ff川俣座・川俣中央劇場の由来
川俣座と川俣中央劇場
川俣座(川又座・通称中丁)は常泉寺の入り口、門前橋のたもとに明治21年資本金480円で歌舞伎好きの10人の旦那衆によって建設された芝居小屋。初代座主は斎藤寿太郎。寿太郎は川俣町中丁生まれの生粋の川俣っ子で川俣で召集令状を受けた最初の人。当時は仙台鎮台と呼ばれた第二師団に入営。日清戦争に従軍した。帰国後、川俣座で中売り(売店)を開きながら興行師として活躍した。また料理人としても腕が立ち、寿司屋も開店していた。寿太郎の死後はせがれの幸作が二代目斎藤興行所を引き継ぎ演劇界の発展に尽くした。 川俣座の落成式には名代の岩井半四郎、名脇役中村播之助、名女形名中村芝雀らが、開通した東北本線の松川駅から人力車でやってきた。大正4年に増改築して映画常設館になり、大都映画の近衛十四郎、阿部九州男、松本宗三郎、牧野智子、琴糸路、東竜子らを映し出した。戦後2度近衛十四郎一座が来演。息子の松方弘樹はまだ子供で中嶋食堂主人がよく一緒に遊んだという。戦後は歌舞伎の松本幸四郎、市川海老蔵、阪東味津五郎、大谷友右エ門、市川八百蔵など、芸能人では水之江滝子、寿々木米若、霧島昇、三波春夫らが舞台を踏んだ。 大正4年8月14日民友。 〔伊達郡川俣町劇場川俣座は過般来数千円の予算を以て改築中なりしが愈々落成せしかば更に内部の装飾を施し来る九月一日より七日間改築披露祝として大演劇興行を挙行せんとて目下東京俳優連へ交渉中なりと云ふが福島、郡山、川俣、松川、飯野各方面の有志より寄贈せられたる五彩の美を尽せる引幕殊に福島中村呉服店より寄贈の鈍張(緞帳)は絢爛として頗る見事なるものの由にて目下開場の準備中なり〕 6年頃に常設となり、チャップリン等が人気を博した。 大正9年5月5日民友に〔川俣町引地興行部で川俣での活動〕として〔二日より日活の「殉職松本訓導」〕上映を報じている。同じ伊達郡の桑折座での翌月の〔大正九年六月廿弐日 廿日、廿一ノ両日、松本訓導〕の記録にあるのは同じフィルムだろう。 大正11年3月、川俣座は東北弁士協会の岡庭梅洋氏が経営一切を引き受け、館内外を刷新。帝キネ特選フィルムを上映。頗る好評。話題の「幼年時代の乃木大将」も上映。帝キネ弁士長の梁川旭東氏が説明に立った。 景気の良かった大正9年12月には川俣中央劇場も建設され誕生した。 川俣の郷土史研究雑誌に載った三浦正男氏の「昔を懐かしむ『川又座と中央劇場』」という文は、大正の川俣の映画懐旧を描いている。 〔私が小学生のころ、常設映画館として川又座(通称-中丁)と中央劇場(通称中劇-日和田)があり、大衆娯楽の殿堂として覇を競った。川俣町民はどちらのファンということなく、映画の題名によって中劇周辺の人たちが座に行ったり、座周辺の人たちが中劇に行ったりしていた。 テレビはもちろんのこと、ラジオもなかった時代なので映画(そのころは活動写真=活動)と言っていた。人によってはシネマとかキネマとか外国語で言う人もいた)は、大人も同じだったろうが子供たちにとっては、それこそ再興最大の楽しみだった。内容は旧劇(時代劇)と新派(現代劇)の三本立てで午後七時ごろ始まって十時半か十一時過ぎになることもあった。旧劇の方が人気があり、新派では“己が罪”などが女性の間で人気があり話題になった。シネスコ(シネマスコープ)は戦後出現したもので、あのワイドスクリーンで音量が高く、私が初めて見たのは福島のセントラル劇場「エジプト」という題名のものだった。スクリーンに写る素晴らしい場面に圧倒された。 さて、川俣ではどちらも特別の場合を除いては夜の一回興行だった。その頃の映画会社は日活、松竹、帝キネ、大都、それに新興だったと記憶している。 