次郎が三十五歳の時、日露戦争が起こった。彼の熱血は、従軍志願に走らせた。しかし、こんな危険な男を外国の戦地にやったら大変だ。許可されなかったため、佐次郎は当時流行していた活動写真の映写機一式と日露戦争の実写フィルムを購入して、戦中の明治三十七年から県内を巡回上映し、軍人団や孤児院に寄付して回った。
さらには、福島鳳鳴会孤児院の少年活動写真隊に機材一式を譲渡している。侠気と慈善心は本物だった。
その一方で、瀬上の遊郭華月楼の主人として女郎達を働かせているのだから、何とも奇妙な話である。

女の涙におろおろ

佐次郎は、女の生き血を啜っていた破廉恥な人面獣だったのだろうか。それとも、聖愛さえいだいて慈善事業に奔走していた侠客だったのだろうか。複雑で、面白い人物だったことは確かである。
春は飯坂の花に遊び、秋は湯野の月にたわむれ、時には摺上川の涼風に浴衣を吹かせ、水鏡に映す粋な二つの姿の、その一つは佐次郎であった。ロマンスの数も一つや二つではない。紅灯緑酒美妓三千、盆踊りの太鼓に長夜の豪宴を張ることまたしばしば(延陵野人筆)であった。
「なんと言ったって、日に平均三百円ずつも入ったんだからね」
「スパイとしては、芸妓くらい重宝なものはない。僕は一時、官辺でも民間でも、その大なる機密という機密は悉く知ってたもんだ。それはみな、この芸者から得た材料だった」
と佐次郎は独語していた。
芸妓楼主人として、彼はビジネスと政治の情報の中枢にいて、これを最大の武器にしていたことがわかる。
この人、女の扱いにもたけていた。
「工女くらい使い易いものはない・・・」
とも語っていた。
佐次郎の所属する長岡基督教会は、工女らの信者の寄付献金で成り立っている。
伊達郡の主産業の製糸業は、十三、四歳の小娘たちの労働に支えられていた。母の死によって、佐次郎は更正時代を迎えた。小さな機業工場を始め、少女たちを使役してより、煩悶するようになった。丸子の七の腕力も、飯坂巡査の抜刀も屁の河童だったが、小娘たちの涙には弱った。
「たかがはな垂らしどもだ。それが叱れば泣く。黙って置けば遊ぶ。何とも手がつけられぬ。これには僕も困ってしまった。自分で自分の無能に呆れて、ただ嘆息するのみだった」
上京中に工女の一人の事故の電報に、この男はオロオロした。
「娘怪我したすぐ帰れ」というのである。
この一通の電報が佐次郎を変えた。
「この驚きと哀しみは彼ら少女の親にもあるのだ。これを忘れてはならぬと、この心をもって彼らに対した。
その善良さ、従順さは全く自分の手足のようであった。現に今もこの心で彼らに対してそうして彼らに話して聞かせる。ついこの間、会津に行った時にも、一同集めて話をしてきた。
僕はその親の心になって泣いて語れば、彼らも泣いて聞いている」という発言に続く「工女くらい使い易い・・・」の科白なのである。
佐次郎最後の大喧嘩は、事業界の大物大島要三に対するものだろう。中央資本でスタートした信達軌道株式会社が地方人に移管された時に、飯坂花水館の上席から雄弁をもって大島を引き下ろした。しかし、自分の勇は語らず、大島氏を退けながらも敬していわく、「何と言たって当時の大島君は県下の大立て者で、ことに全盛飛ぶ鳥を落とすの大勢力であった。そして僕は刑余の一貧漢にすぎぬ。それが僕の一言で『そうか』とすぐ立って(人力)車を命じた。さすが大島君だと敬服したもんだ」
と大物は大物の心を知っていた。
その後、吉田佐次郎は同社専務となり、電化事業を成功に導くことになる。
みずから刑余の貧漢と称するのは、法学を志し、東京へ飛び出し弁護士の書生となり、茨城県の某候補の選挙運動で打った斬ったの問題を起こし、独り有罪となって入獄して以来、福島では大賭博で検挙拘留を繰り返したことをさす。
しかし、佐次郎を最も有名にしたのは、震災後のいわゆる焼失生糸処分に関して天下の片倉組を向こうに回して、全国生糸業者代表として壇上にたったことである。
コップを割り、鮮血凛璃たる拳をふるってその非違を糾弾し、万丈の気を吐き、掛田製糸組合の整理問題に奔走し、その解決を見て世人の記憶に残った。
その訃報にいわく。
「正義の人吉田佐次郎氏は、予て病気にて東北医科大学付属病院に於て加療中の所薬石効なく遂に二月二十八日午後一時逝去した。吉田氏は関東以北切っての大親分であって、その声望隆々として一世を圧し各地に多くの子分が散在し、氏の命令一下水火の中も辞せざるものがあった。後キリスト教に帰依し権勢におもねらず、飽くまで正義人道を重んじ強きを挫き弱きを扶けるといった昔の豪傑肌の人物であった。竹を割ったやうな性格の、決して小策を弄せず、然諾を重んじ人の為めには一身を犠牲にしても敢て辞せぬ、侠気の人であった。
死ぬまで正気で家族には何等の遺言もなく授業に就て語る事があるとて全然関係の人のみを枕頭に座せしめたといふ事である」(民報)
信達軌道(福島電気鉄道)という会社はのちの福島交通である。大正13年に佐次郎は重役会で専務支配人に推薦されて就任している。開通したばかりの飯坂線の電化の事業半ばで倒れたのだ。
福島県の歴史に、福島交通の小田大蔵氏や小針暦二氏といった怪物級の事業家の名前は記憶されてゆくことだろう。しかし、その福島交通の基盤を作った佐次郎の魅力は、私利私欲のにおいが全くしない点だ。
彼の葬儀は、故郷の伊達郡長岡村(現在の伊達町)のキリスト教会で執行された。葬列は福島と伊達の信者で埋まり、長蛇のごとく献花は県下の錚々たる名士から、はたまた東北中の企業、壮士らから届けられた。
没した時の彼の肩書きは、見事なほどの成功者のものだった。
掛田倉庫株式会社社長、株式会社力進社社長(石城郡大浦村)、日本正準製糸株式会社会津工場監査役(会津若松)、掛田産業組合製糸場取締役、伊達運輸倉庫株式会社社長(長岡村)、福島電気鉄道株式会社専務、伊達自動車運輸株式会社常務、霊山電気株式会社取締役(霊山町)、などが彼の経営する企業群だ。
その経営手腕もさることながら、彼の一生をめぐっての侠客としての生き方、バクチとケンカで貫いたエピソードは、のちに東北一の大親分と称され、関東以北では清水の次郎長と並んで称賛された。明治期の文明開化の世に、新奇な文物に好奇の心でいちはやく取り入れ、実業の世界で活躍するなど、次郎長との共通点も多い。

佐次郎はクリスチャン

博徒というより侠客であった吉田は、意外な取り合わせなのであるが、信達地方で最も早い時期の明治19年に洗礼をうけたクリスチャンであったのだ。
15歳でためらわずアメリカ人宣教師ホーイの手でさっさと洗礼を受けている。明治という気風がいかに風通しがよかったか、それとも佐次郎の春風駘蕩の性格なのか。
日本基督教団福島伊達教会六十五年史「農村教会の歩み」というパンフレットによれば、進達地方の明治初期のキリスト教伝道史をひもときながら、長岡村の実業家佐藤儀四郎氏の動静に関係するエピソードとして、次のように記している。
〔佐藤氏が吉田佐次郎氏を相知るに至ったのもこの頃であった。其の後、吉田氏を事業顧問として着々事業経営に当たって居たのであるが、大正末期の経済界の大恐慌で遂に佐藤氏の会社も経営困難に陥り、工場を閉鎖するのやむなきに至った。誠に惜むべきことであった〕
さらに注記して「吉田佐次郎(一八七一~一九二六)明治四年八月長岡に生る。義侠心に富み、東北の侠客として知られた。明治十九年ホーイ師より受洗。福島電鉄創立、其の他、地方産業の開発に貢献された。」とある。
「福島伊達教会百年史年表」によれば、伊達教会文書を収録する形で、明治19年の項目に、こうある。
「月不明 吉田佐次郎、ホーイ師より保原講義所にて受洗」
講義所とは、当時のキリスト教会の呼び名。長岡にまだ教会堂がなく保原教会で洗礼を授かったことが分かる。
同じ年に、福島の先達鈬木三郎兵衛が、仙台基督一致教会の第三号として受洗している。
つまり、佐次郎はほとんど福島地方にキリスト教が伝わるやいなや、いち早く入信しているのだ。
4年前の15年には福島事件が起きている。
伊達町史第六巻資料編Ⅱ近代には「伊達小学校郷土史」が収録されており、長岡教会の創立は明治24年と記してある。
「名称 長岡日本基督教会
宗教 新教
設立者及其ノ沿革
明治二十四年十二月二十四日芳賀甚七田中太右衛門ノ主唱ニ下ニ長岡基督教講義所トシテ設立サレタモノニ始マル、現在ノ建物ハ佐藤儀四郎等ノ努力及ビ本部カラ若干ノ寄付ヲ仰イデ大正十四年十月ノ建立デアル、当時佐藤儀四郎ハ経営ニ当ッテ居タタメ女工等ノ信者モ少クナクナカッタ、本教会ノ諸経費ハ信者ノ寄付デ維持シテ居ル」

伊達地方は、養蚕が盛んで幼い女性が一人前に働き、キリスト教会の会堂も、こうした女たちで溢れた。彼女たちの献金の小銭が地方の文化を育てたのだ。伊達の初期教会も劇場もこうした働く女達を背景に建立された。

