昭和32年の2月6日は、原町地方は寒かった。雪が10㎝ほど積もっていて、ぼくの祖母の葬儀の列は、凍てつくような厳寒の中で、年長の物知りの親戚が指示して、龍はここ、生花はこっちなどと、曹洞宗の儀式の葬列順序を克明に覚えていたか、しっかりとメモを盗み見したのかもしれない。
祖母は本当に穏やかな顔で、幼児のぼくには、これが死人のものとも思えず、ただ静かに眠っているとしか見えなかった。
この祖母については、かなり哀惜が深かった。
ぼくの母親の母方の祖母で、父方の祖母はかなりのちまで生きていた。いま思えば、60代で死んだこの日の祖母は、かなり若かったと思う。それはぼくの心象の中の、あってほしい美しい印象であったのかじっさいに美しかったのか、わからない。公平には、読者に伝えられないと思う。
たとえば聖書という本があるが、アメリカのウオルター・ワンゲリンという作家兼聖書研究家が書いた「小説聖書」と題する新約聖書を、6年前の豪雪の日に、ぼくは読んだ。涙を流しながら、まるで、映画を観てるように、あざやかな存在感はひしひしと感じられた。
 一般的に、イエス・キリストの顔がどのような顔であったかを知る者の証言はない。それでも、無数のイエスのお姿が肖像画として、描かれ、ミケランジェロやダビンチの描いたイエスは、彼等イタリア人画家が生きた当時の服装を着て出演しているし、かれらが食ベていた食卓で、彼らが食っていた食事をイエスも弟子たちも食っているのである。
みなさん、おかしいとは思わないですか。
これら嘘つき天才がなしたかたちの仕業を、おかしいとは思わないのか、と。

だいたいにおいて、イエス・キリストとは何者だ。
彼の名前の一般的な発音は、昔からイエショアーと呼ぶ。母のマリアも、父のヨセフも、そう」読んだに違いない。いや、家庭的で、愛にあふれた家族だったから愛称で別な名を詠んだか、家族だけで綽名の「かわいい子よ」と呼んだかもしれない。だれもイエス・キリストの家に突撃インタビューしたことのない、週刊誌に絶対載らない家庭だったから。
イエスが、公生活をはじめてからは、膨大な記録が残されて、キリスト・フリークにとっては、うれしいかぎりである。

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