会津に生まれて会津が撮った寅さん

会津が生んで会津が撮った寅さん

母多津のエピソード
  「わたくしイ…生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯を使い、姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と申します」
 映画の寅さんは確かに東京生まれである。それでは俳優渥美清はどうか。昭和三年三月十日、上野駅に近い東京・上野車坂(現在上野七丁目)の棟割長屋で生まれた田所康雄というのが、のちの渥美清である。やはり東京生まれだ。父親は友次郎といって、若いころには宮下愛山というペンネームで、ある地方紙で活躍していた政治記者だった。が、酒で躓いて康雄が物心ついた頃には、すでに惰眠をむさぼる日々であった。
 母親の多津という女性は、会津の士族出身であることを自慢にしていた。(九月のFTVで渥美清の伝記ドラマが放送され、母親役は池内淳子が演じた)
 康雄一家は、この多津が仕立物の内職で生計の足しにしていた。
 康雄には六歳年上の兄がおり、会社勤めのかたわら久鬼幽太郎のペンネームで小説を書く文才の持ち主だった。惜しいかな二十五歳で早世している。肺結核であった。
 多津の、康雄への愛情は、そのまま康雄の母への愛情を育てた。亡き兄の分までも。
 康雄は、母に父との出会いを聞いたことがある。
 
 ある秋日和の日のことだった。おとうさんが勤めていた新聞社の玄関のとこにサル回しが来て、サル回しのおじさんがトントコ、トントコ太鼓を叩くと、赤い帽子を」かぶったサルがトコトコ、トコトコ踊ってたんだよ。おとうさんは、いつも吸っているタバコを吸いながら、サルの踊りを眺めてニコニコ、ニコニコ笑ってた。わたしゃ、それを見てね、ああ、この人はやさしそうな人だなアと思って、一緒になったんだよ。

 このエピソードは、サンデー毎日昭和五十一年の新年号から連載された「渥美清のフーテン旅日記」の告白的半生記にある。
 ところが、多津が友次郎と一緒になってしばらくすると、友次郎の態度はガラリと変わる。友次郎の文句に多津が口答えでもしようものなら、いきなり水をぶっかけられたり、頭を叩かれたりするようになった。その後間もなく酒で躓き、惰眠をむさぼる夫への不満は、小さい康雄に向けられるようになる。
 「おとうさんがこんなになっちまったのは、おとうさん自身が高い理想ばかり持ち続けていて、友だちがせっかく仕事を世話してくれても、断ってばかりいるからなんだ。いいかい、康雄、男というものは、あれがいやだ、これがいやだと言わないで、自分の道は自分ですすんで開拓していくもんなんだよ」
 と訴えるような表情で話しかけたのを少年時代の康雄は聞いた。

世捨て人のような夫の姿を横目でにらみながら、口をゆがめて言う。
 」まったく、よく根てばかりいるよ」
 そんな姿を覚えている。一方で、母多津は明るく、自意識が強かった。康雄が子供の頃、仕立物を届けてお得意先から帰ってくると、多津は決まってこうたずねた、という。
 「あの人、おかあさんのこと、何て言ってたい」
 康雄は、そこで母親の気に入るようなストーリーを考え出して言う。
 「うん。田所んとこの康雄はバカだけど、お前の母親は、なかなかのしっかりもんだねえ、なんて言ってたよ」
 多津はたちまち破顔して、その話の先を聞きたがったという。

人間・渥美清
 渥美清のシゴ、付き人だった篠原靖治氏が書いた評伝「生きてんの精いっぱい 人間・渥美清」によると、次のような言及がある。
 
 「おふくろさんかい? おふくろは教育者でね。ほんとうにうるさかったよ」
 渥美さんの母親は、小学校の代用教員をしていたそうです。
 「でも、可愛がってくれたな。それなのに、おれはね、まあ…」
 遠くを見つめるような目をして、ふいに黙り込んでしまいました。
 実は、渥美さんの実家は裕福なほうではなく、職を転々とした父親に代わって、母親が内職までして息子二人を育てあげたのだそうです。

 また母親との関係については、次のようにも言及する。
 
 もしかすると、渥美さんが引け目を感じているのは母親ぐらいで、案外、若気のいたり程度のいい思い出なのかもしれません。(不良だったことに関して)
 とはいえ、渥美さんは大人になってから、母親の鉱物を見つけては持ち帰ってあげていたそうです。ところが”前科”のおかげで、母親はなかなか信用してくれず、
 「おまえ、それ、どこから持ってきたんだ」
 逆に怒られる始末だったそうです。
 「そのときは、ちょっと寂しかったよ」
 と苦笑いしながら、
 「ずうっと大きくなるまで、そういう点は信用しなかったにたいだぞ」
 肩をすくめて見せました。
 「フーテン旅日記」は渥美清の前半生について詳述しているのに対し、「生きてんの」は、「壮絶ガン闘病と家族愛」というサブタイトルのとおり、晩年の渥美清の姿と、芸能界では決して明かさなかったプライバシーについて、特に彼の妻、そして息子と娘が登場する。
 最後の痛みが来た時に、渥美清はこう言った。
 「俺にもしものことがあったら健太郎、おまえは男だから、家を護れ。お母さんと幸恵は女だから、みんなんぴない、分からない所に行け。健太郎、頼むよ」
 「おれのやせ細った死に顔を、他人に見せるな。家族だけで荼毘にしてくれ。頼んだぞ、正子」
 平成八年夏、山田洋二監督が、寅さんの死を知ったのは、翌日のことだった。ファンがその死を知ったのは、さらに後のことだった。
 渥美清は永遠のスターとしてファンの心に生き、田所康雄は六十八歳の生涯を終えた。