第三の日露戦争活動写真

吉田佐次郎による日露戦争活動写真の巡回上映と、後述する高松豊次郎のフィルム上映にも属さない系統の独自の上映が安達郡新殿村の安斎極氏らの手で行われている。第三の上映といってよい。
明治38年10月15日〔○教育活動写真披露式 安達郡新殿村大字西新殿安斎極氏外数名にて今般教育に関する活動写真器一式を購入せるにより披露を兼ね軍人遺族を慰藉せんと其れぞれ招待状を発し公衆一般にも無料にて縦覧に供すべき案内状を配り且つ区内は楽隊にて広告に練り廻り去る十□日の夜西新殿小学校内を借り受け同式を挙げしに同地方始めての事なれば同村内は勿論二三里近村の老若男女引きも切らず来り会する者無慮二千余名に達し入場者満員として入口を締め切りしは未だ七時頃なりし発企人安斎極氏先づ開会の辞を述べ同校生徒一同は君が代を合唱し音楽隊之に和し来賓安斎虎雄氏恭しく宣戦も詔勅を奉読し終て皇軍出征の絵画に移るや満場粛として動かず露兵退却の場に至りては万歳の声暫しは鳴り止まざりき同校職員諸氏は交々教育に就て説明の労を取られ殊に安斎虎雄氏は屡々立て日露戦争の実情を説明せられ参観人をして時々感涙に咽ばしめたり実に近来同地方未曾有の盛況にて午後十時無事散会せり因に本会施行中近村より招聘者陸続申し込み来り殆ど其答弁に苦しみつつありと兎に角同団隊は是より各地方の招きに応じ開催する事に至るべしと云ふ〕
岩代町立図書館で西新殿の地図と電話帳を広げ、安斎という姓に片っ端から電話をかけて「安斎極」という人物について尋ねてみたら、安斎家は土地の素封家で裕福だった。ハイカラ好きでしばしば東京に出ては珍しい品を買ってきた人物だったようだ。当時最も人気のあった活動写真を見て、忽ち彼の好奇心が疼いた。これを郷里の人々に見せてあげたら、どんなにか驚き感激するであろう、と。彼の予想にたがわず、村の歴史始まって以来の大反響であった。残念なのは、この事実が後世なにも記録が残っていないことである。リュミエール映写機が当時の安斎家に一時期は存在したはずなのだが、珍しい明治の機械が残っていないか、見た記憶があるかどうか質問したところ、どの安斎家でも痕跡がなかった。ただ本家の明治の頃の人物がハイカラ人士であった微かな記憶だけが残り香のように残っていた。ともあれこうして、第三の日露戦争活動写真は、安達地方一帯で無料上映され、大いに国威を発揚したのである。ちなみに新殿村は学校設置の場所選定をめぐって、昭和期には西と東が血みどろの争いを展開する。明治38年にはまだ牧歌的な学校風景が見えるばかりである。

明治39年のチャリテイ映画会

佐次郎の生涯から、再び侠義団の県内遠征の旅に戻ってみよう。
「飯野町の歩み」年表には明治38年に育児院資金を募集して飯野町のお寺でカーバイト光源の活動写真巡回上映を行った、と載っている。若連会が興行し招待状を発行した。育児院資金というのであれば、これは佐次郎たちのフィルムであったろう。
明治38年という年は日露戦争の勝利に日本国中が酔った一方では、東北地方を中心に深刻な大凶作の年でもあった。佐次郎は、軍人会や遺家族、未亡人への援助から冷害細民の救済という主題に慈善目的を変更した。
「福島県史21文化2」によると、〔はじめて活動写真が公開された確かな日時は不明であるが〕と断り〔日露戦争の実写は各地で公開されているので、このころであろう〕として〔明治三十九年(一九〇六)三月十一日から三日間、白河を皮切りに、須賀川・郡山の順に「細民救済侠義団活動大写真会」が巡回している。「めずらしきかな活動写真、米国エジソン博士発明の・・・」というキャッチフレーズで、白河では関根座、郡山は十八・十九の両日清水座で行われているチラシがある。フィルムは「我が軍佐世保出発」「旅順大海戦及び仁川港敵艦撃沈実景」「霧の軽気球海中墜落」「旅順二〇三高地占領及び剣山激戦」「東郷大将凱旋新橋駅頭歓迎」「連合艦隊観艦式」「新橋芸妓元禄踊」などである〕
同巻の発行は昭和42年3月31日。つまり単年度県予算の消化の期限でである。明治30年代の福島県内の映画と、特に37年と38年の日露戦争映画の上映記事を発見しておらず、福島県における映画の初上映は39年のチラシ一枚から類推して「はじめて活動写真が公開された日時はこのころであろう」としている。福島民報の県百科もこれに倣ったが後発の民友新聞社の県民百科には明治30年と記してある。しかしその根拠が当時の民報記事であったにもかかわらず、「当時の新聞」とだけ記し、民友ではなかったことを上手に隠蔽している。ライバルとはいえ、おなじような百科事典や百年史を他社が発行すれば追いかけて発行せざるを得ない。採算割れの夕刊を廃止するのも両社がすくみあって遅れたような事情が両社の間には存在する。
「福島市史」は、基礎的な史料蒐集として本巻シリーズとは別に「新聞資料集成」を逐次発行しているので、新聞記事から相当の内容を引用して、福島市内で初めて明治30年にはじめて活動写真が公開された、と明記する。
さて、明治39年の日露戦争映画は、初めてのものではなく、すでに二巡、三巡目にあたるのである。
演目を見ても、かなり洗練されている。明治37年には、日露戦争は緒戦のフィルムしかなかったから、これほどのバリエーションではなかったはずだ。旅順の二〇三高地の攻略では乃木大将と伊地知参謀長の無能から東北農村出身の多くの兵士が無駄に死んだのは、後世の「坂の上の雲」などでおなじみだが、明治の人々にとっては、大国ロシアを破った救国の英雄として、乃木大将はむしろ巷間、新聞や講談、浪曲などで人気が高かった。活動写真でもロシア軍の総帥ステッセルと水師営の会見が有名である。古武士ふうの風貌が見た目によく明治天皇に寵愛され、明治帝薨去の際に殉死した時は学習院学長だった。旅順攻略は明治38年1月で日本海海戦は6月である。東郷大将凱旋はその後だから、戦争が終わった時点から戦争の全体を俯瞰できる全般的なバリエーションがあり、初めての上映ではほとんど登場しないフィルムばかりだ。
残念ながら、かんじんの明治38年前半のと39年後半の福島民報が県立図書館にに保存されておらず、この期間については同年の福間民友と福島新聞のバックナンバーでのみ調査した。今後これら(欠損部分の民報バックナンバー)が世に出てくれば新事実が発見できるかも知れない。しうかしかろうじて39年6月以降と、12月の民友に福島育児院への寄付を目的とした県内巡回活動写真会、特に双葉郡を巡回する慈善活動写真会の日程が載っているので紹介しておく。福島侠義団とあるのは、まさに福島博徒吉田佐次郎の団体である。

財源確保目的だった慈善巡業

佐次郎の生涯と、再び少年活動写真隊の県内遠征の旅を追ってみよう。
福島民報と福島新聞、福島民友の活動写真上映の記事を手がかりに、育児院の少年活動写真隊の足取りを追って行くとその行程の長大さに驚かされる。
侠義団はその後、福島育児院等へ収益金を寄付している。現在の福島愛育園は、瓜生岩が明治28年に創始した福島育児院が発祥で、明治30年に鳳鳴会という瓜生岩を後援する福祉団体が結成されて経営していた。
吉田は明治39年6月には新たなフィルムを購入、巡回興行のための天幕(テント)を作って上映した。これは全く、鳳鳴会への寄付を目的にしたもの。福島町を皮切りに、飯坂、郡山、三春、若松、坂下、高田、本郷、川俣、月舘、保原、掛田、梁川、伊達崎、長岡、瀬上、藤田、石川郡須釜などを巡回した。さらに田村郡から双葉地方を一巡した時の様子は、侠義団の一員として福島育児院の青山馨理事という人物が福島民報の紙面に刻明な報告文を残している。
博徒と孤児院の教師との取り合わせは不思議であったが、吉田には天性の政治力と義侠心があった。
ただし、巡回映写の仕事は39年末までですっかり足を洗い、収益金と機材一式をぽんと育児院に寄付してしまった。否、足を洗ったのではなくて、旧悪に戻ったようである。事業と博打の方が性にあったのだろうか。のちに賭博で逮捕されて、彼の消息が紙面にみえるのは40年代のことである。

慈善活動の実績

明治39年6月24日から4日間、福島町で開催したのを皮切りに、県内で巡回上映した。
〔◎侠義団の活動写真 当町侠義団にては一両日中に鳳鳴会への寄付を目的とした新町市川足袋店角空地に於て活動写真会を催す由同会今後は巨大なる天幕を新調せし事おき所在如何なる場所にも開会し得らるる事となりしその第一皮切を演ずるものにして写真の如きは極めて面白き新写真を取寄せし由なれば定めし非常の入りを占むるなるべし〕(民友6・19)
〔◎慈善活動写真 福島町吉田佐次郎氏が寄付し福島鳳鳴会に於て開催したる活動写真は四日間の開会の筈なりしも鳳鳴会の都合上三日間として一昨夜会場に於て小郷氏より其旨断りありしも吉田氏は同会の都合上とあらば一切の世話を為し予定の通り四日間開催する由なれば本日も開催するといふ〕(民友6.29)
この慈善公演で204円98銭の純益金があり、その後飯坂町でも開催し、47円54銭の収益をあげた。
〔◎活動写真会 福島鳳鳴会の開催せる同会へ無名氏五十銭、同廿銭、北裡白鳥某一円の寄付あり△吉田佐次郎氏は入場券を購ひて来会せざりし人々の為に特に一昨夜も開会せるが同夜は過般無料にて入場せしめたり△最終日即ち一昨夜の入場者山形県人益田某氏は突然座の一隅に立ちて多大の同情を以て所感を述べられたるが少なからず入場者に感動を与えたりと〕(民友6.28.)
「北裡白鳥某一円」の寄付は大きいが、北裡とは福島町で有名な遊郭のある所である。佐次郎と同じ業者かも知れないし、その周辺の人物であろう。人気芸妓の寄付だったかも、など想像させる。無名氏の寄付という点にも爽やかな印象がある。この時期、大凶作に当たって農村の裕福な農家で金穀を公共に寄付する者も多かった。暮らしは貧しいけれども明治日本には篤志家はいた。日露戦争や凶作で家庭を失った子供達を引き取るため、育児院では資金作りが最大の急務であった。当時の新聞には、親に捨てられ橋の下で暮らす孤児や親に傷つけられた兄弟の哀れな話が載っている。鳳鳴会は寺院などの後援を得て孤児救済に奔走した。
これに一肌脱いだ佐次郎たちの侠気はまさに「侠義団」の名にふさわしかった。しかも金銭だけが目的でなかった。入場券を買っても来場しなかった人々に対して特別に無料興行した。とにかく日露戦争の実況現場を見て欲しいという、戦場に行けなかった佐次郎の気持ちが伝わってくる。
6月27日夜の入場者山形県人益田某氏の話は民報記者が佐次郎から聞いた当夜の実況の伝聞だろう。
佐次郎は感激屋だったのではなかろうか。自分の侠気の原点に共感する同情の言葉を感きわまって立ち上がり、一席のスピーチをなした山形県人の琴線と彼のそれとが共鳴したのであろう。不覚にも私はマイクロフィルムの潰れた小さな文字を目で追いながら落涙した。感激屋は私だった。

鳳鳴会への寄付収支決算

〔◎鳳鳴会 活動写真収支決算・福島侠義団吉田佐次郎氏より福島鳳鳴会に寄付され福島及び飯坂町に開催したる活動写真会の収支決算は左の如し
福島町
三百三十六円六十六銭五厘    収入
三十一円六十八銭        支出
二百四円九十九銭       純益金
飯坂町
五十九円七十二銭        収入
十二円八銭           支出
四十七円五十四銭       純益金
猶ほ侠義団に於ては総ての費用を自弁したる為め斯く純益金多かりしと云ふ〕(民友7.4.)
「侠義団に於ては総ての費用を自弁したる為め斯く純益金多かりし」というのは、この行為が無償のボランテイアによるものであったことを意味する。
佐次郎の本業は料理店花月の経営だから、店は女たちにまかせて活動写真会の時には仕事を放って専念したであろう。
侠義団のメンバーには同業の伊藤某も加わっていた。

