無人の小高の町を歩きながら

無人の小高の町を歩きながら
二上 英朗·2016年3月21日
小高駅前の双葉旅館の女将は旧姓紺野さんというのを小高プラットホームの主宰者裕子さんから聞いて、逢いに行ってみたが、すれ違いで逢えなかった。
たくさんすてきな少女たちはいたはずなのに、小高町郊外のみよちゃんという弁論大会でNHKの青年の主張に出た女子から告白されて、汽車通の彼女に引っ張られて原町駅前のうどんデートに行ったこと、別な金房地区の一年後輩の星なんとかちゃんを交歓会という学活で見染めて彼女の自宅までナンパ訪問したこと、林薬局の鈴木安蔵さんの姉の俳人瑛女さんの孫娘で文芸部の二級下のみどりちゃん訪ねて訪問した件の三件だけが原町高校時代の淡い小高女子との交流。
栃木のふっこうステーション岡田事務局長の定宿にしている双葉旅館には、小高駅前の古い写真のアルバムがごっそり残っていることを岡田女史が発掘。女将がぼくの原高時代の旧同窓生らしいことも教えてくれた。
ぼくの結婚前後に、同級生の自転車屋さん「愛輪舎」一級上の美術部近藤大ちゃんの家に二年ぐらい寄食させてもらっていた。そこから相馬農業高校に通勤して家政科と畜産科の現代国語の授業を担当していた。
大ちゃんの奥さんになったのは壬生町の栃木の出身で、ホームスパンをやってたから、染色と糸に興味あって、伊達の絹の現場を見たいとの要望で、川俣出身で山木屋小学校の女性教員と結婚して川俣町に住んでいたぼくは川俣シルクの機業工場や、染色研究家の山根工房や、伊達の桑折の繭の古い生糸商家などを案内したことがある。
あのころ、ぼくは東北のシルクロードというタイトルで、新しい物語を夢想していた。系統だって養蚕の現場と染色、日本一の繭の品質を誇った伊達郡の隆盛を実感した。
妻の実家の歴史の中に、ハワイとブラジルへと移民していった大伯母たちがおり、ブラジルへ移民した佐藤ノブという女性は、山形の生糸を扱う蚕糸試験の伝習所に学びに行ってそこでいわき出身の青年に見染められて結婚して二人でブラジルに渡って行った。大正12年のことである。
彼らの生涯を追って地球を跨いで旅して来た。その出発点が山形米沢の蚕糸技術伝習所だった。
妻が一時講師をつとめた川俣高校には染色科という珍しい科目があった。絹織物の町ならではの事情が背景になっている。ひところの隆盛はないが、いまだに町を歩けば機業のがっちゃんがっちゃんという音が聞こえる。最盛期には、うるさい程だったと町民は必ず語る。
川俣は、ミラノコレクションで注目される世界一薄い美しい素材のスーパー川俣絹の品質が、こんにちも注目されている。
きのう訪問して、浮船の里主宰者久米静香さんのNPOの設立と事業紹介と説明を聞き、小高の桑で、小高の蚕で紡いで造った糸を、小高の植物で小高の色を染色して、小高の絹に織りなすという物語を織りだす、という彼等のなりわいに感動を触発された。
きのうは博物館のメンバー二上文彦学芸員に、おとといの様子を報告しながら情報交換し、文化財保存委員長の二上裕嗣氏の「小高の養蚕は川俣からではなく安達から入った」概要と、久米女史が語った「小高の絹は川俣の絹の品質にかなわなかったので、川俣に送って川俣絹のブランドを借りて事業展開した」という事実にも触れて、くわえて私の妻の同級生の姉妹たちがおおく小高町に嫁いだ連関について触れた。
第一回の常磐線開通に絡めてふっこうステーションイベントで、産業史としてとらえていた小高の創生について語った。第二回目のイベントで、無人の小高の町を歩きながら、東北のシルクロードの物語がほぼ完結した。

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