境界の町で


境界の町で
アメリカがベトナムに介入した時点で「他国の内臓に手を突っ込んだ段階で同じ病気に罹った」と表現されたフレーズを思い出した。311以後の3年間を再構成することで作品化し、当初は自分自身さがしで福島にかかわった作者が、苦しみながらも、あれらの体験を「作品」世界に封じ込めることに成功した。岡映里「境界の町で」これはひとつの創造の物語である。

311のあと多くの出版物が世に出た。最初は、311を理解するために、希少な情報を得ようとして。やがて半年後からすぐれたノンフィクションや、あらゆる雑多な情報まで多産され、3年目からは平積みの書店の震災コーナーは場所が正面から移され、もう誰も見向きもしない今、在庫の紙屑になりつつある。図書館でレファレンサーの助力なしに、自分が求めるテーマに適する好書に出合えるのも難しい。それはそれで勤勉な作業である。

岡映里はみずからの気持ちをあとがきで「苦しんだ」と告白する。その苦悩にうちのめされて鬱状態で最初の編集者の出版のオファーに応えきれずに暫く臥せったとも言う。その苦しみはどこから来るのか。思いめぐらすと、彼女の生育過程やいまの状況にいたるまでの、さまざまの具体的事象はあるのだろうが、人が苦しむときに心を蝕む主因は「怒り」であることが多い。その怒りはどこから来るのか。もはや分析しても意味のない地点にまで生きてきた彼女は、それを解決するか、折り合いをつけて生きるほかないから苦しくなる。中途半端なままに、新しい状況の世界を見せたのが311だった。呼吸するにも苦しいから「死んでしまいたい」とさえ思いつめた時もあることさえ忘れさせたのが、それ以上の悲惨を絵に描いたようなフクシマだった。そこは彼女に、新しい感覚を味わわせて魅了した。息をし、好奇心を高速度撮影のごとくに成長させ、もっとも得意な職業的な本能が刺激されて、次から次へと携帯内臓カメラのように文章に定着させたのは、ジャーナリズムの最初の津波がおさまった3年たった後のことであり、ICレコーダーに録音されたインタビューメモを、書き起こし、全体を推敲して構成し直してからだという。われわれが、もはや過ぎ去って忘れつつある311直後の感覚を、この文章によってまざまざと思い起こし、取り戻すことができるのは、この彼女の「苦しみ」ゆえである。苦しみは、たしかにつらいものだが、それは「力」となりうる。苦しみをもたらす「怒り」こそは、もっとも激しい力の源泉となりうるからだ。
文章とは、エネルギーを、コントロールする必要があり、知力を要する。だからこそ良い文章を練りあげてゆくためには時間が必要になるのだ。怒りから救われるために、苦しみから解放されるためには何が必要か。それは「許す」ことだろう。許せないこだわりを、ついには許す瞬間が来ることを願うしかないのだ。
彼女は、この本を書きあげたときのやすやぎを説明するかたちで「福島で出会った好きな人達のことを書きました」と答えてくれた。つまり、福島に惹かれて長距離バスで通う目的地にある「すべてを失った地域」の人々の、まったき善意だった。怒りを克服して「許す」しか生き延びるすべのないフクシマ・ピーポーの、振り切れた針のかなたにある他者への限りない優しさに触れて、彼女は「癒し」を体験してしまったのだ。
本書が、男書き手法の数多いレポートではなく、青い鳥を求めて巡礼した少年少女の童話のような清々しい結末のような読後感を与えるのは、それゆえなのだろう。
「フクシマ」を自分のキャリアの出汁にしようと乗り込んできた有能なメデイア人も医者もライターも、くさるほど見てきた。現地人代表の郷土史家作家としては食傷しうんざりもしてきた。
しかし彼女と初めて出会った福島の12月。短い面会を、巧みで滑稽な味付けでブログにスケッチされた文章に、映画スタッフの現地ガイドの役として出現した自分の娘のような彼女が、福島を訪問して本質的な福島を描いてくれたライターとして、合格点をはるかに超えた同朋としてのフクシマ・ピーポーの一人として迎え入れたい。
「お・か・え・り」と。

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