深夜のおむつ交換

老残の老人は家から病院へ移動されて、機械的に定時におむつを交換し、あとは死ぬのを待つだけ、という最近の効率的介護看護のパターンをいろんな施設で見てきたが、三日三晩その中で暮らしたのは初めてである。
生けるしかばねあつかいだ。ただ死ぬのを待つという、殺すわけにもいかない、という空気。
朝昼夜とおむつ交換に若い看護師の娘さんが来る。左右の老人の交換を気配だけ感じながら、僕の担当が来て、おしっこが朝から出ないので、とうとうおなかがパンパン状態で、すこし年長の先輩看護師が、ぼくのデリケートなペニスのさきっぺに管を刺した。
これで24時間、尿量を測るためにチューブは重力で尿袋に落ちる。
自分の体が、おもうように動かないことで、明晰な分析力が、悲しい。
翌日、見舞いにきたのは僕の家族だけ。
「牧師を呼んでくれ」と依頼すると、「家族より牧師かよ」と、あきれたような感情むき出しで息子が吐き捨てる。
残念ながら、いまの心境をわかってくれるのは、家族よりも、生活コンサルタントのカウンセラー役の専門家のほうが、わかってくれる。
脳のCT検査、MRIなど、機械はそろっているから、しかも救急車で搬送されたので、優先的に検査してくれた。あとは、結果が待ち遠しい。
待つだけの時間は長い。「ソロカバナ鉄道」という沖縄人のブラジル移民の本をもってきてもらって、読む。「もう一つの相馬移民」というライフワークのために、集中的にブラジル日系民の本を読み込む時期だったから、この仕事が途中で途切れるかも知れないものの、時間は惜しい。
真夜中にも一度、おむつ交換のルーチンワークがあるらしく、就職したての看護師が入って来た。準夜から深夜、うずれにしても夜勤の娘さんの孤独な作業。
最初は快活にしゃべりながらおむつ交換していた。
交換してもらって、気持ち良くなったじいちゃんが、ぴゅーっと、放尿をしたらしい。
娘さんは、とたんに黄色い声を出して、「きゃー、なんてことするのよ。せっかく私が交換したばかりなのにい!」
ただでさえ迷惑なヨゴレ仕事なのに、余計な仕事を眼の前で増やしてくれたか、という、やれやれを通り越した、怒りまでにじませた声色だった。
「どうして、わたしのときにやるのよ」
気持ちはわかるよ。二十歳すこしの娘さんなら、町で遊び歩きたい年頃だろうに。
これが職業人になるための通過儀礼なのだろう。
それなりの勉強をして、それなりの覚悟はしても、現実の医療現場では、これからさき、もっと色んあことが待ってゐることだろ、と思いながら、自分の身の上にも、これから先は、どんなことが待ってゐるのか。仕事もできずに、ぷつんと人生が切れるのか、不安を前に、はっきりした検査結果が出るのを待つだけだ。
イエスさまが墓に入れられて、三日後によみがえって墓から消えた事件が、人類の「西暦」という基本的スケールを決めた。
神学的神秘から、フィクション説まで、ありとあらゆる西洋文明のセットが、ぼくらの眼の前にある。
どれを信じようが自由だ。
体験できるのは、自分の経験だけだから、ぼくは自分の体験を語るのみだ。
福音書最初に掲げられたマタイ伝はともかく、テキスト考証から類推される最古の記録であるマルコ伝は、あわただしく短く、必要なことだけ書いてあるから、たぶん一番、真実に肉薄してる筈だな、などと思いながら。

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