会津孤児院へも寄付

7月になって、郡山から三春、会津へと巡業は続く。
〔◎鳳鳴会と三春町 福島鳳鳴会の育児院にては此程郡山から三春町に赴きて活動写真会を開催したりしが今回同校小学校職員一同より二円同婦人会より三円寄付されしと〕(民友7.13.)
福島にも三春にもすでに劇場が存在したが、そこを借りれば興行収益の何割かを支払わねばならぬ。慈善事業で純益金を孤児院経営のために資金として集めるのが目的だから、小学校のような公共の場所が一番よかったのであろう。そこで職員や婦人会からの寄付があった。佐次郎も鳳鳴会の人間も仕事の手応えを感じたに違いない。
〔◎慈善活動写真 若松市の会津婦人会会津仏教会愛国婦人会若松支部会津孤児院発起となり福島町鳳鳴会育児院主催たる活動大写真を来る十三四五の三日間毎日午後七時より栄町栄楽座に於て開会せる由なるが入場料は一回十銭にして学生は其半額なりと而して収入の三分の二は福島鳳鳴会に三分の一は会津孤児院へ寄付さるる都合なりと云ふ〕(福島新聞7.12.)
〔◎若松の活動写真会 福島町鳳鳴会の主催に成る慈善活動写真会は予記の如く去る十三日より十五日迄三日間若松市栄町栄楽座に於て開催せり開期中は連日の雨天なるも婦人会の尽力に依り毎夜木戸〆切りの盛況なりし尚六日よりは耶麻郡喜多方町に開会の筈なりと云ふ〕(福島新聞7.18.)
〔◎侠義団の鳳鳴会寄付 当町の同団が鳳鳴会育児院に対し資金を寄付すべき目的を以て郡山、三春、若松、坂下、高田、本郷、川俣、月館、保原、掛田、梁川、伊達崎、長岡、瀬上、藤田、の斯く市町村に於て活動写真を開催し右にて取上げたる金額は九百九十八円三十銭にして内金四百三十五円四十九銭は開催実費に使消し残金五百六十二円八十銭を折半して半額を侠義団の所得と為し半額即ち二百八十一円四十銭を鳳鳴会へ寄付したりと而して就中取上げ金額の多ふかりしは郡山、若松、三春、保原等にして是等は愛国婦人会会員諸氏の斡旋尽力に由ると云ふ〕(民友8.16.)
〔明日明後日の両夜飯坂に開会すべき中藤式実物活動写真会は今回東京鶴淵商店をして良好なる機械を新調せしめたるを以て県下各地に渉って発表会を催し其都度収入金の純益を慈善事業に寄付する由なり尚弁士として侠義団より新たに加入せし増田某氏を援助として同会に遣はしたりと云へば定めし至る処に大喝采を博するならん尚映写材料の如きも頗る珍奇のものを撰ぶと云ふ〕(民友9.16.)
〔◎侠義団活動写真 福島町侠義団にては過般二千数百円にて汽車博覧会の当町に開催されし際新に活動写真機を購入したるが其試写を当地に於て為し収納金を福島鳳鳴会に及福島同窓会に寄付さるる由にて過日両会役員等は奔走中なり
◎侠義団の寄付 石川郡須釜小学校に於て二日間侠義団活動写真を開催し其純益金七円十六銭を児童保護会へ寄付したり〕(民友10.5.)
〔◎活動写真会の決算 福島侠義団の寄付にて福島小学校同窓会主催の活動写真会決算は左の如し
◎収入
金百九十三円六十銭   切符売上代
内訳
十三円六-銭     特別六十八枚
百七円四十銭     普通千七十四枚
七十二円六十銭  学生千四百五十二枚
支出
金五十三円四十六銭  会場諸費
差引純益金百四十円四十四銭

八円廿銭    弁当八十八
一円廿五銭   そば五十
二円九十銭   菓子七袋
右は大澤文次郎、四谷小兵衛外十名の寄付
猶ほ純益金は折半して七十円七銭宛図書館及授産所へ寄付せりと云ふ〕(民友10.25.)

孤児が少年活動写真隊を編成

侠義団には39年から福島育児院の少年活動写真隊が同伴した。隊には小学校卒業から十五歳にかけての男子院児が弁士等として参加していた。
明治の先覚者福沢諭吉は「天はみずから助くる者を助く」との西洋論理を道徳として掲げたが、「人事を尽くして天命を知る」の東洋思想と併せ、明治人の気骨を表している。
少年活動写真隊はまさに、自助の集団であった。
●双葉郡の侠義団巡回上映会
39年12月20日民友「侠義団慈善活動写真会々報」(一)
〔福島侠義団が夙に国家の為めに東奔西走して公共の為め尽瘁せる事は一般世人の諒とする処なるが今や同団特派員にして福島孤児院の理事たる青山馨氏は活動写真隊を掲げて磐城地方に奮闘せり今其報告を得たれば左に之を掲ぐ
第壱回(双葉郡)
双葉郡は十一月廿三日より十二月三日迄十一日間七ヶ所の開催なりしが結果不良侠義団組織以来の帳簿に徹するに実に未曾有の成績なりし素より繁農期と云ひ多くの興行ありし後と云ひ時期其宜敷を得ざりしに因すると雖も〕
と青山は苦渋の報告を記している。浪江町の有名な十日市や富岡町の恵比寿講など、見世物興行で賑わうのが通例であるが、年に一度の生活物資を農民が買い込む時期でもある。子供達も、年に数度の小遣いを貰える時期で、秋の大きな祭と重なって仕舞ったため、客を他の興行物に取られて収益は慈善事業開始以来、最低を記録してしまった。
12月21日民友「侠義団慈善活動写真会々報」(二)
〔◎富岡町(二日間会場小学校)侠義団一行は前夜田村郡古道小学校に於て同校学齢児童保護会の為めに開催夙むと徹夜して出発の準備を整へ九里余の山道を徒歩して当地に乗込み非常の疲労を感じたるにも不拘日割の確定しある事なればとて直ちに旅装其儘にて開催せり双葉郡第一回の開催なるを以て可相盛会を見たきものとの希望は団員一同の予想なりしが如何せん二日間僅かに金十九円八十銭の収入を得たるのみ乍去る遠藤本部長野村警部石井郡書記諸氏は非常の同情と便宜を以て本会を歓迎せらる結果は兎に角として本員は厚く諸氏の好意を感謝して已まざる所なり以下次号)〕

双葉郡での収益・浪江と新山

12月22日民友「侠義団慈善活動写真会々報」(続)
〔●浪江町 (二日間会場尋常小学校)時恰も有名なる十日市殊に高等校には教育品展覧会あり尋常校には双葉郡教育大会の催しありたる事とて町内は溢るるが如き人出にて非常のい好景気なれ共軽業其他の興行軒を列ねての大騒ぎに来会者の多数は真に同情の涙を以て集まれるの人々のみ(収益金二十七円○五銭)現に本員が開催の趣旨を述べ談進みて育児院に於ける貧孤児の事に及ぶや満場寂として声なく本員亦熱心に貧孤児の可憐なる状況及び自らの所感を述べたる時の如きは説者聴者共に・・の声を禁ずる能はず両者黙して言なき事実に十数分に亙る如何に当町民の熱血に富めるかを知られよ今に於て余輩は猶開催当時を追想して不覚暗涙に咽ぶ事数々なり
●新山町 (二日間会場小学校)同町及永塚村々吏員諸氏及学校職員諸氏の尽力の効空しからず頗るの好況を呈し二日目の如きは会場の狭隘を覚え得る所の総収入実に二日間五十二円五十銭即ち双葉郡第一位の好結果たり(以下次号)〕
新山町とはのちに永塚村と合併して双葉町になっている。今日の双葉駅はかつての旧村名をとって永塚駅といわれていた。新山町は二つの町村のうちの大きいほうで、この時の会場も新山小学校であったが、隣村永塚の役場職員と学校職員の尽力があって双葉郡第一位の収益金を得た。52円50銭を10銭の入場料で割れば、単純に500余人だから、子供の多さを考えると、二日間にしても小さな教場か講堂に200人から300人がひしめいて見たことになる。
浪江町が二日間で27円05銭だから約300人弱。一回の上映は100人余か。浪江町では貧しい孤児の実情を訴える説明者青山馨と聞き手らとの間に、もはや言葉を差し挟めず十数分の沈黙があったという。この報告を書きながら、その当時を追想して青山馨は暗澹たる涙を流すことしばしばであったともいう。浪江人士の熱血を知れ、と書きながら、熱血とは青山自身のことであることは謂ううまでもない。

双葉郡・請戸、木戸、久の浜

12月26日民友「侠義団慈善活動写真会々報」(続)
〔●請戸村(一日間会場人家)尋常小学校は会場として不適当なりしより人家を借受けて開催せり素より人家の事とて狭隘なるは勿論にして来会者の総てを寄るる能はざりしは遺憾に堪えず当夜の総収入金十一円二十銭
●木戸村(一日間会場小学校)予て通牒のありたる事とて準備員の当村役場及小学校長を訪ひたる時に已に待ち兼ねて郡役所へ照会し本日回答を得たる計りなりしとの事にして頗る熱心に歓迎せらる収入金十八円八十銭殊に関本天・氏よりは若干金の寄付さへありたり
●久の浜町(二日間会場小学校)双葉郡南端の秋会たる久の浜町定めし好結果を得るならんと思ひの外実に意外会場薄暗き彼方此方に三々伍々此以前に不完全なる活動写真会のありたる後なれば或は是れ等の関係ならんと思ひしに何ぞや二日目も亦前日に譲らざる不結果のみならず町長一人も尽力家らしき人の影を留めず侠義団高橋理事が不思憤慨の演説をなしたる亦無理なかる可し此両日間の総収入十円二十三銭〕
〔◎侠義団慈善活動写真会々報
侠義団特派員・育児院理事青山馨所報
◎龍田村(一日間会場小学校)是より先き尋常校長高木仙松氏盛に本会に参道せられ是非当村に於ても開催したしとの申込即ち喜んで好意を感謝して開催す(収入金十円五十銭)久の浜町の冷淡極まりなきあり龍田村の温情掬す可きあり思へば十人十色世は様々のものなる哉
△尽力家 校長高木仙松、村長山内金作二氏
◎斯くて十一日間七ヶ所の開催収入の全部を上げて百五十一円○八銭不成績に次ぐに不成功を以てし遂に双葉郡と袂を別たんとするに当り多くの尽力家に向つて厚く感謝の意を表すると同時に本員は実に涙の中に社会の会況を報せんとす請ふ胸間の苦悶察する処あれ願くは第二開催所たる相馬郡の貧孤児の為めに余をして盛大なる開催の報告書を造らしめよ。(終)〕(民友12.27.)

