没後50年・小林美登利を顕彰する
没後50年・小林美登利を顕彰する
小林美登利という人物をご存知だろうか。彼は会津美里市(旧田川村)生まれ、会津中学まで剣道の防具を担いで通学し、同志社大に学び、ハワイと米本土で英語と神学を修め、大正十年にブラジルに移住した。サンパウロに聖州義塾という日本人学校を創立し、その卒業生らが現在ブラジル連邦議員や大臣をつとめる日系人リーダーとしてブリックス新興国の一画を担って活躍する時代になった。
また小林は南米初の日本キリスト教会を建てた人物でもあり、海外日系人の巨星として国会図書館憲政資料室に小林コレクションという特別文庫が設けられた。
ブラジリア大学の根川利夫教授は「小林は第二の野口英世だ。会津が生んだ偉人としてもっと評価されてよい」と研究中だ。
昨秋、根川教授を会津の生地に案内したが地元で小林の存在を聞くと、もはや誰もその名を知る人がなかった。
福島大学と県立医大は戦後の学術復興のため海外同胞に援助を請うたが、在伯県人は故郷の子弟のため百万円の寄付を小林に託した。苦しい時代に世話になった恩人の名を母県のわれわれが忘れてよい訳がない。
明治四十一年、羽金政吉とともに若松市阿弥陀町の日本組合若松教会で兼子重光牧師より洗礼を受けクリスチャンとなった。
同四十四年、会津中学を卒業し、同志社に学ぶ。前年暮れに友人遠藤作衛が帰郷して美登利を同志社神学部へ勧誘したためである。
「君は同志社に入らなきゃならぬぞ」と、強く遠藤は迫った。「そのために僕は若松に帰ってきたのだ」と。
美登利は京都で五年間過ごし、大正五年にハワイへわたって一年間英語に慣れ日系人に親しみ、翌年カリフォルニアへ。サンフランシスコの神学校に学び、アラスカでアルバイトし、さらにニューヨーク州都オーボーン神学校、シカゴ大学で田崎健作に学んだ。
大正十年(1921)、ブラジルへ渡り、マッケンジー大学でポルトガル語を修め三年。
大正十四年、サンパウロ市内に聖州義塾を開校し日系人子弟の教育を開始した。
大正十一年に弟登次郎を会津から呼び寄せ、昭和二年に妹トミも呼び寄せた。
大正十二年にはパラグアイからアルゼンチンへと踏破して日系人同胞を訪ね歩いた。
昭和四年九月二十五日、富山県の柳田安五郎の五女富美と結婚。十月二十六日出港のサントス丸の輸送監督として再び渡伯。この時妹も同伴し、コチア小学校長石原氏と結婚した。
昭和八年に福島県海外協会は発足するやサンパウロの県人会は直ぐに伯国支部となり美登利は役員をつとめた。
昭和十年、日本人渡伯二十五周年記念で教育功労者として外務大臣・拓務大臣より銀杯を授与される。昭和十五年の皇紀二千六百年記念には帝国教育会長より表彰され銀杯を授与された。
戦後、福島大学の学長から復興資金の寄付を要請された海外県人会はこれに対応し、百万円の巨費を集め、美登利はこれを託されて昭和二十七年帰郷した。
当時の福島民報の紙面には、郷里への愛の寄付金を提供した福島県人の全員の出身地と氏名が二日にわたって埋め尽くした。
美登利は福島大学と県立医大に百万円を手渡した。これは彼が福島大学学芸部長栗村辰雄と刎頚の友であったからである。
貧困にあえぎ、冷害や洪水、口減らしのために日本を食い詰めて海外へ渡った移民は、緑したたるブラジルの密林を伐採することから第二の人生を開始した。
すべての移民が農奴のような契約労働に耐え、戦争で肉親との音信不通となり、排日法の下で日本語での会話も集会も日本名の子の命名も禁止され、ついに異国の土になることを迫られて、「日系人」となる覚悟を固めた人々が、自分を捨てた国とは思わず、戦災に苦しむ同胞への郷里愛のほとばしりとして、その奉げものに郷愁を万感こめたのである。
県民の感謝を背に、美登利は再度同胞歴訪の旅を続け、サンパウロ州、パラナ州も散らばった県人同胞を訪ね歩き、「日本人渡伯二十五周年記念誌」という大冊の編纂事業を志した。
昭和三十三年(1958)ついに稿はなり、地方在住の福島県人移民を網羅した名鑑は実現した。
確かに、一生のほとんどを海外で暮らした人物なので、郷里では関係者しか知らないのは当然だろう。
しかし、こんにち国立国会図書館の憲政資料資料記念コレクションには、小林美登利関係文書が収集保存され、日本史上の海外教育・宗教文化の世界に輝く星となっている。
今後かれの郷里で彼の偉業を顕彰する作業が必要になってくるだろう。
昭和三十三年、福島県は全国第五位のブラジル移民者数を記録した。
三十六年三月二十四日、脳溢血で美登利は死去。
十月一日、若松教会で友人らによって追悼式が開かれた。松本宗吉牧師の司式により、五十嵐勇作氏ほか小林貢氏らが故人閲歴、挨拶にたった。柏木信一郎、相田泰三、公家裕、遠藤栄氏らが追悼の言葉を述べ賛美歌286番「神はわが力」が歌われ、丹忠牧師の祝祷のうちに閉会した。