飛行場跡地で 昭和57年7月

飛行場跡地で

 原町にあった陸軍飛行場は、昭和十五年に開場し、戦争が終結するまで存在した。
 原町飛行場は、陸軍飛行学校の分教場として使用され、ここから幾多のパイロットが戦場へと巣立ち、殉じた。
 戦争が熾烈をきわめるようになった昭和十九年の末からは、特別攻撃隊が編成されるようになり、フィリピンや沖縄へ米艦隊を目指して体当たり攻撃をを敢行するために飛び立っていった。
 前述の飛行六十五戦隊の名誉のために書いておくが、彼らの殆どが沖縄戦で命をささげた。原町飛行場に関係した将兵、軍属のうちの実に二百六十余柱の尊い生命が失われたのである。
 原町飛行場に関わる思い出は、原町町民の中に深く根付いている。地元の人々と、飛行場関係者との交流は、時をへだてて現在も続いている。
 八牧通泰氏は、青田信一氏、森鎮雄氏らの努力によって、原町飛行場関係戦没者の記録集「あかねぐも」が発行された。こうした活動をはじめ、毎年九月二十三日の秋の彼岸には原町飛行場関係戦没者慰霊顕彰会(渡辺伸会長)による慰霊祭が、原町市公園墓地で行われている。
 昭和五十七年九月。。
 公園墓地から望む原町飛行場跡地には、きれいに企画された住宅地が広がっている。その一画に新たな分譲地が見える。
 国見町生協団地となるべき場所である。
 過般、私は家族を連れてそこを訪れてみた。若い夫婦や子供連れの家族がマイホームの下見に来ていた。
 それから近辺の農家の点在する径を、車で縫うように巡ってみた。
 旧飛行場の格納庫のコンクリート跡や、雲雀が原航空神社と呼ばれていた社が、農道の脇に朽ちかけて残っているのを見つけた。
 それらは物言わぬ証人である。
 小さな私の町の、空襲という事件は、町の人々の各世代を一様に共通の同時性で輪切りにしてみせた。
 その断面図を構成するジグソー・パズルのごとき一片ずつを、拾い集めて夏は過ぎた。
 平和な時代に生まれ育った私にはとうてい信じられないような世界が、そこには拡がっていた。
(第一部おわり)

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