侠義団の顔ぶれ

新山での成功と久の浜の不首尾の対比が際立っているが、文中「以前に不完全なる活動写真のありたる後なれば」と指摘している。
後にも記すが明治37年にはすでに中村町に日露戦争の実写と銘打って、外国戦争の実写を映写して興行した業者がいた。明治38年には日露戦争実写ものが上映されている。
当時の興行経路からすれば、相馬郡と双葉郡は同じ順路の南北に位置するから、当然同じフィルムが巡回されたと考えられる。ともあれ明治39年の侠義団上映が双葉郡で初の映画上映ではなかった証拠の文言である。
久の浜の名誉のためにいえば、悪い業者の活動写真に最初の悪い印象を抱いたとしても無理からぬところがある。その直前の新山町の素朴な反響の大きさがあったために、かえって青山や高橋に落胆させたり憤慨させた。「久の浜町の冷淡極まりなきあり」として青山は逆にわざわざ尽力家として龍田村の二人に実名を掲げ、高橋は悲憤慷慨の演説をなしたという。
侠義団の高橋理事の名は、ここにしか登場しないので、どのような人物か分からないが、やはり熱血漢であったようだ。佐次郎と伊藤某が侠義団を結成したという記事はあるが、何人かの佐次郎シンパの一人であろう。飯坂の上映会には新規参入した増田某というメンバーが侠義団から派遣されている。安達郡太田村には戸沢氏という侠義団の人物が説明者として登場するので、弁士は福島から交代で巡回していたようだ。
〔◎太田の活動写真 安達郡太田同窓会の発起にて福島侠義団を聘し去月二十八二十九の両夜上太田小学校内に大活動写真会を開き福島侠義団よりは戸沢氏出張し説明をなしたるが参観者は四方より群を為し集まる者千有余名なりき収益金は折半して一部は福島鳳鳴会の基本金は同窓会の基本金の内へ寄付したり又同窓会は慈善菓子の販売を為し利益を福島育児院へ寄付〕
(民友40.1.61.)
この記事を最後に明治39年の慈善映画会は幕を閉じた。上映技師も弁士も、15歳までの孤児自身が担当してゆくのだ。

侠義団から少年活動写真隊へ

福島育児院は創立百周年を迎えて、瓜生岩子の銅像を福島市の愛育園が経営するあすなろ保育園のかたわらに建立した。
創立百年を迎えて「愛育園百年史」はこう書いている。
〔自主財源の確保が急務であった育児院では、職員と院児による活動写真隊を編成し、県内外を興行し、広く民衆の同情と寄付を募集する活動を始めた。救済団体による活動写真隊等の興行はすでに岡山孤児院をはじめ県外の施設や団体が実施し、福島県内でも巡回興行を行っており、このような方式での資金集めは、育児院の関係者も知る所であった。この時期、手早く多額の財源を確保する方法の一つとして、活動写真隊が編成できたもう一つの実質的な根拠は、福島侠義団の活動写真会の活動であり、これを引き継ぐかたちで育児院の活動写真隊が結成されたからと言える。福島侠義団の名前は三十九年十二月末に新聞紙上から消え、四十年一月初旬からは育児院活動写真隊の名前が登場する。〕
〔それにしても自動車もない時代に映写機を背負って県内全域を徒歩で巡り、その利益を寄付に充てるという実践は、言葉で言い現しがたい実践と言うしかない。一度に五十人の院児を収容し、財政的危機が明白であった中において、福島侠義団の実践はそれを救う重要な役目を果たしたことはまぎれもない歴史的事実であり、育児院の危機を救う大きな役割の一つを担ったとの評価も成り立とう〕と。
あすなろ保育園の星康夫園長は、百年史の編纂をつぶさに見てきた。県庁の地下通路に積み上げられた古い埃まみれの文書の中から、断片を探したこと、瓜生岩の厖大な借用書の山など、福祉の仕事も結局は金の工面の苦労に終始したことを痛感する、と語る。
実に、資金確保のため慈善を目的に県内の草深い山野と潮風におう海浜の村々をたどり歩いた侠客と孤児たちは、シネマトグラフを担いで地方の隅々にまで文明の最先端の光を見せて歩いて慈善を施した人々でもあったのだ。

明治40年の巡回上映

「福島愛育園百年史」は、同園の立場から明治39年の巡回上映の報道記事を採録している。ただし繁雑なうえに厖大な報道なので、請戸、木戸、久の浜の記事は漏れている。百年史の281頁に「新山」とあるのは「新地」の誤記であろう。地元でなければ判別できないような似た地名なのだ。
〔福島侠義団の育児院への寄付活動については、十二月で終了したようで、その後の新聞記事は見当たらない。同団の活動は、県内全域を活動写真を携帯し、地元の団体と共催で上映会を催し、その収益金は半分を育児院に寄付する方式で活動を進めている。この方式は、地元の「地の利」を活かして開催し、観客も多数動員できるという利点がある。開催準備、宣伝等は地元にまかせ、活動写真の操作を侠義団で実施すればよかったためで、小人数での興行を可能にした。また、この貴重な経験は、育児院独自の活動写真隊の興行へと結びついたと言える。この間の真情をつなぐ資料はないが、明治四十年(一九〇七)年一月からの活動写真会は育児院主催で巡回上映を行っており、福島侠義団の名前は出てこなかった。〕
本当にぷっつりと、侠義団の名前が新聞から見えなくなる。佐次郎は、伊藤や高橋、戸沢ら同志に諮って、映写機とフィルム、天幕のすべてを育児院に寄付することを諮ったに違いない。すでに慈善事業のスタイルと県内順路を作ってしまって、あとを育児院にまかせればよいと判断したのだろう。
当時、家を建てられるほど高価だった映写機を資産に映画産業に生計の道を見いだした者があった時期に、さっさと金のなる木を手放した訳である。福島侠義団の名前だけを残して何と綺麗な、洒落た侠気であることか。佐次郎ほかの団員は、日露戦争の戦場にこそ出征しなかったものの、母国でともに兵士となって働いた満足感を抱いて、後事を育児院に託したのではなかろうか。
40年には安達郡油井村、鈴石村、平石村、上太田、下太田、木幡村を1月に回り、2月は西白河郡矢吹町、三神村、三城ノ目付、中畑村、岩瀬郡長沼町に移動。
5月、岩瀬郡から東白川郡鮫川村、若松市、河沼郡、大沼郡を巡業。6月には耶麻郡に入り、山都村、喜多方町、塩川村、猪苗代町。また7月には田村郡小野町、石城郡平窪村、植田村、小名浜町、平町へ。8月は伊達郡、相馬郡を巡回。
相馬郡はすでに39年の双葉郡に続いて上映しているが、津々浦々という訳ではないので、小さな村落はいくらでも待っていたし、フィルムを替えれば興行にはなった。
41にも相馬郡に出向いている。この時は汽車で行った。
栃木県、宮城県にまで足を伸ばしている。音楽隊が充実して二隊で別働した。

明治41年の慈善映画会

翌41年は1月、伊達郡小手川村月舘座で、また掛田小学校で、飯野村で興行。さらに安達郡本宮町朝日座、安積郡日和田から栃木県に足をのばし、2月には安達郡から宮城県、3月には相馬郡新地、中村町へと常磐線で移動し、大野、松ヶ江、磯部、飯豊の諸村で興行。月末には双葉郡新山の高等小学校で上映。4月からは、活動写真隊付きの音楽隊とは別の音楽隊が別動で巡回。
8月には会津孤児院と合同で、山形県や東北各県で映画興行を巡回した。
9月の福島新聞には、「育児院の活動 今九日より郡山清水座に開催後若松に赴き帰院後更に白河宇都宮方面に出張する由」との消息がある。
清水座は新開地郡山の清水台に建設された芝居小屋で、最も古い起源を持つ。自由民権運動の演説会から、初めての映画上映まで、歴史そのもののような容れ物だ。
明治42年は、フィルムが破損して新しい長尺もの映画を十数本購入し、福島町で試写し、佐倉村で上映ののち、浜街道で巡回興行。
2月には安達郡下川崎、信夫郡吉井田村、安積郡河内村で興行。
映写機器も大型のものを新調し、鮮明なフィルムは評判が良かった。
9月から12月までの動向は新聞資料に関係記事の掲載が見当たらない。
福島育児院の巡回興行は財源確保の慈善巡業として定着し、明治末まで県内を広く回り、娯楽を与えることと、福祉事業への理解を深めた。
こうして福島映画百年史は、博徒と孤児の背中で揺籃期を過ごしたのである。

その後の吉田佐次郎

佐次郎は実は明治43年1月には福島町の大博打で官憲に検挙され、拘禁の身であった。公判で証人に立った博徒の親分伊藤平次郎という人は、国のために何かしたいと思って、福島侠義団という団体を「組織し各地に活動写真を開演して歩きまして其金を献したことも確かであります、其上吉田は断然賭博を止めるといふ誓ひを私にしました云々」と供述弁護したが、育児院とも少年活動写真隊とも別な人生を生きていた。別な県で選挙に絡んで投獄されたこともある。熱血が過ぎて平穏な生活は終生できなかったようである。母親の死で改心したことと、長岡教会の信者の関連で、長岡村の実業家佐藤儀四郎と懇意になり、伊達の機業家の顧問となり、県内の企業の重役やみずからも機業家となって実業界に名を為すように至る。佐藤儀四郎は当時珍しかった洋館建の立派な長岡教会の教会堂を大正末に建立するのに尽力しているが、佐次郎の葬儀はここでまことに壮麗なキリスト教式によって執り行われた。遊郭と監獄と教会とを経巡った佐次郎の魂は、天国で主の平安を得たであろうか。
本稿は、福島県における映画の歴史を追ったものではあるが、ついつい吉田佐次郎という人物の生涯への興味にそれてゆきがちである。吉田の略伝はすでに記した、
しかし、繰り返すが映画の揺籃期はこの男の背中で一時期を過ごし、養分を吸い取った。否、県土に分布する人情の滋養が小銭という媒体を通して彼や青山らの明治の魂を育てた。映画史のほうは、専門の興行者の手に引き渡さねばならぬであろう。

