旭座の社長は、クリスチャンだった
布川雄幸の青春時代の教会生活の断片
布川雄幸となる前の、渡辺雄幸少年が、若い日の求道の青春に、原町教会に出席していた。「青い山脈」のような健全な、明るい戦後の民主的な歌声の聞こえてきそうな男女交際の場となった。かれは、昭和23年に洗礼を受けている。父親にことづけられて、石神村から、原町の小川橋のたもとの、デサイプル原町基督教会の礼拝に出席し、金のないときには謝金のかわりの、おおきな野菜を牧師に奉献したという。戦争中は、教会堂は軍部に徴用されて閉鎖された。合同させられた原町教会の幸町教会堂に、戦後の若者は集まった。ガリ版雑誌で、基督教文芸誌が、毎月発行されていた。そこに、かれ自身の証が書き記されていた。先月の図書館展示会で、その一部も紹介した。
昭和22年9月26日。恒例の金曜日の原町教会青年会の集会の第二回例会。(折笠宣彦記録)
椅子を円形に並べたら、妙にガランとして了った。席が全部ふさがるだろうかと一寸心配
「しづけきゆうべの」「わがきみエスよ」をさんびして兄弟姉妹を待つ。
汐子(牧師)夫人の祈りで会は始まった。
出席したのは小野田和子、高篠信子、有馬美佐子、有間ミナヨ、木村みや子、平野キヨ、安川令子、牧、平井(妹)、中沢と鈴木千恵子の二人がダンスを披露したという。なごやかな青春の日々。
安川さん、さんび歌525を独唱。
母は涙のかわく間なく祈ると知らずや♪
311の直前直後に、安川令子さんをとうとう探し当てた。令息が郡山市で牧師になっていた。安川家の家庭は、父親を早く失って、女手ひとつで子供たちを育て上げた家庭で、娘を連れて教会へよく集まった。時代的な背景と家庭の事情がわかるにつれて、終戦直後の洗礼を受けた人々の信仰の経緯が明瞭に見えてきた。
平井妹が、教会では漏らさなかったことだが、親友だったという佐藤ひろ子さんから、平井の家を訪問したときに、彼女たちが大陸からの復員者であったことを聞かされた。
帰還船のデッキの上から、赤ん坊を抱いて海に飛び込んだ女性の話を、ぽつんと語った。母のいない理由を、最も親しかった同級生にだけ伝えたのだ。
平井はいま日本にはいない。長く外国暮らしをして、そのままである。姉は国内の老人施設に入っているという。
野崎静雄「わがゆく道」朗読。軍隊から帰って、こんごの民主日本で生きてゆく指針として母親の信仰の遺産のキリスト教と、どのように出会ってきたかを、このノートによって理解できた。
折笠宣彦は、ハーモニカ、さんびか361番を演奏した。
鹿又仁、泰の兄弟について「実にしずかな口調で感謝の証をされました。今度、洗礼を受けました」とあった。実に、そこには、わたしの親友が、昭和22年に洗礼を受けていたことを、このノートで、初めて知った。
渡辺雄幸さん =「街の人々は食料不足で困っているけれども、この事はかえってタラフク飯を食っている農村青年に比べると非常に幸福なことである。私は一農村青年として農村教科の責任を痛感します」と言われて「世のたのしみうせされ」を独唱。
昭和22年のクリスマス特集号に寄稿した雄幸少年の作品
クリスマスを称ふ 雄幸
○いくさやみ 三度迎へぬ クリスマス
○ベツレヘム そのかみの星 今もなほ みそらに高く きらめかん
○クリスマス 平和の鐘よ 高らかに 世界の果迄響かん○
○教会の十字架高く星空にめでたき調べ窓にあふれて