●いわき商業風土記の戦後映画館史
斎藤伊知郎著「いわき商業風土記」によれば、戦後のいわき映画館群は次のようだ。
〔桃源の夢さめる世界館の鈴木寅次郎は敗戦と同時に頽廃と虚脱のなか「いわき健全娯楽の提供」という映画人に生きた使命感は、明治の気骨をふるい立たせ・・白銀の現在地に「世界館」(椅子408)を21年暮に再建、その威容は戦後初の大建築として市民の目を見張らせた。続いて佐藤子之吉が花々しく紺屋町に「民衆劇場」を建設し、西部地区開発の新風を送りこんだ。…26年春四月に平銀座興行の「ひかり座」(椅子426)が開場、さらに30年都会的センスの「平二ュース館」(椅子104)がお目見得、入場料30円という大衆料金で市民生活に融けこんだ。この小劇場は「平新東宝」「ニュー東映」「ニュー国際」そして、いまの「名画座」と館名が移り変った。「24時間ビル平東映」は「三夜東映」として43年8月に開場、へんぴな地域開発の先駆を成した。平駅ステーションビルと対面の地の利にある「世界館ビル」(鈴木喬二)は、44年8月に竣工、松竹・東宝・日活・大映・洋画と五ツの封切館を呑み込んで、新しい時代のレジャー産業に大きな羽ばたきをみせている。かつては…映画黄金時代を現出、連日大入袋でウハウハ喜ぶ結構な話でした。いわき全域に40館がひしめき合いながら共存共栄、年間151万8000人の観客を呑みこんでいた。〕〔昭和43年8月・24時間ビル三夜東映の新築開館があり、サウナ・喫茶店を併設。昭和44年8月に開業した世界館ビルと、洋画・邦画五館の集中と、パチンコなどレジャー施設をあわせた娯楽センターである。この中に昭和48年10月には名画座が誕生、わずか25の座席しかも名画一本のみで、料金300円という型やぷりの映画館があり、週刊誌にもとりあげられ全国的な話題となった。また11月に小名浜の金星座でコーヒーを上映中堤供する新しい鑑賞法を考えだす等、このような各種の企画で、いまや映画興行も次第に活気をとりもどそうとしている。〕
48年には聚楽館が火災で焼失した。49年の新聞広告にはアポロ座の名がみえる。次に「いわき市史」から戦後の映画館に関する記述を地域別に抜き出してみる。

いわき市史に見る各地区の映画館

●平 平地区では戦前からあった聚楽館・平館についで、疎開取りこわされていた世界館が昭和21年(1946)白銀町に再建され、ついで民衆劇場が紺屋町に新築された。民衆劇場は東宝映画を上映した。昭和26年には田町に洋画系のひかり座が出現、しょうしゃな外観とゆったりした場内の雰囲気が若い人たちに好まれ、連日満員の盛況であった。30年に平ニュース館が三町目に、ついで現在の喫茶店「花の木」(平字白銀)のところに、平松竹館が建設された。〕
次に添記したのは映画年鑑の昭和27年に登録されていた館名・席数・音響機器・映写機・上映映画の種類・住所・オーナー・支配人。
平館  495 ローヤル 日月式 松・新 南町70 島田勝吉 安部元久
民衆劇場 328 ローヤル 自家製 映・新 紺屋町42 佐藤子乃吉 鈴木剛
聚楽館 365 不二セントラル スーパーC型 洋・混 才樋小路9 飯田テイ 菊地直次
ひかり座408 ニュースター 同宝・TY 田町55 平銀座興行 堀江正鎮
●平館が日活直営に
昭和38年7月のキネ旬によると、平館が日活の直営になった時の様子は次のようだ。
〔日活平館を直営日活は、福島平日「平館」を貸借契約、館名を「平日活劇場」と改めて六月一日から直営館とした。同館は従来とも日活系続館で再出発番組は「太陽への脱出」「結婚の条件」。支配人には弘前日活支配人の中村敏男氏が発令された。同社の直傍系経営館は、これで七十五館になる。〕

●小名浜 〔小名浜地区でも芝居小屋であった磐城座が映画を上映した。ついで24年には金星座が、さらに洋画の銀星座も開場した。東映系の金美館、東宝・大映系の国際劇場が新築され、小名浜劇場が改称し地球座となり、やはり東映系として営案したが間もなく閉館した。〕(いわき市史)