明治40年代の福島映画界

明治41年4月8日に発行された「福島案内記」「福島繁昌記」「現代の福嶋」という冊子がある。これは長谷川一郎という人物が著作人で、小島恭太郎が発行人。福島弘業出版社という所から発行された。この冊子に「日本活動写真株式会社直営株式会社福島座(飯岡秀雄)」と「天然色活動写真株式会社特約 大正館(北条安吉)」という広告が載っており、本文中には、福島座や平館についての解説も掲載されている。
〔福島座 日本活動写真株式会社直営にして西洋劇新派に重きを置き好評なり喜劇は尾上松之助ものにして観客を喜ばせ西洋劇は大物を上揚するだけ好評がある営業主任は飯岡秀雄氏で世間の評判では成金になったとかかなりそうだとか兎に角財政豊なり弁士は一流の岡庭梅洋君以下好評なり〕とある。日本活動写真株式会社とはこんにちの日活のこと。小規模映画会社が乱立するなかで巨大産業を望んだ業界が実現させたトラストであった、ちなみに天然色活動写真株式会社は、天活と称され、ライバルの映画配給会社だ。北条安吉もまた初期福島映画界の先駆者で、開明社の北条として有名だった。当初は間借りした会場で映画を上映し、大正期になって、独走状態になる。
さて明治40年代の民報には、すでに映画評ともいうべき文が散見できる。
〔●活動写真を評す かみ兵(投)
日露戦争「日本桜」の一幕=
福島座のMパテー活動写真の内に日露戦争「日本桜」と云ふ劇物が評判になっていると云ふので一晩見物した・・・〕
(明治42年5月6日)
〔演劇活動写真に出話〕(43.3.10.)
〔○演劇活動写真 日本演劇活動写真元祖大脇館巡業部にては今晩より福島座に於て新内及義太夫の出語を以て開演入場料は十五銭均一なりと番組の主なるもの左の如し
△名誉の二人探偵▲鈴木主水善八幕歌舞伎俳優出演(新内鶴賀房之助三味線鶴賀八十七出語)△人情劇捨子△滑稽浮れ音楽▲壺坂霊験記女優中村歌舞伎一座出演・・・〕
〔○新開座 目下新開座でやって居るエムパテー商会の活動写真は斬新のヒルムを用い毎晩の大入りであるが中にも昨秋宇都宮近傍に挙行された特別大演習の実況は観客をして居ながらに陪観せしむるの感がある、そして写真の多くは払暁戦を撮ったから霧のため少しく鮮明を欠いているは惜しい而して説明者が「これは第十三師団の統監旗であります」と説明してwったが第演習に於て第十三師団に統監旗がある筈なくあれは同師団の機動演習を大演習の実況として観せ観客を欺いて居る、機動演習は機動演習として説明し観客をして其真況を知らしむることに努めて貰いたい、又ナイ ○瀬爺大力ミ〕(7.20.)
〔活動写真 渡辺散策 詩文〕(43.7.12.)
これは画面を見たままの様子を投稿の詩文にしるしたものが掲載。

孤児の楽団が映画常設館の濫觴

明治45年3月になると、福島座の村井座主は、育児院の活動写真隊をエム活動写真隊と改称し、4月から毎月10日間の常設上映を開始した。当時有名だった配給会社エム・パティー商会のフィルムを特約したからである。エム・パティーとはフランスのパテー社からフィルムを輸入していた梅谷商会の社長が署名にMumeyaとサインしていたことから名付けた商号。すでに43年から、活動写真隊はこの映画会社と契約して本格改称し、営業的色彩を濃くしていった。弁士に長沢仙齢、楽長に山口実、技師に吉田、準備係に成田真一を雇用し、信夫郡から伊達郡一周、福島師範学校、宮城県白石町、岩沼町、浜街道、石城郡、棚倉町、中通り、帰院というコースが出来上がっていた。フィルムも新着のものを使用。
活動写真隊は好評のため二隊に分かれて出張するようになり、さまざまな地区の各種団体に招かれたが、なかには上映中に暴徒が乱入したり、事務員がケガを負うなどの事件に巻き込まれることもでてきた。
小高尋常小学校では、光源のランプを落としてボヤ騒ぎに遭った。相馬郡の首府中村町でさえ、明治末年にようやく電灯がついた。
県下の郡部ではまだ電灯がなかった。音楽隊が葬儀によばれて営業したこともある。
少年活動写真隊は福島県の映画館発祥の母胎となったのであった。

予はいかにして興行師となれるや
高松豊次郎小伝

侠義団の吉田佐次郎とは別のルートで日露戦争の映画を巡回上映した人物として高松豊次郎がいる。
「高松豊次郎」の名は福島大百科事典(福島民報社刊)を調べても索引にない。福島県史にも件名がない。かろうじて県史人物編の索引件名に登場するが、本文にあたってみると、それは政治の分野で、大正期の総選挙に出馬して落選した人物として顔をのぞかせるのみである。
文化編の映画の項目に、興行師として登場する高松は、県史編纂者の意識には単独の項目に扱うほどの人物ではなかった。
高松の出身は飯坂だが、福島市史にも残念ながら見当たらない。
地元で活躍して地元で没した人物に関しては、地元新聞の記述が多いので、郷土史文献に拾われる確率が高い。しかし地元に産まれても若くして広い世界に飛び立った人物に関しては、意外なほどに知られない。「福島の」うんぬんと最初から限定した文献そのものが中途半端なのだろう。
高松の名が福島の新聞に登場した最初は明治三十八年八月十五日。翌日から日露戦争の活動写真を福島座で見せた。また当時の最新文明の利器、蓄音機を公開。評判がよく平でも公開した。
〔○福島座の活動写真 明十六日より開会する活動写真は珍しき大規模のものにて長さは燐三千三百尺(フィート)に渉り召集令状の交付より出征斥候の任務を終了するまで一切の軍事行動を撮影せるものを始め「吟行の大賊」「屋上の窃盗」「佳人の奇遇」等は余興写真としては「日本海海戦」「長春吉林方面の戦」並に比較外国戦争より近時流行の元帥踊り等を加へ其実種七十五種電力火力も二千五百燭を使用し最大形長尺に映写為し万事是迄になき仕向にて観覧せしむるとの事該写真会主は兼て本紙に於て紹介せる飯坂町出身なる高松豊次郎氏にして氏の目的とする処は勤労の鼓舞にありて人を集め又其費用を弁ずるの方法として多年活動写真機を提(ひっさ)げ東海四国九州台湾に孤剣天下を歴訪 今や最新写真三万余人を得て始めて今回県下に来れるもの東都に於てスエズ以東の大勝ぢう写真なりとの評ありしと〕(8月15日)
〔○福島座の活動写真 信夫郡飯坂村出身高松氏の日露戦争活動写真会は一昨夜より福島座に於て開催されしが非常なる好評にて午后六時開会同八時十分なるに観客一千と称せられ満場立錐の余地なく木戸締切となり門前のアークを眺めて怨みを飲みし人も多かりしが写真は何れも従来に無き長尺にして撮絵亦鮮明日露戦況は其実況を目前に見るが如く其他の撮影は一種の教訓を与ふる好個の小説として見る可きもの多し殊に其間に於て発声器の吹奏あり高松氏は「如何にして興行師となりしか」に就て縷々其雄弁を振へり氏は嘗て東都に苦学せし際誤って左腕を断たれしも会社は此に何等の救助を為さざりしを慨じ爾来人の賤しむ興行師となって遠く台湾マニラ等迄渡航し労働者救護の必要を説きたる事ここに十数年此熱心を知られん事をと説き終りしが弁は感嘆にて克く意を尽し其撮画の説明の如き長冗なる形容詞なく観客一般の好評を博したり〕
(8月18日)
「其他の撮影は一種の教訓を与ふる好個の小説として見る可きもの」というのは、彼自身が製作した社会パック映画(後述)であろう。発声器とは蓄音機のこと。この時、左腕を切断する事故に遭遇した際に会社が何もしてくれなかったことを振り返り、労働者としての社会的自覚と使命にに目覚めた経緯について彼自身の半生を語り熱弁を振るった。
福島県史は昭和40年刊の「福島民共ふくしま七十年」からの引用として〔豊次郎は香港から「大強声の発声器」を手に入れて活動写真とともに公開した。これは今で云うレコード・プレーヤーのこと。「新橋芸者のカッポレ」「米山節」などのレコードが人気があり、当初三日間が一週間以上のロングランとなり、気をよくした彼は平市に出かけ、東京の新富座をまねて作った新装の「平座」でのやったこともある〕と記している。
さらに明治36年9月19日
この時の記事によって、福島県史は高松を単なる一個の興行師としてのみ扱っているが、それ以上の存在ではない。
たしかに高松は、一個の興行師であった。しかし彼ほど数奇な運命によって興行師の道を選んだものもあるまい。

片腕の社会運動家

高松豊次郎は明治五年十月二十一日、飯坂温泉高松屋旅館(滝の湯)長男として産まれた。
銀山の経営をしていた伯父の手伝いをしているうちに、採鉱の仕事に興味を覚えて、メキシコに渡って鉱山採掘を学ぼうと志し、在米の先輩の手引きで渡航まで決まったのに、先輩の急死によって計画は水泡に帰した。それでもなお彼は独力で渡航しようと思い、そのための準備として、明治二十一年五月に創立された鐘淵紡績会社の職工となった。
急いで学費を蓄えようとの思いが焦り、危険手当のつく打綿工場を志願。操業中に誤ってアメリカ製のウエストブリーカ機に触れて、左腕上膊部三分の一を残して切断される事故に遭った。ときに明治二十五年七月二十四日。順天堂病院にかつぎこまれた彼は奇跡的に一命を取り留めた。十九歳のことである。
不況で操業困難だった当時の鐘紡では、職工は二十日間欠勤すれば文句なく馘首との規定があったため、彼は二十日目に苦痛をこらえて出勤した。首はつながったものの、仕事は職工賄所の帳付けに転配され、たった十二円の見舞い金をもらっただけで、失った左腕については何の保護も救済もなかった。
しかも年々歳々、同様の負傷者が出るに及んでも会社は救済の途を講ずることなく、政府も労働者保護の思想がない。ここに至って暗澹たる労働者の前途に憤激した彼は、法律経済を学んで労働者を守る労働法の整備確立をめざし、労使協調の思想鼓舞に挺身しようとの決心を抱く。

高座でデビューした呑気亭三昧

明治二十七年七月、鐘紡をやめて明治法律学校(明治大学の前身)の学僕筆生に採用され、三十年三月卒業。その一方で、彼は三遊亭円遊に師事して話芸をみがき、上野の鈴本亭で師匠の円遊の前座をつとめている。芸名は呑気楼三昧。円遊といえば落語の世界の人物。労働者救済の夢に燃えた勤労学徒と落語家とにどんな関係があったのか。しかし高松は、まさに高座で労働者救済の講演をしたのである。
明治三十三年一月十五日号の「労働世界」(第五三号)には、

