311のあとで 神の沈黙ということ
かわいそうな悲運の津波犠牲者たち。原発事故で蹂躙された故郷、と。
最初はそれしかなかった。
多くの高位の聖職者、高名なる文筆家が「神の沈黙」という。あの311の後でもそうだった。
しかし、津波の跡、人口の9割が消えうせたわが故郷の海を再びみたとき、人工のものすべて、護岸も防潮堤も家屋も道路も水田もことごとく荒廃して消失し、 湿地と抜けるような青空とたおやかな海とに囲まれて、朝五時の上ったばかりの光球を目前にして、ひたすら思ったのは「神は偉大なり」としか呻くしかない状 況だった。
わたしは二万の犠牲者と行方不明者のことを想っていたが、体にこみあがってきた感情は全く別なものだった。
それを人間のことばで翻訳するなら「おまえの準備はできているのか」という恐ろしい問であった。圧倒的な神の臨在感だった。
わたしはわかっていなかった。沈黙は人間のすることであると。
ルカの福音書23:26〜43
26彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。
27大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った。
28しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。
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