ふくしま映画100年 序
博徒と孤児の背中が映搖籃だった
庶民は日露戦争を同時代に目撃した
明治三十年七月三十日午後七時、福島町の駅前万歳館という寄席で、シネマトグラフ・リュミエール映写機による活動写真の上映会が開かれた。ちょうど今から百年前。これが福島県で初めての映画であった。
明治三十七年に、福島侠義団を名乗る博徒吉田佐次郎が県内を巡回上映したのが福島の映画普及ことはじめ。さらに侠義団の機材一式を受け継いだ福島育児院活動写真隊が資金集めのために県内を巡回興行し続けた。孤児や貧児もみずから少年音楽隊や弁士として参加し、県内の草深い山道を分け入り潮風吹く浜街道を徒歩で踏破した。日露戦争という国家一大事を実写したフィルムを尋常小学校や芝居小屋で見せたのが国民をさらに沸かせた。映画を普及させた力は第一に戦争だった。また飯坂出身の高松豊次郎は社会改革の夢に燃えて映画興行師となり、初期日本映画界に独自の功績を残した。
映画より弁士の方が偉かった。しかしトーキーは弁士も東北弁を葬った。
大正は常設館のブーム。日本独特の弁士の存在は映画作品よりも偉かった。人々は映画の題名より人気弁士の名前で集まった。しかし昭和初期から十年代にかけてのトーキー普及は、無声映画時代のスターを駆逐し弁士の職を奪った。あるものは東北弁の壁ゆえに役者生命を絶たれた。
戦争は映画を模倣する
戦ふ映画館が日本臣民を創造した
そしてまたも戦争。「映画法」によって、戦地のニュース映画が農村を巡った。映画普及の第二の推進力もまた戦争であった。銀幕に写った兵士のなかに民衆は肉親の姿を求めた。写された映画は朗らかで元気な将兵が常に勝つというもので、疲れて眠りこける兵士や戦火に苦しむ中国人民衆の真実の姿を写した幻の反戦映画「戦ふ兵隊」は軍に没収され監督亀井文夫は太平洋戦争の開戦を前に逮捕投獄された。
戦争は映画を模倣した。映画が真実を写すものでなく、意図をもって特定のイメージを伝える。民衆の戦争イメージは映画によって作られた。それが昭和十四年の映画法の真実の目的だった。
夢見る力と批評する目
歴史を見据え歴史を超える映像
「ハワイマレー沖海戦」で円谷英二の特撮は「事実」に肉薄し、実写を超える技術と効果を示した。亀井文夫の戦中戦後の一連の反骨ドキュメンタリーは、戦争でも変節せぬ良心を示した。両者は、映画の本質を考えさせるうえで深い意味を持つ。夢見る力と映像を創造する力、真実を見つめて屈しない批判力こそが映画を支える大きなエネルギーである。
古くは鈴木伝明から現在の西田敏行まで、女優なら水戸光子から最近の岡本綾まで福島県出身の俳優は映像の世界で活躍。映画音楽で親しまれた古関裕而など忘れがたい才能もきら星のごとくきらめいている。
才能ある映画人と、感動に飢えた民衆の間で激しく発火する「映画」が時代を写してきた。また移ろいゆく故郷の豊かな自然と働くものの喜怒哀楽の姿を記録してきた。
映画は二十世紀の魔法である。デジタル衛星放送やインターネットの登場で、未来の映像世界は人類の第二の現実になりつつある。
「もののけ姫」フィーバーの話題も沸騰したこの夏、映画は滅びず。福島の映画の百年目。次の百年をいきるための夢と希望を我々に与え続けてくれるだろう。