昭和21年 岡田汐子女史の原町伝道

岡田汐子女史の原町伝道

岡田汐子女史は、1917年 大正6年3月生まれ。父は熱心な仏教信仰者だった。母も目白の日本女子大学の禅道場で知り合って結婚し、禅の普及のためともにアメリカに渡って伝道した。アメリカで生まれた兄が学齢に達したため母だけが兄姉を連れて帰国。おなかにいた子が太平洋を渡ってきたので次女は「汐子」と命名された。帰国後のむなしさから母は友人に誘われて教会に通い始め、母の信仰を在米の父は喜び子供を日曜学校に勧めた。汐子は母に連れられて牛込ホーリネス教会に通い、全国的リバイバルの時に霊的に覚醒した。  昭和16年3月にホーリネス教会の岡田静夫氏と結婚。  翌年四月に新潟県長岡教会へ赴任したが、6月にホーリネス教会が不敬罪を理由に解散を命じられ、伝道できなくなった。集会もできず生活もできず、東京や福島の親戚の家に身を寄せ、昭和20年3月に仙台の中嶋代作氏を頼って移住、7月に仙台空襲に遭った。  二高の寮に逃げ込んだ。  罹災者の標識をもらって、岡田静夫牧師の郷里福島県に向かい、そこで終戦を迎えた。

主よ、お従いします 岡田汐子 「百万人の福音」1979年9月号より

これからどう生きてゆくか。主人は1946年 昭和21年 いち早く活路を求めて東京に出ました。私は留守を守るわけです。私もどうしたら伝道できれるのか、どこで始めてよいのかさっぱり見当がつきません。でも伝道をしようという心は燃えます。  主人が東京に行く前に、平市に日本基督教伝道の道が団の牧師がいらして、そこへ伝道の道が開かれるかと思ってお訪ねしたことがありました。それで私たちのことを心にとめてくださったようで、原町市で伝道会をやるからいらっしゃいませんかと案内をいただきました。主人はいませんので私が行きました。私が伝道者だというので、そこの信者たちは、子供の集会をしてくれと言います。そしたら大人の礼拝もということで、私は喜びと感謝をもって説教をしました。復活の主がトマスに「信じない者にならないで信じる裳のになれ」と言われたところを語りました。  それが原町伝道の始まりでした。終戦後のこととて、何の娯楽もない時代だったから「でしょうか。大して宣伝もしないのにたくさんの人が集まって来ました。そんなわけで、主人も郷里伝道に使命を感じて帰って来て、いっしょに伝道をしました。ここには十年ほどおりました。

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