小説村田一郎の記憶

内臓疾患身体障碍者のぼくが、心臓カテーテル手術5回で、なんと若いころに復活してきたよ。原高時代のマラソン大会で優勝した一郎にはかなわねえが、すくなくとも俺はまだ生きてる。もうすこし生きるつもりだ。だって、俺が死んだら、もうあの一郎のすごさを後世の後輩に語る人間がいなくなるじゃないか。君が一郎のことを語り継ぐのはあたりまえだが、おれだってそうだ。高校生の前から、一郎の家に遊びに行って、一郎が読んでた漫画月刊誌で同じ雑誌を暗記するほど競って本を読んだ。中学校では、校内作文コンクールで一郎が優勝し、おれは同じクラスで二席になった。俺たちは、原町二中で最も優秀な二人だったんだ。ただし国語ではね。あとの分野も全部一郎がすぐれていた。というか、一郎は何でもトップだった。それでも俺は自分よりもすぐてれてる一郎をうらやましいとも思わず、にくらしいとも思わなかった。ぼくらは親友だったからだ。原町高校に進学したあたりから、ぼくらは方向がちょっと違ってきた。最初は一郎が、通学路の途中にぼくの家に寄ってくれて、一緒に南東の北原地区から北西の小川町まで原町を斜めに横断して、毎日毎朝、一緒に歩いて、語り合ったんだ。あの昭和40年代の空気のなかで、同じ時代に生きたんだ。小学校でも、つまり昭和39年に東京オリンピックを学校のテレビを見たのも一緒だった。金メダルの三宅選手に拍手し、遠藤選手の大葬に喝采したのも一緒だった。三宅義信が金メダルを取った瞬間には一郎とぼくは肩を抱き合って喜びあった。重量挙げってすごいな。日本はすごいな。また世界一の金メダルだ、って。それがぼくらの小学生時代だった。
でも、中学時代に文学に目覚めたぼくは、万能型の一郎とつきあう時間よりも、和彦と一緒の時間が長くなった。樋口一葉の姪にあたる志賀よしさんという女性がいた。プロパンガス燃料店の嫁さんつまり息子の和彦の母親にあたる。
原町では、いろんな人々に出あい、めぐり逢い、ぼくは彼等を愛し尊敬した。彼らはぼくらを愛してくれた。小さいころから原町が好きだった。
村田の両親は、ほぼ、ぼくの家と同じ所得と消費生活で、おなじ田舎の庶民階級の家族で、同じ政治信条で国労の支持者で社会党に票を入れ続けた。一郎の部屋で子供時代の半分をすごしたから、村田の両親が仲人をたのまれた見知らぬ男女が来て、もじもじとしている光景を目撃し、一郎と一緒に男女のお見合い結婚という経過をみた。あとの半分の時間は、一郎はぼくの部屋で漫画をながめたり、学習雑誌の付録の文庫本を読んだりしてた。空想科学主説や、アメリカミステリーのリライト本などなどを。
ああ。あの黄金の中学時代よ。ぼくらの少年時代は、精神的にのんびりしていながら、とっても自然にあふれていて、のびのびと健康的で、ぼくらはとびきり優秀な知性だった。
あんたたちは、IQが高いんだから、今の成績で満足してちゃあだめよ、と、東京から来た中学教師の屋代つる代先生に呼ばれていわれた。職員室でのこと。
英語の若松蓉子先生とか音楽の岩佐敏子先生とかの若い日の姿が同じ空間に見えていた。
屋代先生は、具体的に個別の名前をあげて明確に言った。あんたらは、やがて人の上に立ってみんなをぎっぱってゆくことになるの。まずなまえを最初に挙げたのは「村田一郎」。次に志賀和彦。ぼくのなまえ。そして高篠文明。

冒頭ちかくに「君が」とあるのは、村田の未亡人の純子さん。この文章は、村田の思い出を書き始めてどんどん、思いでに浸って、少年時代の回想記になって、このまま小説の一章にふくらんできたので、途中でやめて、切った。
つづく

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小説村田一郎の記憶” に対して1件のコメントがあります。

  1. 高篠文明 より:

    原町二中で国語の担当だったのが、屋代ツルヨ先生です。ご本人は、「つるよ」と書いたり、一時は「つるよ子」と書いたこともあったとおっしゃっていました。「子」に対するあこがれがあったとか。「元来、子には可愛いという意味があるのよ」とも。私はそんなものかという受け止め方しか出来なかったけれど、ご本人にとっては名前のことなので、重大事だったのでしょう。
    東日本大震災で茅野市に避難された屋代先生ご夫妻でした。私が介護事業を始めるにあたって資格を取るため学校に通っていると報告したら、「あら、私なんか90歳にして日本画の勉強を始めたのよ。あなたはまだまだ。これからですよ」と手紙で励ましてくださいました。
    常に前向きの先生でした。

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