呑気楼三昧とは高松豊次郎の芸名にして同氏は既報の如く、いよいよ明十六日より、神田の川竹亭その他二、三の寄席に出て、その新作の落語を話さるという。

という消息がのっている。
また六八号には、こうある。
呑気楼三昧高松豊次郎氏は、十六日よりいよいよ三田の寄席に於て、氏が購求されたる高等活動写真を入れ、有益なる平民的寄席を組織し大喝采を博したり。
明治三十四年五月に日本労働新聞社から発行された片山潜、西川光次郎共著の「日本労働運動史」の中に「付記、ここに第三章を終らんとするに際し付記することあり、それは労働運動の講師二人あることなり。その一人は明治法律学校の卒業生高松豊次郎氏にして、氏は東京に於てしばしば労働演説をなせし後、蓄音機をもって田舎をまわりて労働演説をなし、目下は活動写真器を持って地方をまわりつつあり。」
という消息もある。
明治三十二年の「労働世界」には高松は労働劇「二大発明国家の光 職工錦」という原稿を載せており、次のような物語だ。
主人公の職工が幾多の妨害と戦いながら妹の助力で帝国海軍の軍事力に貢献するため新爆薬を完成するというもの。これがきっかけで高松は片山の労働運動とも連動するようになった。高松の寄席は、民衆そのものを対象にした内容の、最初から教育的労働運動の一環であった。明治三十八年こそ福島民報に高松の名が登場した年。郷里で珍しい活動写真を紹介する前にすでにこのような前段があった。
蓄音機を公開したり、活動写真を見せたのも労働運動の一環としてである。寄席で活動写真を写すとき、説明は高松自身がやった。そのためにこそ話芸をみがいたのである。このときの映写は、のちに東京シネマ商会を作って記録映画・文化映画・ニュース映画でならした芹川政一が担当したという。初期日本映画史の教育映画の草分けとして高松は、見せるだけでは飽きたらず自ら制作することになる。彼自身がのちに日本初期の独立プロを浅草に創立するのである。

社会パック活動写真

明治39年9月20日に神田錦輝館で彼の作品15場面が上映されている。
「社会パック活動写真」〔社会パック活動写真会製作。原案脚色呑気楼三昧〕高松豊次郎(。撮影千葉吉蔵。出演者春風亭鶴枝その他。①活社会の玉乗り、②海老茶の木魚、③公徳の泣き言、④当世紳士の正体など、スケッチ風の諷刺一五場面を集めて公衆道徳の鼓舞に努めた。(明治三九・九・二〇)〕(発達史Ⅰ―411)
岩波の「日本映画の誕生」に、高松の名前が登場する。福島県レベルではなく、全国区の日本映画史に残る歴史的映画人である。
〔一九〇六年に労働運動か・社会活動家の高松豊次郎が、社会パック活動写真という映画を製作し、東京の錦輝館で興行して自分で説明している。パックとは漫画のことだが、これはアニメーションではない。マンが的な発想による社会諷刺の意味である。阿部龍編著の「日本映画史素校9 資料 高松豊次郎と小笠原明峰の足跡」(フィルム・ライブラリー協議会)によれば、これは次のような内容である。
「第一種類(喜劇)活社会の玉乗り 海老茶の木魚 公徳の泣き言 当世紳士の世界 自惚の失敗 国有の下宿屋 人心の表裏 旧思想の教育 ハイカラの行列
第二種類(活きたる社会劇)女子学生の末路 悲劇船長の殉死 樺太の破獄 飲酒と家庭 愛の成功」
以上のうち、「活社会の玉乗り」というのは、浅草の江川という玉乗り一座の出演で、向島の花月登壇や日比谷公園にロケーションして撮影されたもので、それらの場所に舞台の玉乗りの玉を持ち出し、玉に官・公・私立のさまざなな大学名を書いて、学生に扮した玉乗り芸人が“活社会”の出世競争をやるというもの。」

39年11月に福島座で、また12月にはいって保原町、桑折町、梁川町、川俣町、石戸村でさっそく「社会パック活動写真会」が開催されている。
「社会パック活動写真会」〔福島座に於ける同写真会初日の景況は前号所報の如くなるが二日目の午後一時よりは学生を入場せしめ夜に入りて午後六時木戸〆切の大景況なりしが高松氏は諧謔の弁を揮ひ大に観客を感動せしめたり三日目午後一時より福島三小学生徒は教員引率の下に観覧し夜に入りて亦立錐の余地なき好況なりし猶ほ同日福島軍人団にては元団員なりし戦病死者の遺族を招待したりと〕(民友11.27.)
民友は「其後のパック活動写真」と題して後報している。
〔過般福島座に於て開会し非常の喝采を博せし社会パック活動写真は其後保原町に趣き三日間木戸〆切の好況を告げ毎夜千三百余名の観客ありしが二日より本日まで桑折町に開会し五日より三日間梁川町青年同窓会の招聘を請けて同地に趣き次に川俣町に乗込み一興行の上上京して十分支度を整へ台湾へ渡航する筈なりと云ふ盛なる事なり〕
(12.4.)
同年12月1日には同じフィルムを神戸大黒座で上映している。

台湾紹介映画

次に福島の新聞に登場するのは明治40年の民友で、台湾紹介映画を仙台、福島などで上映紹介している。(この時は愛国婦人会主催の慈善上映会で)
〔◎慈善活動写真会計画 福島愛国婦人会にては来十日頃目下仙台市にて開催中の活動写真会を招して新開座に開会し其収益を以て鳳鳴会に寄付する筈なりと〕(10.2.)
〔◎一昨夜の慈善活動写真 愛国婦人会同情部が福島育児院の為にしたる台湾紹介活動写真は一茶伽より当新開座に於て開会したりしが舞台の全部台湾趣味の装飾を施し音楽は奇怪なる音を発する之も台湾趣味なり開会に立ちて婦人会長平岡知事夫人の簡単にして要領を得たる一場の挨拶あり直に台湾を紹介するに最も適合なる数十枚の珍画を写せり其間には滑稽物奇術物等を写し亦台湾生播人の君が代、台湾芸妓の音楽等あり殊に高松豊次郎氏が写真の不足に説明を以て補ふとて台湾の状況を説明したるが音吐朗々懸河の弁にして之が普通の演説としても傾聴の値は充分あり兎に角も普通の興行とは一種異なりたる有益の催しなり〕
故郷飯坂でする上映だからこそ、高松は自ら出演を買って出た。青雲の志を抱いて上京した青年時代から、失意に沈んだ時期も、じっと見守った両親のいる飯坂で、自分の打ち込んでいる台湾文化政策の一端を紹介するのだ。当然ながら、滝の湯高松旅館の肉親も地元の人々にまじってこの台湾映画を見たに違いない。
明治45年3月9日の福島民報に「台湾紹介 活動写真会」という記事が出ており、ふたたび高松豊治郎(こちらが正式の名)が台湾の実業や討伐実況などの活動写真を在郷軍人会福島分会の主催で、10日午後6時から公会堂で見せる、との予告が載っている。高松は日本における映画普及のパイオニアの一人であったと同時に、出身のfぐくしまにおいては「外部」から「世界」をひっさげて帰郷しては、地方の後輩を刺激し続けた映画史の英雄だったのである。

高松、台湾へ行く

明治三十八年十一月二十日創刊の社会主義新聞「光」には、高松の消息として、
高松豊次郎 職工として鐘淵紡績労働中器械にて左腕を失い、明治法律学校を卒業して後、呑気楼三昧と称して講談師となり、貧民、労働者のため滑稽の弁を振いたる同氏は、いま台湾にあり、今に南洋諸島に押し渡らん決心なり。
と紹介している。
当時の明治法律学校には伊藤博文や後藤新平が関係しており、彼らは敏捷で頭のよい苦学生の高松を愛した。伊藤は野にあって政友会の創立準備中で、高松が活動写真を見せて寄席に新風を吹き込んでいるのに目をつけ、台湾統治にこれを利用しようとした。日清戦争で獲得した台湾だが治安工作がうまくゆかず、植民地宣撫に活動写真を利用しようと、かつての教え子高松を口説き、また後藤新平にたのまれて高松は三十七年に台湾に渡っている。これらの政治家は「すこしくらい社会主義の演説をぶってもかまわん。やってくれ」と高松を説得したらしい。
高松は台湾で、島内の主要都市八カ所に興行所を建設。映画、演劇その他の催し物をかけ大いに活躍、内地から出向して威張っていた日本人役人のやりかたを高座から叱りつけたりしたという。この話は、高松に呼ばれて台湾に行った松旭斉天勝一座の記録にある。
明治39年と45年に、福島で興行を行っている。当時の新聞はまさに高松を評して「台湾成金」と呼んでいる。
大正四年には、台湾から一時帰国して郷里の福島から総選挙に立候補。国会に乗り込んで労働法の実現をはかるのが早道と考えたのだ。当時はまだめずらしかった自動車を選挙用に買い込み飯坂に乗り込んだ。結果は政友会幹部の堀切善兵衛と福島日報社長某に挟みうちされて、わずかの差で落選。県史は「落選した高松豊次郎候補は、台湾成金のふれこみで派手な買収・もてなしで票をかき集めた。」と記しているが、「政友会から初出馬して最高点で当選した堀切派の買収は公然の秘密といわれていた。」というから、この当時は誰の選挙も買収があたりまえで、堀切の選挙もひどかった。自動車で疾走する姿は「飯野町のあゆみ」にも載っている。地方では新時代のメデイアを駆使して遊説するハデな人物と映ったようだ。政界で活躍することはなかったが、社会運動家としての先駆的活躍は目覚ましく、中央で地方で新文明を伝えた。単なる興行師以上の評価を加えるべきであろう。

映画製作に専念

このあと彼は台湾に戻り、事業いっさいを知人に譲り、帰国して大正六年六月、小石川区東五軒町に活動写真資料研究会の看板を掲げる。永い間の念願だった映画製作に専念することになる。明治期にすでに社会パック映画という社会風刺作品を制作しみずから弁士として説明もしている。高松は最初期の教育映画製作者から、日本の独立プロ映画制作のさきがけになった。
後藤新平はその頃、鉄道院総裁から東京市長になり、関東大震災のときは復興院総裁として活躍したが、この間ずっと高松の仕事を後援し続けた。
大正7年に高松は鉄道院の新企画で、鉄道啓蒙の一編を製作する。「汽車の旅を活動に」と題する記事(福島日日・大正7年)には「本県飯坂町出身元は活弁、興行師として知らるる高松豊治郎氏は現に東京浅草に歌劇専門の日本館其他数館を所有して目先の変わった興行法に鮮やかな手際を見せて居るが今度中部鉄道管理局からの依頼に依り鉄道員従業の実際を一般世間に知らしめる目的の下に活動写真を撮影中」と報じている。
大正十年、文部省の主催で活動写真展覧会が開催。高松は宣伝部長として要職を果たす。翌十一年の「活動倶楽部」2月号によると彼は大東京と浅草公園六区という映画館を経営し、柳島に一千四百坪の撮影所をかまえる東京市の名士であった。
高松の野望は、全国六十数カ所に教育映画の常設館を展開して安価で小学生に教育映画をみせ一般民衆に社会教育することだ。その第一歩が大東京という館の経営。浅草公園のパテー館を後藤新平東京市長らの後押しで日活から入手し、警視庁特別高等科の某幹部の肝煎りで「大東京」と改名。事業は順調にすべりだした。
事業は成績がよかったが、教育映画専門の興行はうまくゆかない。あまりに理想主義にすぎた。
しかし、十二年から提携した帝国キネマの濡れ場(ラブシーン)のある作品との組み合わせは成功。
大震災の後の大東京の復興も早く続いて「新東京」館も開館。
大東京は戦時中に廃館になるまで浅草に存続した。
大正十四年に高松プロが旗揚げする。経営する常設館ではマキノ映画をかけ、撮影所では宣伝映画を撮って維持していた。
高松プロの制作作品に関しては映画専門の研究に譲るとして、高松プロ解散後について豊次郎の孫の富久子の手記を紹介しよう。