あるカメラマンの死
渥美清の死の前年、会津出身のカメラマン、高羽哲夫が死去した。
 高羽は大正十五年八月十五日、湯川村湊字上田丁に生まれた。旧制会津中学から米沢工専に進み、昭和二十三年に卒業、松竹撮影所に入社した。
 昭和三十九年の「馬鹿まるだし」でデビュー。四十年には「霧の旗」を撮った。四十二年には、松竹の契約撮影監督となる。
 四十四年以来、山田洋二監督の全シリーズを担当し、「幸福の黄色いハンカチ」「息子」「学校」など数々の名作を撮った。
 昭和四十年には「霧の旗」で三浦賞、平成三年度の第四十六回毎日映画コンクールでは「息子」が撮影賞を受賞した。
 平成四年には紫綬褒章を授賞。
 平成六年十月二十一日から三日間、故郷の湯川公民館で、フーテンの寅さんシリーズ四十六作品のポスター展が開催された。これを記念して、ユートピアゆがわで「男はつらいよ」第一作、「家族」、第二十五作「寅次郎ハイビスカスの花」を無料上映した。
 寅さん映画のシリーズは、フジテレビのテレビ版が先行するが、劇修正のそい場版の映画は四十八作を数えた。
 このうちの四十六作を高羽哲夫カメラマンが撮影したのである。
 高羽の郷里湯川公民館での寅さんポスター展は、勲章まで受けた撮影監督高羽の「故郷に錦」の晴れ舞台であった。終生の師であった山田洋二監督も、愛情を込めた文章をこのポスター展に寄せている。
 一九八八年十二月二十三日付朝日新聞には、東京葛飾区柴又の帝釈天の界隈の変貌に対して< 高羽哲夫カメラマンなんか、こぼしていたな。「背景に夾雑物が入る。山門がかくれてしまう」とね>と出て来る。

映画に登場しない福島
 ところで、寅さんは福島県を訪問したことがあるだろうか。日本全国を旅してまわる香具師の寅さんは、ヨーロッパは音楽の都ウイーンにまで足を伸ばしたことがあるのだが、肝心の福島県が舞台となった巻は一策もない。
 自然に恵まれ、これを誇る観光立県の福島だが、寅さん映画全四十八巻のうち、一度も福島が登場しないのは淋しいかぎりである。
 全国には四十七都道府県があり全作品が四十八巻。少なくとも、一本ぐらいは主要ロケの舞台なって欲しかったものだ。
 一九九二年の九月四日付朝日新聞の西部版には、「寅さん、未踏の地で四十五作目の撮影開始」という記事があり、宮崎県ロケを報じている。寅さんが一度も立ち寄っていない県は、これで高知県だけになった(「車一家の不思議」徳間書房)という。
 しかし、第八作の中で、寅次郎が台詞の中で「ああ、ここは、四国の高知か」と語る場面が登場しており、国民栄誉賞的寅さんは、かくして日本全県を踏破したことになにる。
 物語の虚構と、ロケという政策上の行為とは全く別物なのだが、第二十作あたりからタイトル・クレジットの中に、ロケ地が紹介されるようになると、ファンの間で「わが県」が登場する、しないは大問題となる。
 寅さん倶楽部編の「お琴はつらいよ寅さん読本 /監督、出演者とたどる全足跡」(PHP出版)によれば、主要ロケ地マップとして寅次郎の旅の足跡が記されており、アメリカのアリゾナまで途上している。
 しかし、福島県は記述なし。そればかりか、宮城県も空白であり、九州、近畿など西南日本に足跡が集中し、あとは長野県や北海道に飛ぶ。
 山田洋二監督にも寅さんにも、東北のロケーションは魅力がなかったようだ。これは(8暑い寒いの)お盆と正月という二度の封切時期にも関係するかもしれない。
 寅さんは一年を通して、回遊魚のように同じ場所を基点として動く。時毒フラフラと、恋する女に惹かれて、離れ小島を訪問したりするのだ。第三十六作「柴又より愛をこめて」では、伊豆七島の式根島が舞台になった。栗原小巻が島の女教師とう、二十四の瞳のパロデイである。この巻では、浜名湖でタンカバイ(露店売り)をするシーンもあるが、あるムック本によると、会津若松でもロケを行ったという記述がある。しかし会津としてではなく、撮り漏らしの場面を補完するための便宜的撮影らしい。実際には会津坂下の虚空蔵様の祭りで露店のタンカバイを撮ったのだ。
 「車寅次郎のの」不思議」(双葉社)では、寅次郎が訪れていない」場所として「福島県」と、はっきり明記されてしまっている。