三瓶町議、奮闘す 浪江町津島の記録 
ようやく出版

A5判228p カラー口絵8p
2500円
動輪社

 日本全国がバブル全盛期を過ぎて、地方にも加熱したカネの力で優良農地を買いまくるリゾート名目の「ゴルフ場」建設話が軒並み嵐のように吹き荒れていた時期だった。
 調べてみると、ゴルフ場名義でスタートした開発事業は、やがて掌を返したようにして産業廃棄物の処分場に転用される近未来が、見え見えだった。
 現場の良識派の町議の三瓶氏が思い余って、隣接市の当時原町市の小新聞の私に反撃の武器を求めたのだ。三瓶氏は親友の紺野広中氏が開設した名所「平和公園」の入り口に自分が経営する津島茶屋という蕎麦の店に私を招いた。刷り上がった新聞と月刊誌を何部必要ですか」と尋ねたら、「あるだけ全部欲しい」と言う。わずか千部の購読で最低限の第三種郵便の認可をやっとクリアしていた零細ミニコミは、殆ど個人的な取材から執筆だ。2人の社員に給料を支払うと自分の取り分がなくて月刊誌「政経東北」に外部から読み物やインタビューなどの原稿を書かせて貰っていた。
 政経東北の社長からは「お前は浜通りの人間だから浜通り地区の記事を担当しろ」という有無を言わせぬ命令で、原発関係の論評記事も書いた。
 もともと津島地区は戦後の開拓から出発した地域だ。昭和50年代に、ようやく人並みに暮らせるようになったと実感したという体験記をこの本に収録した。
 それを県のりんご団地構想というテコ入れで将来への夢が盤石の体制になるはずが、新たな借金地獄を生み出し、これから解放されたいという思いから、こんどはバブル経済とリ ゾート構想という新たな企業からのオファーにからめとられる陥穽に陥るところだった。
 次に直面したのが阪神大震災と原発事故の課題である。

1.福島県の地震対策は万全か(1995.3)
「地域防災家各」は立派だが具体性に乏しい机上プラン
福島県における地震被災史 県の自衛隊派遣要請計画 見逃せないボランテイアの存在
2.誰も言わない原発の地震対策(1995.3)
国県が意図して触れない「住民避難」
3.地域振興に役立たなかった原発 国県自治体の責任を問う(1995.4)
4.「原発」に欠落している本音の議論(2000.2)
双葉郡を襲った補助金中毒
5.原発事故が起きたらとにかく遠くへ逃げろ(2000.4)
リスク大きい過度の原発依存 迷走するプルサーマル計画
6.原発に見る差別構造 清水修二教授(1999.12)
インタビュー・ふくしまに生きる
書評「原発銀座に日は落ちて」「原発の現場」「ニンビーシンドローム考」「臨界被曝の衝撃」などの記事を月刊「政経東北」論説に書いてきた。