孫富久子の手記

〔高松プロ解散後、一番力を入れていた事業は、今日のテープ式磁気録音を開発しましたが、当時のNHKと競合することになり、市井の小資本の事業家が、国家権力を代表するNHKに抗すべくもなく、フィルム式録音方式の開発企業化へ転じて行く事となり、開発されたその方式は、フィルム・トノーラー方式といい、当時携帯式の録音機で即時再生できエンドレス方式を用いて、数時間に及ぶ録音が出来たのは画期的であり、多くの特許も出来ていたそうです。
残念ながら再生回数が増えると録音特性が低下するという問題に逢着し、この改善に豊次郎の経済能力を越えた努力がつぎこまれました。それを物語る事例の一つに、その頃、旧式化したかつてのダークステージを、録音ステージに改造、使用して、当時米国帰りの関係者をしてRCAもどきと驚かせたとききます。
しかしこの事業は、この後、豊次郎がやろうとした晩年の高松プロ・ロール・バック作戦を困難に至らしめるほど、高松一族に、致命的な経済力への打撃を与えることになりました。また孫幹男が、オーディオ技術を身につける発端にもなったようです。
なお、この時期の豊次郎の旧友、知己の音楽家や、オーディオ関係者達が、彼に協力を与えており、山田耕筰氏もその良き理解者だったそうです。
かつて自由民権の闘士であった豊次郎も太平洋戦争中は、興国映画社という右翼資本家の協力を得て事業の推進を図り、彼の生涯の汚点となっているとは孫共の批判です。
戦後、今日のアニメーションの隆盛を予期した彼は、日本漫画という動画会社と業務提携を行い、幹男の音楽映画運動を支援し、その第一作「歌は星空」は、灰田兄弟の協力でアメリカナイズした音楽映画であったが、お蔵物同様の結果になりました。
組織的な高松プロの制作活動は、これを契機として終わりとなっています。(昭和48年11月7日)〕

映画人の系譜

豊次郎は昭和二十七年に死去。八十一歳だった。
沢島富久子が昭和四十四年に作製した豊次郎の子孫の系図によると、多くが映画関係者として活躍している。
吉村操監督は、豊次郎の息子で、昭和二十年三月十日の東京大空襲で戦災死。三郎は三月十六日に戦災死したが、当時日本映画社に勤務。豊は芸能プロの高松プロのオーナー。娘雪の夫は山根幹人監督。高松プロの大黒柱となった。長男幹一の娘にあたる富久子は、沢島正継監督夫人となる。
吉村操が大正十五年に第一回作品を撮ったころの回想を綴っている。
「大正十五年の頃、向島吾嬬町にアヅマ撮影所という小さなプロダクションがあった。
そこに集まったメンバーが、山本嘉次郎氏、江川宇礼雄氏、宇留木浩氏(横田豊秋)、近藤伊与吉氏、当時のモダン・ガール高島愛子嬢という現代劇部の連中に、時代劇部のメンバーが、沢田正二郎氏の親友倉橋仙太郎氏の主催する第二新国劇という劇団だった。
私の第一回の仕事が、その新国劇を受け持つことになり、脚本は確か倉橋氏が書き下ろした「義憤の血煙」という剣戟映画だった。
私も第一回の作品だし、第二新国劇の連中も第一回の映画出演だったので、お互いになんとなく不安な気持ちがあった。だが、第二新国劇の連中が、第一回の映画出演に望む態度は、実に真面目で情熱に満ちていた。
その劇団演技員の中から、撮影の扮装は初めてであるから、顔の色と羽二重の合うようにテスト撮影をして下さいと、代表者が来た。その代表者は室町二郎という名刺をくれた。この人は相当の近眼鏡をかけた人で、話は扮装のことからはじまり、近眼では撮影にどうでしょうかなどと、色々細かく聞く。段々話は進んでゆくうちに、「この人は相当に映画に対する情熱を持っているな」と感じ、さらに話をすれば、彼の映画に対する研究は、演技上のことばかりでなく脚本の構成にまで及ぶという程に映画への研究をしている。私は「この人は将来映画俳優として立つか、脚本家になるか、どっちにしても相当の所まで行く人ではないか」と思った。でもこの人は相当の近眼だし、柄もそう大したことはないので、映画俳優は少し無理じゃないかなと思っていた。」
この人物こそ、その二年後に日活からデビューする大河内伝次郎であった。

直木三十五の「タカマツの話」

直木三十五も映画界に関する多くの雑文を残しているが、昭和2年の「映画時代」に、「タカマツの話」と題する小文を載せており、こんな風な消息が載せられている。
〔「月形半平太」(沢田正二郎主演)で、マキノが僕に加勢して東亜と喧嘩し独立するや、高松豊次郎は機至れりとして考えた。この人はいつも活動写真は民衆娯楽として、今でも差し押さえられながら「私は民衆のために」だから親分、後藤新平が政治の倫理化を叫ぶが如く、禿頭と、一本しかない手を振り回しながら、愉快に新平と民衆とを云ったにちがいない。
だがそれは人に対してであって、腹の中では、新平が、政治が倫理化されなくても総理大臣になったらいいと思っているが如く、高松豊次郎も、マキノのこの機を使って撮影所を利用して、マキノの新劇部の不整頓につけこんで、アヅマ撮影所に、マキノ東京派というものをおいたのである。〕

独立プロの嚆矢「高松プロ」

マキノというのは、日本の初期映画史に名を残す牧野省三のこと。日本最初のスーパースター尾上松之助を作り出した監督だ。日活を離れて教育映画製作のミカド商会をはじめた時に、高松も「教育映画の元祖」を旗印にして活動写真資料研究所を創立した。のちの高松プロにつらなる最初の旗上げである。
牧野と高松との出会いは、高松が大正十年に文部省の活動写真展覧会の宣伝部長をした時のことらしい。
牧野がのちに東亜キネマに合併され、さらに東亜を離れてマキノプロを設立し、これに呼応して高松が高松プロを設立したとき、日本の独立プロの歴史が始まった。暗黙の呼吸で、大資本に対抗して真に映画を愛する映画人の独立プロ同士が提携関係になった。直木三十五も自分のプロを持った時代である。吾嬬撮影所は貸スタジオとして阪妻プロにも利用され、その有望さに関しては大正十五年のキネマ旬報も紹介。
しかしやがて大手の映画会社は独立プロを包囲し、牧野省三は昭和4年に死去。高松が生き残ったのは自前の経営館を持っていたからだった。昭和2年から大東京は洋画を上映するようになる。
これらの事実は、多くの演劇映画研究家の調査で判明。俳優座の松本克平氏が、仲間の宮口精二氏発行の「俳優館」に連載した「新劇屑屋のたわ言」という記事に知られざる高松の経歴が登場する。もともと、社会主義的演芸や演劇が、小山内薫の自由劇場や坪内博士の文芸協会以前にも実在していたことを実証するのが松本克平氏の「受難新劇史」で、そのきっかけになったのが、明治三十二年発行の高松の著書「絶世洒落 滑稽百話」。高松が呑気楼三昧と同人物であることが判明するのに二年かかったという。
これを拾いつつ「日本映画史研究素稿」が克明な研究を発表。
豊次郎の孫娘富久子が(七年前に他界されたとのこと)沢島正継監督夫人であることを知って、沢島監督に問い合わせたところ、豊次郎の肖像写真と資料を送っていただいた。
初めて見た日露戦争活動写真
百歳の記憶とのインタビュー

