ふるさとはもうもとには戻らない 小高区は原発事故でどうなったか 9.21
コスモス・カフェ 第23回講演会
サンライフ原町会室で
元小高町長江井績さんの話
驚いた。
3時間にわたる講演のうち、7回か8回は、小高はもうだめだ、の繰り返し。小高がああなったのは、みんな桜井のせいだ、という内容なのだ。
こんな人物がかつて6年間も小高町の首長だったのかと。
南相馬市域の百年間の現代史クロニクルをまとめているが、できるだけ前向きにとらえて、希望を持てるように書こうと思っているのだが、
ノートを採りながら、こんな暗い話で、希望のない講演を、えんえんと同じ調子でやられると、福島からわざわざ聴きに行ったかいがあったのかと。
ぼくらが歴史というものを振り返るのは、未来に活かして生きるためだ。
役場の職員のときに、こんなに立派なことをやったという回想もいい。
あの時こうだったという話もいい。
ぼくらは小高の人間じゃないから参考にはなる。
それをみんな壊したのは、みんな桜井のせいだという口吻は、聞いていて実にあとあじの悪い繰り言である。
「江井さんはいい人」という評は、町長選挙のときにさんざん聞いた。
予想どおりの内容の講演だった。
「いい人」の、大惨事のあとのこの8年半の総括は、こんなものなのか。
やめていて、よかったね、というほかにない。
すくなくとも、だれもあなたを責めないから。
江井氏は仙台の息子の家に避難していた。妻に、小高の町民と同じ経験をするべきだと言われて、それもそうだと思って牛越の仮設住宅に二ねん生活した。ここは八、九割が小高からの避難者が生活してました。夏は日照りが鉄板の屋根を通して蒸し暑い。冬は冷えてて我慢できないほど。壁は薄くて、テレビの音も、ひそひそ話まで隣の部屋に聞こえる。
二三ねん先輩で行政で活躍した人から、今頃になって「小高には帰らないよ」と言われて、頭が真っ白になった。
国民年金では、暮らしにならぬ。どうすっぺ。と言って涙がこぼれるのを見た。その先輩が、復興住宅に入って、半年後に死んでしまった。
NHKふくしまのインタビュー番組で、知り合いと再会した。うれしかった。
担当のデイレクターが若くて正義感があった。でも、帰り際に「実態はそうじゃないんです」って言った。
放送予定の三日後に、取材していった内容はキャップの許可がおりずに、番組にはならなかった。
小高がとりあげられる回数は多いが、マスコミの報道は、本当のことを伝えているのか。疑問だ。
町に戻る、といっても、人口の7、8割が「帰りたい」という意見で、一気に戻る形でなければ意味がない。
桜井さんの決断は、あまりに拙速な帰還だった。
小高の治安は、消防団で成り立っている。いままで360人で構成されていたが、いま20人しかいないんです。
ポンプ車を配置したが、人がいないから動かせない。神社と工場が火事になって、丸焼けになってしまった。
いまや狸、イノシシ、サルは百匹の群れをなしている。屋根の上で運動会ですよ。
葦と柳が田んぼに生えてしまって、田植えもできない。
小高の人口、2900人。一本町。80%が建物が虫食い状態の更地になっている。どうすんの。
土地は地主の管理だ。われわれは強制的に決められたルールに縛られて違反すれば10万円の罰金だ。
ずっと国と東電には「要望」ではなく「要求」を出してきたが、なんと東電の回答はゼロ回答です。ひどいよね。
もう裁判しか、方法がありません。
いろいろな小高の人から相談を受ける。山林を背にした老夫婦から、環境省に樹木を頼みもしないのに斬られてしまった。いくら抗議しても相手にしないというのです。
現場を見ましたら、これは「盗伐だよ」と私が言ったんです。環境省の役人に、一緒に行ってくれと言われて、話を聞いた。
当事者しか知らない本当の気持ちというのがある。役人には「まず謝れ」と言いました。
環境省の責任者は須賀川にいた。いいわけばかりするんだな、これが。行政評価に5,6人がやってきた。わたしは「警察に被害届を出すよ」と言った。
そうしたら、あわてて顔色を変えた。
平成27年11月、28年2月、5月と説明会がありました。
説明会を何回もやったが、どこの会場でも満杯になった。結論は出ない。
環境省の担当者は後藤という、
もとは農林検査官をやっていたという人物。(略)
最後の一時間は、町長時代の成功時代と、それ以前の職員時代の、かつての小高の黄金時代の披露だった。
私は町長を6年間やった。小高は住民主体の町だった。老人ばかりなので、バス路線もなくなった。
たとえばeタクシーの事業をやった。あれは小高が自前でやった。わたしがやった。
役場には行政調査というのがあるが、ふつうは小高なんかには来ない。でも、このときは全国からやってきた。インパクトがあった。