 2011年3月11日の大地震・津波と続く福島第一原発事故の複合核災害の直後に福島市は平常の経済生活ができなかった。
 南相馬の実家の家族が避難してきたのが翌日の12日。しばらくテレビのニュースをつけっ放しにして、ノートパソコンに電話線をつないでインターネットのブログとyou tube投稿で浜通りの情況を探した。福島をいつ脱出しようか、ガソリンの残量は間に合うだろうか。線量計を借りてきて自宅の周辺をチェックした。室内0.23マイクロシーベルト。年間1ミリのぎりぎりだ。
 4月初旬に10日遅れで「政経東北」4月号が書店の店頭に出た。若い記者が津波直後の浜通り相馬、原町、いわきのの惨状を撮影してグラビアに掲載していた。
 驚いたのは、「原発事故が起きたらとにかく遠くに逃げろ」という記事が載っていたことだ。7年前に私が書いた記事が、そのまま転載されていたからだ。
 たしかに「事故が起きたら風向きに注意しろ」と書いて、原発を中心にした同心円で5km、10km、20kmの双葉、相馬、いわきの概略図が載っており、悪夢が現実になっていた。
 新聞家業を引退しのちに福島市に転居してから、原発事故で避難命令で福島市に逃げてきた双葉郡の家族に「借り上げ住宅」として提供した先の担当者が「ニーズ」という三瓶氏の家族が経営する土地建物コンサルタント会社だった。
 県の借り上げ住宅の書類を持参したのは自身が津島出身の熊坂益美さんだった。彼女は双葉の同胞のために毎日働いているが、彼女自身の家族も被災者であった。胸が痛かった。
 2013年7月の野馬追祭の初日。「町議選が終わってやっと忙しいスケジュールから解放されて時間がとれた」と連絡を受けた。三瓶さんが日本テレビのDASH村のロケ地の提供者の大家さんだと聞いていたから、面白そうなので面会を申し込んでいたのだ。
 「町議選で仮設を巡回すると、町長はテレビに出るから分かるが、町会議員は何やってんだ。国はどこま進めているのか、ちゃんと説明してくれ。将来はどうなるんだ。被災者の気持ちや意見を聞いてくれ、と言われる。なんとか本にして支持者に説明したい」と三瓶さんはいう。別な人物が依頼されて本づくりは進行中だった。
 それから二年たって、最初の記者が健康上の理由で断念したという。急遽、ピンチヒッターとして替りに私が担当することになった。

 2018年1月20日。避難先の自宅にてインタビュー12回目。三瓶寶次氏は居間に飾ってある親の兄弟姉妹の写真を見ながら先祖を語る。「父と母には9人の子供がいましたが、産めよ増やせよという時代でしたから、一人もらいっ子を養子に取って10人にしましたので、皇室から表彰状をもらったと聞いています」という。津島の歴史を後世に遺したい。
 三瓶さんは昭和11年8月24日生まれ。昭和32年10月に、21歳の時に結婚した。孝子さんが双葉生まれの双葉高校卒ですぐ19歳だった。
 夫人の孝子さんはDASH村のつけもの名人として常連の出演者。出身は双葉町。だるまは双葉町の名産。DASH村が17年かけて作り上げた新男米の新種「ふくおとこ」が収穫されてテレビで放映された。「うまいうまいって、言うほかないよな。テレビだもん」と裏話。かえりにおいしいつけものいただいてきました。DASH村のTOKIOのこといっぱい聞いてきました。
 19歳で津島三瓶家に嫁にきたときのこと、「あんたは自分が何もできないと思わずに少しずつ覚えればいいんだから」と姑に言われたことを昨日のことのように思い出す。
夫が保険会社で単身赴任の帰還ずっと津島の家を守って子供4人を育て、農業を守り通してきたことなど。酪農、稲作、野菜づくり。女にも女の人生とドラマがあった。
 昭和39年から41年にかけて宝次さんは母親と続いて父親が相次いで亡くなった。30歳で子供3人の当主に。昭和45年以降は子供4人(男2人女2人)を夫婦協力して養育教育し、社会人にとして成育させた。それぞれが独立し家庭を持ち、議員引退しホテル聚楽での永年勤続の身内の祝いの席には孫が作ってくれた写真パネルが飾られた。
 三瓶さんはいわきの吉野復興大臣の津島地区の後援会長を務めているので吉野復興相も駆けつけてくれたが、警備の多数のSPには驚かされた。町政で世話になった町長と区長には代表して招待したが、これからは孫たちの次世代こそ時代の主人公だ。
 自然災害と人災と。最大の苦難をどのように伝え、どう伝えてゆくか。
 3.11からすでに満7年がたった。福島第一原発事故は現在進行中で、廃炉も端緒についたばかりだ。津島の除染も賠償も、ADRも裁判もすべてがこれからだ。
 浪江町の帰還が開始されて、さまざまな行事に参加せざるを得ないので、あいかわらず忙しい。どうか健康に留意されて、故郷浪江津島のために、変わらぬ活躍を期待しています。

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