活動が大体同じ時刻に終わると、瓦町の辺でゾロゾロと帰宅する両方の観客が顔を見合わせる。“座はいいがったか”“中劇はどうだった”“オラ方もいいがったぞ。あした座に行くかな”“オレは中劇に行ってみようか”などと話を交わしたりした。懐かしい思い出である。〕 川俣中央劇場は、新潟出身の建築家古俣乙治が工費2万円かけて建設。三階建て、ドームつきの洋風建築で日活直営だった。古俣は川俣精錬会社、染色学校、旧役場をはじめ福島市の福島座、本宮町の映画館などの洋風建築も手がけた。 大正10年に東京日活と契約して特約館になった。日活の目玉の松ちゃんはこうして中央劇場で川俣町民のアイドルとなった。 尾上松之助主演の「荒木又衛門」は一週間の大入りとなった。大正13年の来川挨拶では松川駅から人力車で川俣を訪問したが大正15年には松之助一座は同年2月に開通した川俣線の汽車でやってきた。しかし松之助はこの年9月に死去しているから最晩年であった。 川俣ホテル社長の大泉吉三著「川俣の歴史写真集2」には、川俣中央劇場についてこう語る。 〔大正時代は平和そのものであり、巷には「船頭小唄」「枯れすすき」の唄が流行し、映画化されて、非常な人気を呼んでいたのである。入場料は大人十銭、子供五銭であった。 活動常設館は、一週間ごとに新しいフィルムを上映する。そのたびに楽隊が町をめぐりチラシをまく。夕暮れともなると、音楽隊は屋根の上で懐かしいメロディーを吹奏した。昭和3年、館主古俣乙治は宣伝自動車を購入した(25円の中古車)。川俣町における自家用車第一号である。〕 古俣セツさんは管内の様子を次のように語っていた。 「尾上松之助の出演する映画は、いつも満員でした。田中絹代の出演した『月よりの使者』は一週間も大入りでした。連続物では、何と言っても『丹下左膳』でしたよ。電話で上映日の問い合わせが来たほどです。その頃冬になると、館内では十銭で火鉢を貸し、夏は地下の売店で氷水も売って居りましたし、ラムネやお菓子も売って居りました。一ヶ月のフィルム代が350円でしたので、経営は楽ではありませんでした」と。 三波春夫は当時、浪曲師南条文若と名乗り再三来川し、後年のような人気はなく巡業先のあてもなく、三日楽屋暮らしをしていたという。 生駒雷遊が来援した時には「生駒を知らずして活動写真を談ずる勿れ」「雷遊の名調子益々冴ゆ」という宣伝ポスターを貼りだした。「沈黙」という洋ものを上演する予定がフィルム未到着で「荒木又衛門」をやったが、男性的美声で時折七五調の名調子。雷遊とともにダンサー木村時子も来演。浪曲家木村友衛が「河内山宗俊」を熱演したこともある。 川俣座と中央劇場は一時不和になったが以後、同じフィルムを融通するなど融和した。 (三浦正男による) 戦中や戦後に芸人たちが頻繁に地方に来演したのには、深刻な食糧難という事情があった。 「食べるためにやってきたんだよ」と、川俣座の三代目斎藤弘治は語る。 近衛十四郎が息子の松方弘樹を連れて何度も川俣にやってきたおり、松方は中嶋食堂で遊んでいた。そこは二代目斎藤幸作の妻妾の宅であった。 双葉百合子や島倉千代子などの華やかな歌手も来川しているが、すべて丸唐という興行社を通じた契約で、美空ひばりが山口組と深い縁を結んだような独特にして特殊な芸能界特有のつながりがある。 斎藤弘治の弟の長沼康光は、川俣コスキンの生みの親であるが、康光は川俣座にあったピアノや、蓄音機に子供の頃から親しんでいた事情が音楽好きになった背景にある。レコードのクラシックから楽器の演奏に、コンチネンタルタンゴからフォルクローレに嗜好が移行し、音楽の後継者を育てた長沼康光も彼の川俣コスキンも、すなわち、川俣座の歴史に直結しているのである。