クリスマスの時期に、夜のイルミネーションをやった。30万から私ラガー50万で大きな効果があった。「小高のイルミネーションを見に行こう」と、たくさんの人が集まってくるようになった。
それまで秋市を、行政、商工会、農協が、ばらばらにやっていたから、盛り上がらなかった。
警察署は、交通規制に慎重で、なかなか許可が下りない。
そこで私たち職員が、すべての団体が一緒になって町民秋祭りをするようになった。
「町でやるなら」と警察から許可が出た。
岡田から1キロ500メートルの通りにテントを100張り張った。店から商品運んできてどんどん売れた。歩行者天国をやった。100万円ぐらいすぐ売れた。
そしてまた現状のくりかえし。
70歳。今更小高に帰って、住民だけでは何もできない。わたしは大井の出身ですが、ほとんどが住んでいても二人だけ。子供はかえってこない。夫婦のどちらかが死ねば、おしまいだ。復興できるわけがない。
「原因はみんな東電ですよ」「個人の生活への賠償が必要だ」
ひとり10万円のお金が出たが、こんなものは精神的慰謝料にはならない。すぐに生活費でなくなっちまう。こういう話は首長が、話をつけるべきなんだ。
平成29年3月に飯館村が解除され、川俣町は7月に解除され、除染99%だった。小高は、除染が終わっていないし元に戻っていない。
「昔はよかった」節が、すぐ「だめ」「できない」節に戻って、けっきょく「桜井のせい」になる。
「自分だけがいい子になるだけが行政ではない。とにかく桜井さんが南相馬市小高区の重しになった」
その発言の裏には、自分なら、国と東電に首長としていうべきことを要求し、きちんと住民の希望にかなう結果を出す、とでも言いたいところなのだろう。
それにしても江井の講演は奇異さを感じさせた。
桜井元市長は、昨年の市長選挙で敗れてずいぶんになる。しかも、当選した門馬市長との差は、わずか203票である。6万の人口の都市で、これは決定的な政策の違いというよりも、「どっちが勝っても同じ」という市民の声が聞こえてきそうだし、江井はいまだに「桜井が市長」と認めているような口ぶりなのだ。
しかも、小高区の合併当時のみずからの職務の不完全燃焼への後悔が、「町長さん」といわれて相談に乗るものの、いまだに「いまは町長は、元だろう」と言われる身の上への、繰り言とともに何度も何度も反芻する。しかし桜井市長もまったく同じ「元市長」だ。現在の南相馬市は門馬市政で動いているのだから、まったく同じ条件の桜井氏への攻撃を繰り返すことの真意が、どれほどの意味があるのか。
江井氏の気持ちはよくわかる。
全国から求められて、元市長の桜井氏が講演行脚して発言の場にあるのに比べて、江井町長は30年前のことである。
最後に、「小高町の将来は、どうなんだべなあ」という小高住民のおおかたの不安と、まったく同じ不安の「もうだめだあ」という愚痴ばかりが、とめどなく反芻する3時間余りの講話であった。
20名をどの聴衆に向けて、江井氏は「小高の一年生は、何人いると思いますか」と、逆に質問を」発した。小高の将来という、未来への展望の例として出したのだろう。
「6人ですよ、6人。去年も6人。おととしも6人」
これがかつて、原発爆発の直前の2011年3月11日の人口だった。12834人。
江井講師が準備し、聴衆に配ったのは人口の比較の令和元年3月の比較リストだった。
浪江と小高が共同で計画した水がめの大垣ダムの多大な建設費用を、もともと東北電力の浪江小高原発の収入で、返してゆく予定だったことも、説明がない。
福島第三原発となるべき青写真が、もし稼働していたら、いまごろ日本は東日本の破滅どころではなかったろう。
原発誘致で潤沢な予算に沸いた双葉郡をうらやみ、小高町民が官民一体で誘致した経過への反省も経過総括も、なにもなし。
文明論なき江井元小高町長の、原発爆発事故との連関はどうなんだ。双葉郡も浪江町も「被害者」だけの面を強調してきた。
事故後の原発再稼働を是認する政党への投票をいまだにくりかえし「原発さえなければ」と、どの口から発するのか。
“ふるさとはもうもとには戻らない 小高区は原発事故でどうなったか 9.21” に対して1件のコメントがあります。
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第23回コスモスカフェ「ふるさとはもうもとには戻らない」江井元町長のお話の概略を拝見しました。
福島第三原発「浪江・小高原発」に対する取り組みとそれについての反省がなければ、「被害者」として発する言葉には重みがないように思うのは私だけでしょうか。「いい人」とは誰にとって「いい人」だったのでしょうか。