菅野運転手がぼくに語ったせつせつたる告白 一回裏の逆転

吉田さん。
奥さんが、生きておられるだけでうらやましいですよ。
美人じゃないですか。

はあ。昔はわかいかったですよ。誰でもそうです。
それでおもわず躓いてしまったんですが。

吉田さん。俺は、これから7時過ぎに家に帰って自分で一人っきりの」晩飯を作って食べます。
さびしいもんですよ。

俺、強制沈黙。
もうこれいじょう何もぐーの一言も出ない。

吉田さん。こないだ、ピアノ弾いておられましたよね。
いいじゃないですか。
あれ、奥さんでしょ?
何という曲でしたっけ?

はあ。リストの「慰め」3番。コンソレーションの3番です。
それから「鐘」カムパネラの出だしかな。
それからバッハのコンベンション。
ベートーベンの月光。
モーツアルトのトルコ行進曲かな。
こないだ弾いてたのは、そんな感じです。

いいじゃないですか。僕は誰の何という曲かも知りません。
吉田さんは、そういうところで原稿書いてるんですか。

はあ。
最初はぼくが20畳の広さの倉庫みたいなとこを書斎に使ってたんですけど、奥さんがグランドピアノと子供頃から使ってたアップライトと、うちの」両親が新築の祝いにくれたチェンバロを持ち込んで引き始めた。
でも、防音設備をしてないから、夏でも戸を閉め切って暑いし、冬は外と同じに寒いから、防寒コート着て弾いてますがね。ストーブひとつじゃたまらんです。
ぼくは冬は冬眠して、仏間で寝てます。

吉田さん。ひとりはさびしいですよ。
それが、晩飯まで作ってくれて待っている。
うらやましいですよ。

はあ。
感謝はしてるんです。毎日、朝から晩まで「あんたの段ボールのごみはいつ棄てるのか」って、責められる。
「ぼくは物書きだから、ぼうだいな資料が必要なんです。それでまだ足りなくて、県立図書館で必要な本からコピーの束を持って帰る」
 この晩は、もう俺の負けだ。

何を言っても、僕の吐く愚痴はのろけにしか聞こえないだろう。
万葉集のむかしから挽き唄には、誰にもかなわない。
現代になっては宮沢賢治の「永訣の朝」を超える絶唱は、なかんづく学校の授業では出会えない。