西舘好子の小名浜ストーリー
作家井上ひさし氏の前夫人で劇団こまつ座主宰者西舘好子著「小名浜ストーリー」(金園社)は、小名浜に疎開していた時の様子として〔夕食が終わると座布団を手にして劇場に出かける。ナイトショウは八時から始まる。洋画も邦画も全盛のころで、小名浜には五つの映画館があった。「金星座」は洋画を、「銀星座」は邦画を、実演を主とする「金美館」、他に街はずれに小さなのが二つあった。どの映画館も満員でサービスがよかった。/金星座の二階は畳になっていて、枝豆や漬物を持参して物見遊山的な映画鑑賞である。疲れれば横になって仮眠もできる。少なくとも一日三本、多い時は六時まで映画館に入りびたり、出るのは明け方になってしまう、ということもあった。「サラトガ本線」「マルタの鷹」「カサブランカ」「第三の男」などの名作は忘れられない。クーパーやボガードやシナトラは、もうそのころから大スターであった。同じ映画を二度や三度は見る。「ひよどり草紙」で中村錦之助がデビューした時は、毎日映画館につめていた。錦之助や千代之介に夢中になり、昼はファンレターを書き送ったりして忙しかった〕と回想する。〔街のはずれに小さなのが二つあった〕という片方の一館は磐城座である。
27年の映画年鑑。
金星座 382 エミネックス ローラー 混
石城郡小名浜町中坪 田中ヨシ 植田孝夫
磐城座500 ローヤル ローヤル宝・大・米
同小名浜町上明神町 小野直千賀
●江名・豊間〔江名地区には江楽座と朝日館があり、おもに船員相手に日本の活劇ものを上映した。また豊間には豊盛座ができた。〕
豊盛座は戦中からある。
27年の映画年鑑。
江楽館300 ローヤル ローラー 混 江名町北口 坂本アキ 坂本真一郎
●四倉・久之浜 〔四倉・久之浜地区には久之浜劇場・四倉座・海盛座が芝居から映画へ転身し、日活映画館・国際劇場が四倉駅前に開場した。〕
昭和37年の広告には「四倉文化」の館名がみえる。日活系列館の異名か。昭和41年には、東宝系の四倉国際の広告も当時の新聞にみえる。四倉座は四倉最古の芝居小屋だが、戦争で疎開者用の住居に変えられた。
27年の映画年鑑。
海盛座 382 ローラー ローラー 混 四倉町仲町 斎藤弥三郎 斎藤弥三郎
斎藤弥三郎は、四倉松竹、八茎鉱山映画館
旧イワキセメント前に四倉映画劇場、四倉駅前に四倉東宝の三館を建てた。このほかに、双葉郡大野に大野館を作って、最盛期には6館を経営した。このほか浪江の興行師吉田定雄が、四倉駅前に四倉国際劇場を作った。
44年全国映画館名簿から。
四倉国際劇場 600 ローヤル 浦島 邦洋 四倉町本町  吉田定雄 伴内 同
久ノ浜劇場  350  ローヤル 浦島 各社 久之浜54 新妻次雄 同 同

●湯本・遠野・田人 〔湯本地区には湯本座・三函座、遠野地区には上遠野劇場・上遠野東映・甲子館・朝日館があり、田人地区には泉光館〕
27年の映画年鑑。
湯本座 600 スーパーイソノ 混 石城郡 湯本町字三函 青木兼次郎 青木安雄
三函座 600 音峰式関東音響 混 同 湯本町字三函 白石勧太郎 白石弘
上遠野座 250 デプライ デプライ 混 上遠野村字上遠野 鈴木重雄 下山田マスノ
●植田・勿来〔植田勿来地区には菊田館・植田館・中央館・ロマンス座・錦座・関田劇場・常磐劇場等が開館した。〕といわき市史。
27年の映画年鑑。
常磐劇場500インターナショナル ローラー 混大・松勿来町窪田 白上金右衛門 同
また平成9年1月の植田公民館の最近の資料によると、さらに詳しい館名がわかる。常磐劇場は常磐座に同じ。
〔常磐(ときわ)座(勿来町白山)
◎主な興行・芝居(双葉艶子劇団、沢村みすじ劇団、又三郎一座、きみちゃん劇団、女相撲一座、東京少女歌劇団等)・映画(洋画、邦画の各社作品を上映した)・歌謡ショー(春日八郎、曽根史郎、岡春夫、三清光一、塩まさる)
勿来会館(勿来町酒井小山下=大日本炭鉱の映画館)映画専門館
勿来映画劇場(勿来町関田寺下=昭和30年代の前半に出来た)
錦座(錦町上中田)
川部映画劇場(川部町三沢鍋坂)映画専門館
菊多館(植田町本町一丁目)映画専門館(松竹東映の封切り館)
植田館(植田町中央)昭和27年~61年映画専門館(日活、東宝、新東宝封切り館)
中央館(植田町中央)昭和34年~61年映画専門館(大映、にっかつ映画)
ロマンス館(植田町本町三丁目)映画専門館(洋画)〕
内郷(内郷地区には綴映画劇場(綴町)・磐城第二劇場(宮町)があり、後者はソ連映画「石の花」など特色のある問題作を上映し、わざわざ平から映画愛好家が集まった。〕
(注。「いわき市史」第六巻文化編は昭和53年11月1日の発刊。)

小川町 松栄館 もう一館、別の映画館が上小川にもあったという。出身者からの教示(2016.2.22.)

平の出身の生涯学習再任の平の映画館の歴史を研究している鈴木という人物から、問い合わせがあったので、いわき中央総合図書館の青山学芸員を紹介した。(2017.3.7)

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