岡田汐子女史 追悼 阿部知子
弔辞 阿部知子 1999.9月号 東金イエス・キリスト教会「恵信」より
私が汐子先生と初めて出会ったのは終戦間もない昭和21年頃でした。戦争中、長く閉ざされていた福島県の原ノ町の教会でしたが、オルガンもそのまま。そして、屋根にはまだ十字架がしっかりとかかげられておりました。静夫先生は、東京におられたので、殆ど汐子先生お一人の伝道の舞台でした。
先生は細面のほっそりしたやせ型の体型で、どこかさびしげで、又冷たさの感じさせる程の美しい方でした。御長男の信常ちゃんは、まだ、ヨチヨチ歩きの坊やでした。又やさしい、おだやかな、信仰のあつい汐子先生のお母さんは、信常ちゃんのお守りをしながら、家計をきりもりし、汐子先生の支えとなっておられました。
汐子先生は、豊かな優秀な才能を凡て伝道に活かして、私達を導いてくださいました。希望や目標を失ってしまったその当時の若者達の心をとらえずにおきませんでした。女子高のバイブルクラスも担当しました。路傍伝道の時のちょうちん、あんどんなどは、汐子先生の指導でみんなでデザインして仕上げました。
又クリスマスには、「だしもの」をもって近隣の教会を応援しました。又、聖歌、賛美歌など有名な曲は、四部で歌える青年会でした。特に汐子先生は「九十九匹の羊」(聖歌)がお好きで、この曲をアレンジして脚本をつくり、演出、又おどりのふりつけや衣装までつくり、とても美しいものでした。沢山の青年達が汐子先生の廻りをとりまきました。その頃から古い信者の方々もだんだん集まるようになり、教会が教会らしく形をととのえるようになってきました。
又機関紙GGH(ホーリー・ハーモニアス・グループ)と名づけ、その力の入れようは大したものでした。説教あり、小説あり、詩、短歌、マンガなど、内容はもとより、装丁、製本など立派なものが出来上がるようになってきました。
その頃から静夫先生も東京のお仕事を終えられ、お二人で伝道に力を入れるようになっておりました。戦後、誰れもが必死で生きてきたすさんだ生活の中に在っても、汐子先生のお導きで信仰による喜びで満たされた青春時代を送ることが出来ました。あれから五十数年の月日が流れましたが、今日まで途絶える事のない愛の交わりを続けさせていただき感謝でいっぱいでございます。
仙台青葉層荘教会