栗原利行さまへの返信

おたよりありがとうございました。
前回のメッセージに「行政等訪問し、留学生のポスター配布、名刺交換。あなたは何者。不審者扱い、」とありました。
ふっこうステーションのイベントをやってみて、行政マンが、なぜこうも馬鹿になってしまうのか。わかりました。
彼等には信念(絶対の神)がないので、夢がなく、夢がないから、成功の感動も失敗の峻烈な驚きと身を焦がすような反省なく、すべてに喜びがない。喜びが無いから、」代用品の嫉妬という「あいつだけには負けたくない」という執、いかに着力のエネルギーだけが、彼を動かす。その結果は目の前のことにだけ心を振り回され、心は落ち着かず、ふらふらと一生を過ごすのです。
これは支援者も同じことで、支援に来ているのか、自分さがしに来たのか、よくわからない。
被災地は目立つから心を惹かれるのは、しこに新聞記者やテレビ局のカメラんがいるkらで、それがいなければ行かない来ない。
野馬追もそうだ。津波で家族がみんな死んで、かつてなら家族に妻や娘に嬉しいお産があっても血の穢れゆえに一年間の物忌みがあった。祖父母や老親や子孫が子が不慮の老後の死を迎えたときには、つつしんで武士は追悼の誠をささげて、祭りに出ることなど決してなかった。野馬追さ入れに出ることは遠慮sたものであった。
ところがどうだ。鹿島の海岸に18mの津波がおそってきて、家族がみな流されてしまった。こんなときには、これを追悼して身をつつしんで、野馬追には出場しなかった。これはつつしみある武士の礼式である。
とこりがどうだ。現代のニセも愛児アのじゅきゅののふは、新聞記者やテレビ局のカメラの前に、蟹のごとく映りたくてしゃしゃり出るわ、みっともなく踊るわ、アジアの儒教精神もどこ吹く風。
北朝鮮の金正恩だって父金正日がなくなって、四年の喪に服した。
この礼式こそ、つつしみある武士の礼式なのである。
はしゃいで、追悼のために野馬追祭礼に参加するなどあってはならぬ。
物忌みしても喪に服すべきだ。