川俣教会の伝道による飯舘の集会

岩部集会(昭和三〇年~五二年)

 教会が周囲の村々にも福音を伝えたいと求めていた時、突然、天の使いかのようなひとりの人を神は送って下さった。それは、松本卓夫先生(現、静岡英和女学院院長)であった。「わたしの姪がこの山奥に開拓農業をしておるのだが」といってお寄りになり、そしてその相馬郡岩部まで行ってお逢いして来られたその帰りに、またお寄りになって「あの姪もクリスチャンですが、今は全く遠ざかっている。何とか伝道してほしい。」との言葉を残して帰られた。その後、その森静さんが教会を尋ね「是非、岩部の人々にも伝道してほしい。」と頼んで行った。こうして岩部伝道は始められた。第一回集会は昭和三十年八月第一月曜日、吉池先生と高橋千代長老は山道を歩いて行って森さん宅で集会が始まった。最初の出席者は十五名であった。四方山に囲まれた静かな部落。当時開拓者戸数は十数軒、人々はまだ、電灯の無い中で精一杯農業にいそしんでいた。
 三十四年五月には農業技術指導員の砂川清治先生、古山金作先生(中村教会牧師)による特別集会が開かれた。そして次第に人数も増し加えられた。初めは日本国際キリスト教奉仕団の物資を目当てに集まった人々も次第にイエスキリストと十字架を理解するに至り、罪深い自らを悔い改めて受洗するに至った。三本松慶三、佐藤広、朝倉富治、平田美子、三本松トシ子の五名が三十三年のクリスマスに洗礼を受けた。
 三十五年二月から集会は高橋方成さん宅に移り、その年のクリスマスには八十名の参加者があった。三十六年六月全国食肉組合副会長佐藤利吉氏(仙台愛泉教会長老)を招いて伝道説教と「主穀農業より畜産」についての講演があった。二十八名。これまで夜の集会は、ランプやローソクの光であったが、四十年に待望の電気が各家庭に入った。そしてテレビを始め電化生活はたちまちどの家庭にもゆき亘った。
 四十四年より集会は宅廻りとなり、日曜学校の集会をしている。奉仕者は中田妙子である。その宅名は高橋方成、高橋貞二、二本松邦三、山口仲一、高橋勝由、斎藤政一の六軒、山間部ゆえに距離的に不便であり、生徒は少数であるが、喜々として集まって来るので感謝しつつ奉仕に励んでいる。(中田妙子記)

 比曾集会(昭和三二年~五二年)

 相馬郡飯舘村比曾に伝道が始められたのは、昭和三十二年六月二十四日である。既に隣りの岩部部落ではキリスト教の集会が始まっており、「日本国際キリスト教奉仕団の物資」が沢山部落の人々に配分されていた。これを聞いて「わたしたらの部落でも集会をしてほしい」と頼んできた頃から集会が始まった。当時、教会では弱い貧しい人々のために、奉仕団に申請してこの恩恵に浴していた。そこで農村の貧しい方々が福音と共に贈られるこれらの物資の配分に与ることをも合わせ、喜んで集会に集まった。最初の集会は比曾小学校の近くの高橋スイさん宅であった。
 この集会のために古池先生と高橋千代長老が奉仕に当たった。高橋長老は四十四年まで精機会社の月曜日の電休日休日を捧げて、毎月一回の集会に奉仕した。川俣から問屋前までバス、それからの山路は吉池先生と高橋長老は何時も歩いて集会場に行った。そこで大人の集会を午後一時半からと、日曜学校を三時半までして、神の義とイエスキリストによる十字架の救いの真理等を語り続けていった。
 大人の集会に、吉池先生の説教を喰い入るように聞いていた人々が三十名から四十名であった。その中に高橋伊三郎という老兄がいて、三十四年一月より自宅を開放してそこで集会を一年半もつことが出来た。その頃は「日本墓督教団、宣教百年」の年であって、比曾でも特別伝道が行われた。五月、中村教会牧師、古山金作先生と砂川清治氏(白石市、農業技術員)によって、「デンマーク農業と三愛に生きる」という主題で講演がなされ、会衆三十名。九月三日、県会議員の遠藤修司氏によって「農村経済と農民生活」について講演会があった。会衆二十五名一その頃、高橋伊三郎は病のため急に永眠され、キリスト教で葬儀が行われた。親類や村人も大勢集まり、初めての十宇架の墓標に驚異の目を向けていた。
 集会場は菅野ツルノ宅に移り、そこで集会が続けられていった。その集会に近所の菅野ナツが出席し、今も八十一才であるが良く励んでいる。キリストに対する単純な信仰は元気でいられることも山菜採りの時にも、田畑の収穫にもすべて「イエスさまのおかげで」と深い感謝をしている。しかし、各自洗礼を受けるまでには十三年もかかった。
 長い信仰生活の中で罪と救いの恵みを確信した人々にとって、農繁期の午後の集会にも少数ではあるが喜んで出席している。受洗者は四十二年から五十二年までに、田村鶴吉、妻イシ、菅野ナツ、菅野セツ、西崎ケサノ、菅野乾、妻ユキ、西崎ナミ、菅野カツイ、高橋とき子である。会場は又、都合で菅野政男の家に移ったが、三十九年四月より田村鶴吉宅で行うようになった。広範囲の部落からではあるが、寒い時も暑い時も六、七名の集会を続けてきた。
 SSの奉仕者は四十五年より斎藤宇多子が奉仕するようになった。この頃より集会日を日曜日に改め、川俣の礼拝を守り、車で比曾と岩部に吉池先生、中田妙子(岩部SS奉仕)、斎藤宇多子の三人で行くようになった。
 田村イシは、病弱の人であったが、「イエスさまのおかげで、こんなに元気になりました。」と忙しい手を休めて集会の準備をして人々を待ち、みんなが楽しい交りの時をもつことが出来た。
 日曜学校は大人の集会と共に会揚は変ったが、忙しいながら出席して、さんびかを歌い、お祈りをすることは、山の中の子供達には大きな楽しみである。教会から贈り続けてきた学用品や、お菓子等も喜んで分け合った。礼拝が終り幼児の手をひきながら三三五五帰って行く後姿は、神様に愛されている満足感に満たされているよ。つである。思わず伝道の喜びを全身におぼえ、何時までも神様から離れないようにと祈らずにはおられない。
 田村鶴吉夫妻が離村してより、会場は菅野乾長老宅にかわリ、地域的に比曾部落と岩部部落の境位の所故、今まで来られなかった岩部の大人の方々も出席出来るようになって、皆喜んでいる。農村伝道の課題は大きい。しかし、主のみ手によりすがり、各村々で福音が受け入れられるよう祈ってやまない。(斎藤宇多子記)
(川俣教会70年史)

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