晩年の大隅真一先生
晩年の大隅真一先生
1995年は、日本の敗戦50周年の年で、何かしらの区切りとして郷土史の本をまとめようと思い立ち、「雲雀ヶ原遥かなり」というものを書いた。
昔、原町市郊外に陸軍飛行場があり、戦争中に空襲を受けたのも、その施設があった故である。しかし、雲雀ヶ原というのは陸軍施設の建設以前に民間の飛行機が飛んだ原っぱでもあった。
小高小学校に、旧式の複葉機が飛んでいる写真がある、という話を小耳にはさんで(内藤順という太田出身の退職校長からの伝である)、小高町に出向いたのは1995年の夏。
改築された小高小学校に、そのような写真はなかった。古い書類も一切破棄されたか所在不明で、あったとしても校舎のどこにあるのかさえ、誰も知らない。
大隅真一先生なら知っているかも知れない、というので、たずねた。「うきふね」という小高小学校創立100周年記念誌をまとめられたからである。
この当時、小高町内からかなりの量の古い時代の写真が集められた。その中に、複葉機の前でカンカン帽を被った人々の記念写真があったのを大隅先生は忘れなかった。しかし、「小高小学校庭にて、というキャプションには自信も根拠もない」町内で、このような広い場所は、他には無いので、そういう説明文に書いた、という。
愛情のこもった写真集である。
「小学校に行ってみましょう。あの記念誌をもらってあげます」
わざわざ、一緒に学校に出向き、在庫のうちから2冊をいただいてきた。小高の古顔で小学校の主のような大隅氏の威光はすごいものだった。(一冊はのちに小高出身だという在京の人物に送った)
これがきっかけで、しばしば独居の大隅氏を訪問して最晩年の何度か、さまざまな話を伺うことができた。
最初に聞いたのは、彼が戦争の末期に、航空隊の通信兵として、特攻隊の最後の無電を受信する任務についていた体験談であった。原町の陸軍飛行場は、末期には特攻隊の訓練基地となり、二度三度と特攻隊の編成さえ行われ、町民が白いハンカチで手を振って出撃していったという見聞はすでに取材していたので、いわばその先の、最前線からの出撃の様子を臨場感を持って聞いたわけである。
原町は、中野磐雄という海軍の神風特攻の第一号を出しているが、原町にあったのは陸軍の飛行場であったため、ここから出撃したほとんどの特攻関係者は全国から集められた若き陸軍航空兵と、老練な教官たちであった。
毎年秋には、地元原町の顕彰会が慰霊祭を公園墓地で行っている。
参列する中には特攻要員として出撃命令を受けながらも生き残った特攻兵もいる。出撃命令が出ないままに、生存した人物。出撃したがエンジン・トラブルで戻ったまま生き残った人物など、だ。そうした人々の体験記を読んだこともあり、実際に会って取材したこともある。
ところで、大隅先生の話というのは、その内実を髣髴させるような内容であった。すなわち、九州から沖縄決戦に出撃してゆく特攻機を次々と見送りながら、今度はレシーバーを耳にあてて、飛行状況を受信しているうちに、点々とつながる西南諸島の、沖縄の手前の先端の島に特攻機が次々に不時着するのだ、と。
実際の故障による不時着もあったに違いない。しかし、特攻隊が強制でなかった、などという論者の、きれいごとだけでは、歴史の一こまにされた人間の心理はわからないし、まして責められるような話でもない。
大隅先生の話は、淡々とした、批評を加えぬ一通信兵の実話であった。戦死していった人々、歴史に翻弄された人々への静かな同情のこもったものであった。
さらに、折に触れて訪問して伺った話は、インド旅行をしてきた孫息子のスケッチブックを広げての孫自慢。折ふしの読書、記憶の中の話などなど。話題は特に決まっているわけでもなく、ただ会話しているだけで楽しい時間があるばかりだ。
肺がんで入院された後では息子夫婦の家族の近況など。ことに長男心平氏夫人の直子さんの、心尽くしのことなどである。料理のことや、世話のこと。彼女はわたしの高校時代の同級生で、卒業後ずっと会っていないが、先生の会話の中に登場して、かいがいしく面倒みている姿がかいま見えた。
声が出なくなってからは、死生観についても伺った。がんは痛みがなく、手術もせずに済んだこと、それまでと変わらぬままに淡々としたものだった。
そんな一日。いま生きがいは、何か。と、たずねたことがある。
「そうだなあ。邦雄先生との雑誌を続けることですね」
大隅先生は、晩年までずっと、若い後輩の教師たちに、一緒に教育を考え勉強してゆこう、という趣旨で月刊の手作り機関紙「岬」の編集を原町の佐藤邦雄氏とともに共同で行っていた。その機関紙が創刊150号をむかえ、200号をむかえ、着実に紙齢を重ねていったが、ついに終刊の時を迎えた。
大隅先生は、終刊の辞で、この時代にサークル運動を続けてゆくことの困難さを記していた。
わたしにとって、現在の生活の最大の慰めの一は、たまにしか行かない郷里の原町で佐藤邦雄氏のお宅を訪問して歓談することである。
雑誌「岬」が終刊する前に、大隅先生の健康が悪化する以前のある日、何かの話のついでに、わたしは邦雄氏にたずねた。
「今の生きがいは何ですか」
答えは「大隅先生と、雑誌の編集をすること、かな」というものだった。
大隅先生が亡くなられた、と聞いて、まず心に浮かんだのは、時も場合も異なる場面で発せられた質問に対する、二人の口から聞いた同じ一つの答えであった。