平成7年1月12日に満百才の誕生日を迎えられた小沢トリさん(原町市押釜原九〇番地)にインタビューした時、明治時代に初めて見た活動写真の話題に及んだ。
「日露戦争では旅順陥落の時に提灯行列があって見に行った。それから活動写真というものが来たというので親に連れられて町まで出掛けていってみた。兵隊が四列になって手を振って歩いてゆくのを初めて見せられた。今でもはっきり覚えている。弁士がついたりしたのは、そのあとだ」
平成7年(1995)、映画発明100年目、新年が明けてからずっと探し続けていた証言についに出会った。
「それはどこの場所で見たんですか?」と私は昂奮し、息せき切って質問した。
「松永七之助商店の向かいだった」とトリさんは答えた。
つまり、そこは原町座のあった場所である。やっぱり。
日露戦争の実写フィルムは、日本中の人気を呼んだ。日露戦争の直後に全国を映写して歩く業者がいた。旅順陥落は明治38年1月1日だ。原町に電燈はまだない。ガス燈の光源であろうが、電気に比べたらぽんやりしていただろう。しかし、原町において人々が動く映像を見たのはこの時が最初だろう。県内を日露戦争の映画を見せる巡回上映が行われたのは明治37年から明治39年にかけてで大変な話題になった。国家の一大事であるロシアとの戦争での勝利に湧く国民的関心事であったこともあるが、ほとんどの明治人はこの時に始めて「活動写真」を体験したからである。原町市史では明治43年に原町で初めて映画が上映されたとあるが、明治43年では遅すぎる。
日露戦争の実写フィルムは全国で上映されたが、いつまでも映写された訳ではなく、新しい流行の活動写真も題材によってはすぐに陳腐になるので出し物はすぐに代えられ、当時の県下の状況からみて遅くとも39年には上映された筈だ。正確を期するために、私はトリさんが初めて活動写真を見た時期について質問した。
「幾つの時に見たんですか」と尋ねると
「十歳の時だった」という。トリさんは明治28年の生まれ。十歳の時とはつまり10年後の明治37年である。ドンピシャリ。日露戦争の年である。あるいは満年齢なら明治38年。原町にもかなり早い時代に映画はやってきていたのだ。トリさんの話は生きた歴史そのものだった。
明治の原町に生きた百才の歴史の生証人に確認しえた最古の映画は、この「旅順陥落」の頃の、すなわち日露戦争の実写フィルムの一部である。
「その時の、なんとか、なんとかのアズマ艦、という歌を覚えている。アズマ艦というからには軍艦のことでしょうが、軍艦の姿は見なかった。見たのは兵隊が手を振って歩いている所だけだ」
さらに一年後の平成8年1月12日に百一歳になられた小沢トリさんを15日に訪問。誕生を祝ってまた昔の話をお聞きした。二人の娘を連れていった。長寿をことほぎ、またあやかりたいと思った。元気な姿を記念写真に撮った。
「原町座で目玉の松っちゃんという役者の忠臣蔵を見た。芝居と活動写真の両方でやった。芝居で出来ないところは映画でやって、また芝居になる二日続けてやったので、二晩かよって見た」と、この時は新しい話をしてくれた。
こうした映画と芝居で同じ一つの物語を追ってゆく形態を「連鎖劇」と称して、大正当時は一般的に行われた。
目玉の松ちゃんとは、本名中村鶴三。日本映画史初期のスター俳優で、絶大な人気を誇った。
「原町座にはずいぶん芝居を見に行ったよ。あとで旭座ができて映画をやるようになった。映画はお盆などにやる時だけ見に行った。在(在郷)の農家だったからな」
というトリさんの記憶は、いちいち鮮明であった。
平成9年3月28日、三度トリさんを訪問した。この2年間に図書館に通いつづけて100年間の新聞を読破して、目にできたあらゆる史書をひもといて、気がかりな史実を点険した。その結果、多くの史書に間違いをみつけ、トリさんの記憶が正しいことを知った。また明治の原町の写真を持参して見ていただいた。
「品川繰り出しアズマ艦、なんて歌が流行っていたわなあ」
あいかわらずはっきりと喋る姿は、歴史の証人である。アズマ艦というのは、日清戦争の前の明治21~22年頃に流行した「欣舞節」という歌の一飾で若宮万次郎の作詞作曲。若宮はオッペケペー節の作詞者として有名。
〔日清談判破裂して、
品川乗り出す東艦、
西郷死するも彼がため、
大久保殺すも彼がため、
遺恨重なるチャンチャン坊主、
日本男児の村田銃、
剣のキッ先味わえと、
なんなく支那人打ち倒し
万里の長城乗っ取って、
一里半行きゃ北京城よ、
欣舞欣舞欣舞愉快愉快〕
という日清衝突を予想した歌。戦争になるとさかんに歌われ、その時には
〔続いて金剛、浪花艦、国旗堂々翻し〕の歌詞がつけ加えられた。日露戦争のころまで、人々の口に好んで歌われ続けていたのであろう。
今回はビデオカメラを持参して、トリさんが百年前の記憶を回想する場面を撮影した。
明治三十八年は東北冷害で全く米がとれなかった。平成5年の冷害に、日本の米の絶対量が不足して、タイ米などを輸入したことがあったが、明治のこの時には南京米というものが輸入された。
「南京米は油くさくてとても食べられたもんじゃなかった。私は、大根飯が嫌いで食べないでいると、父親に田んぼに連れて行かれて、畦道にしゃがんでこう言われた。稲の黒い実を透かして見せられ、中身は水だ、食べられない。
好き嫌いを言っていると、北海道へやられるとも言われた」
しかし北海道とはどんな所かも知らなかった。確かにこの時期、原町からは食い詰めた農家が次々に、家財を売り払って開拓農家になるため北海道へ移住して行った。
二宮尊徳の孫の尊親という人物が主宰する興復社という組織が、北海道移住を募集していたのである。
小沢家は、郷蔵と呼ばれた緊急米の倉庫の鍵を持つ地域の有力者で、求められれば、貧民に米を分配した。
大根飯の嫌いだったというトリさんは、懇々と父親から食の大切さを聞かせられた。
太陽の光に透けて見える稲の穂。
夏にも冷涼だった明治三十八年の風。
その親子の対話のあぜ道の光景が、私の瞼の裡に浮かぶ。
私もトリさんから、ひとつの時代の一瞬間を、まさに映画のひとこまのごとくに、聞かせられて、焼き付いているのだ。
惜しいことに、その4日後の4月1日にトリさんは死去された。
「南極探検」と田泉保直

明治四十四(一九一一年)、M・パテーに白瀬中尉の南極探検にカメラマンを一人派遣してほしいと、探検隊の後援会長大隈重信から依頼があった。“オヤジ”の梅屋庄吉という人は、かつて孫文を助けたこともある国士型の人だったから二つ返事で引き受けた。希望者はおらんかというので男沢が名乗りを上げたが、同僚が「死にに行くようなマネはよせ」と止めたので、男沢の助手田泉保直にそのお鉢が回ってきた。
遂に撮り上げた大記録M・パテーの社名を高くした南極探検隊の記録映画について。
当時、田泉保直は二十三歳の血気ざかりだった。
「だれもしりごみして、結局、いちばん後輩の私にお鉢が回ってきたのだが、行かなきゃクビだというのです。私は当時梅屋庄吉の家に住み込んで四円五十銭のこづかいをもらっていたが、探検に行けば八十円くれるという。梅屋も一万円の生命保険をつけてくれました」
十月十四日、田泉は横浜から壮途についたが、その見送り風景のハデなこと。
「旗やのぼりを押したて、ジンタもにぎやかなM・パテーの歓送行列(カフェーの女給もいました)の先頭に立たされ、現像所のあった麹町三番町から日本橋、銀座を通って新橋駅へ、途中、市民の盛んな歓呼を受け、多くの人が「頼むぞ!しっかりやってくれ」と私に握手を求めたり、ポケットに餞別を突っこむのです。多くて五円くらいでしたが、新橋に着くまでに両方のポケットがいっぱいにふくらみました」
この歓送デモが横浜の桟橋までついて行ったのだから、カツドウ屋さんというもの、昔からにぎやかなことが好きだったようだ。田泉はオーストラリアのシドニーで待機中だった本隊に合流、十一月十九日、いよいよ南極へ。この出発風景を、日本人会のランチに便乗した田泉が撮影し、フィルムを日本人会に託して日本に送った。隊員一同は、さぞかし日本全土の血をわかすであろうこのフィルムの将来を思って、感慨無量。南氷洋の暴風雨で船酔いに悩まされながらも、千姿万態の氷山の奇景や光る海にたわむれるクジラの雄姿などを撮影。そして四十五年一月十六日、ついに南極大陸に上陸。
ノルウェーのアムンゼン探検隊と出会ったときは海賊船と早合点し、神州男児の意気で体当たりだと悲壮な決意を固めたとか、田泉が一人で船に帰る途中、カメラをかついだまま氷原の裂け目に転落したが、ちょうど三脚が橋渡しをしてくれて、九死に一生を得たとか……。苦心のフィルムも、しかし、日本へ持って帰る途中で、赤道の暑さにやられてダメになった部分が少なくなく、公開された長さは約七十分くらいだったらしいが、いま残っているのは十八分。文部省が所蔵しており、近代美術館でも随時上映できるので、こんどの百三十四本の代表作には入っていないが、それに準ずるものとしてここに紹介した。(「実録日本映画の誕生」フィルムアート社)

須賀川郊外に隠棲

田泉のこの談話は近代美術館のために牛原虚彦、島崎清彦(映画技術評論家)の二人が昭和二十八年に田泉の疎開先の福島県浜田村を訪れて取材したもので、田泉は三十六年十月十一日に死去した。
田泉は東京大空襲で焼け出されて福島県須賀川(旧浜田村田川)に疎開し、昭和三十一年の時点でも健在で、福島民友「あの頃を語る」という記事でインタビューを受け、南極探検を詳細に回想している。
「当時の探検船は、郡司大尉が千島探検に使った第二報国丸という二百トンのぼろ船で、難局探検の装備としては喫水線に厚さ約三センチ位の鉄板をまいたのと、十八馬力の汽罐を増設しただけ。全速力で進んでいるのに三マイルぐらい逆戻りした。防寒具は、私はメリヤスシャツ二枚の上に綿入れの胴着を重ね、その上に外套を着た。手袋はカメラを扱うので鹿皮をネルで覆ったのを使った。ピッケルはなく「金剛杖」で、氷の上を歩く時にはそれぞれ腰に綱を巻き、互いに引っ張り合って危険を避けた。
(中略)
私は当時二十四歳。隊員二十九人のうち二番目の若さで、探検隊の壮挙を記録するカメラマンとして、勤めていたMパテー映画社社長梅家庄吉氏に話があって、断ればクビだとおどかされて、しかたなく承知した。生命保険が一万円、万一の場合はカメラの補償金として会社が半金をとる約束だった」
明治四十三年十一月に出航。四十四年三月六日に南緯七十二度に到達。いったんシドニーに危険避難。四十五年一月中旬にリトル・アメリカ(鯨湾)に到着。キングエドワード島に上陸。ふたてに分かれて突進隊が奥地に進み、二月二十八日、二百キロ走破して雪と氷の世界に日章旗を立て大和雪原と命名。多泉は奥地へは行かず沿岸隊に属し、開南湾を探検し撮影。約四千尺のフィルムを持参したうち二千五百尺を撮った。
しかし、予備知識がなかったため千五百尺だけが撮影に成功。四十五年五月中旬に帰国してフィルムは浅草十二館で初上映。全国に大反響を呼んだ。

大正2年 福島座で上映

民友百年史の年表には〔大正二年五月三日「南極探検隊」を福島の新開座で上映し、市民に人気呼ぶ〕と表記があるが、これは厳密には「南極探検」「福島座」の誤りだ。
秋田県出身の白瀬のぶが政府の援助なしに全くの民間の後援で成し遂げた偉大な事業、南極探検の記録映画で、日本映像史の最初期の記念すべき作品である。郡山、若松に続き、福島でも上映された。
「南極探検隊実写の活動写真来る」大正2年5月3日民友
〔日本南極探検隊が僅かに二百四トンの帆船に乗じて氷山の、間を縫ひ怒濤と闘ひ幾度か生死の間に出没し三万六千浬の大航海を行ひたる勇絶壮絶の光景を実写せる大活動写真隊は週日来県、郡山に若松に到る処大なる興味を以て歓迎せられ喝采を博したるが愈々明四日より三日間福島座に於て開演する事となり昼は午前十一時より専ら学生団体の為に開演し、夜は午後六時より一般観客の為に映写する筈にて入場料は一等三十五銭、二等廿五銭、三等十五銭にて、学生小児は各等半額なるが明日は師範学校及び中学校生徒の観覧あるべく満都の士女も此の国家的事業に後援を与ふる意志に於て一度は観覧せらる可し〕

活動常設館の登場

明治に芝居興行などで営業していた劇場群は、大正初期に映画上映が一般化して活動常設館と呼ばれた。日活、天活、新興キネマなどの映画会社と提携してフィルムの提供を受けて営業し、人気を獲得していった。
大正初期の新聞をたどると、すでに県内では映画を常時楽しんでいた様子がうかがえる。輸入もの、国産もの(旧劇と呼ばれた時代劇や新派と呼ばれた現代もの)、漫画や実写など多種多様のフィルムが上映されていたが、もちろん無声なので、各地の地元に有名な活動弁士が蟠踞して活躍していた。しかも、専属の楽団が呼び込みのジンタの音色を彩り、人々を新時代の娯楽に誘ったのである。

〔若松大和館に出演の由又藤波無鳴の「クレオパトラ」の説明は評判頗るよし 福島座の春光連日人気を呼びいたる〕(大正7年4月)

などと、人気弁士の評まで載っている。

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