特攻隊員は汽車で鉾田まで行った

原ノ町駅前で勤皇隊山本隊長以下、12人の特攻隊員と軍属の整備工員と整備下士官兵たちも一緒に、本部の鉾田に向って出発した昭和19年10月18日の朝の光景。
 秋燕のよう、と加藤美喜子はひとりごちた。
 輝くような個性を持った若き士官も少年飛行兵も、いっせいにミルクパーラーにやってきたかと思ったら、もう次々に去ってゆく。昭和19年の秋は、まさにそういう季節だった。市内の中野磐雄さんが予科練から南方の前線にゆき、海軍神風特攻隊敷島隊の「軍神」扱いになった。原町飛行場で特訓を受けていた身近な少年たちが「陸鷲」と呼ばれ「神鷲」と呼ばれて、現実の戦火の中へ身を投じたのは、昭和19年11月から12月、翌昭和20年である。
「鉄心隊」「勤皇隊」「武剋隊」「武揚隊」などといった美称は、第六航空軍のトップにある富永司令官の命名による。
 新聞を見ていていてください。あるいはラジオを聴いていてください、と言って別れて行った。少年航空兵の功名心は、「空母轟沈」を熱に浮かされたように語り、求められるままに色紙に書き、また礼状に謝辞として書いた。
 美喜子さんが50歳のころに、大学生のわたしに「寺田さんは、どうしたかしら」とつぶやいた少年のその後については、かなり詳しくレポートされている。
中央門口少尉

 八日朝、新田原を出発。沖縄に向う。農霧のため編隊はばらばらになり、沖縄に行きついたのは寺田増生伍長の一機だけであった。三浦隊長以下は新田原に引っ返した。
 九日。三浦隊長以下全機、沖縄に到着。その後、台湾坊主と俗称する冬の台風、東シナ海低気圧発生のため、十一日間滞在。
で11日滞在。
二十日、沖縄を出発、台湾塀東着。一機が着陸に失敗して破損。代替え機を受け取る。二十三日塀東を出発したが、バシー海峡の濃霧のため編隊は離散し、三浦中尉、桑原金彦少尉、春日元喜軍曹の各機はルソン島北部のラオアグ飛行場に着陸。門口燁夫少尉、渡辺力軍曹、吉村正夫伍長、小平伍長、入江千之助伍長、、利光勝義伍長の各機は塀東に引き返した。
 二十四日、桑原少尉、春日軍曹、寺田伍長の各機は目的地のクラーク飛行場に飛び、三浦中尉はラオアグに残って、部下の到着を待った。三浦隊のラオアグ飛行場に着陸。門口燁夫少尉、渡辺力軍曹、吉村正夫伍長、小平昭伍長、入江千之助伍長、利光勝義伍長の各機は塀東に引返した。
 原町の慰霊碑に刻まれている特攻隊の銘にある名前は、当時の雑誌にも新聞にも載っている。

高木俊朗「陸軍特別攻撃隊」から。
 この日、新手の特攻隊、八紘第十一隊の9機がクラーク中飛行場に着陸した。隊長は陸士56期の三浦恭一中尉であった。万朶、富嶽以来、フィリピンにきた特攻隊は、合わせて十四隊となった。そして、この八紘第十一隊がその最後の隊となった。
 この隊は万朶隊と同じく、鉾田教導飛行師団で編成された。機種は二式複戦、武装は三十七ミリ機関砲一、二十ミリ機関砲二、7・7機関銃一をもっていた。
 富永軍司令官は、この隊を皇魂隊と命名した。
 この隊が鉾田を出発したのは十一月二十九日であった。それからクラークに到着する」までに、二十七日かかっている。皇魂隊の整備員であった河口忠伍長の戦後の記憶によれば、次のような苦難の多い状況であった。
 三浦隊の十二機は鉾田を出発して、大阪(八尾)飛行場に着陸した。この時、一機をこわしたので、代わりの飛行機を受け取るために一日出発をのばした。
 十二月一日、大阪を出発、愛媛県松山飛行場着、二日、松山より宮崎県新田原飛行場に飛ぶ。ここで野沢欣二郎曹長が事故で負傷して同行できなくなり、のちに台湾で戦死。
 八日朝、新田原を出発。沖縄に向う。農霧のため編隊はばらばらになり、沖縄に行きついたのは寺田増生伍長の一機だけであった。三浦隊長以下は新田原に引
き返した。
 台湾坊主という温帯低気圧(台風)で11日も滞在。
二十日、沖縄を出発、台湾塀東着。一機が着陸に失敗して破損。代替え機を受け取る。二十三日兵東を出発したが、バシー海峡の濃霧のため編隊は離散し、三浦中尉、桑原金彦少尉、春日元喜軍曹の各機はルソン島北部のラオアグ飛行場に着陸。門口燁夫少尉、渡辺力軍曹、吉村正夫伍長、小平伍長、入江千之助伍長、、利光勝義伍長の各機は塀東に引き返した。
 二十四日、桑原少尉、春日軍曹、寺田伍長の各機は目的地のクラーク名は飛行場に飛び、

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