木村吉清という男、サラリーマン武将にして「フクシマ」の命名者のクリスチャン
蒲生氏郷というクリスチャン大名が秀吉の天下統一一歩手前に命によって会津に入った。その配下の部長か課長クラスのサラリーマン武将が木村で、クリスチャンというのも、当時の流行りであった。お茶とキリスト教が、当時のファッションの最先端だった。日本の重心は今の堺あたりだった。お茶の芸道の本場のカリスマで」秀吉の寵愛を見に帯びた人気者の第一人者千利休はいるし、鉄砲生産の槌音が絶えないし。日本人にとってはたまらない時代の震源地だ。
みちのく田舎の果て大森城下を支配していた木村を何処へ派遣しようか。、販路開拓と支店開設青写真に氏郷が目をつけたのが、それ以前の旧の「大佛城」に赴任させた。
木村にとっては、あてがわれた大森営業所から蒲生氏郷印の新支店の開拓と支店長の肩書が手に入るビジネスチャンスで、それなりに張り切っていた。
クリスチャン大名と、その子分の
木村と蒲生のコンビ時代に「ふくしま」という地名が決まったのだから、これはこのクリスチャン大小の大名が命名権があるに決まってる。
ならば意味は「福の島」しかなかろう。祝福の福、福音の福である。福音の、祝福の「ふく」の、みちのくの」片田舎の「しま」遠方の孤島のような土地。という意味の地名である。ほとんど一般名称の、ただの「普通の」「キリスト教によって」「祝福された」「地方の地名」というだけの「地名」なのである。
風の吹く島、とか色々の説があったが、そんなに面倒な由来ほどの由来でもないのだ。
のちに、福島藩主の板倉氏が、この地方を支配するものの、名家の普請大名が、幕閣を務めたために、領地は前田や伊達のような大大名のような百万石ではなく、トクガワ本家に弓引いてもたいして軍備的には痛くもかゆくもないようにしておくのは、家康の戦略どおりの装置であった。
薩長は」西の端っこに追いやり、江戸まで遠くして、伊達も東北の端っこに置いて、江戸まで距離を保っている。会津も遠方。危険な奴らは離しておくにかぎる。、

https://ja.wikipedia.org/wiki/大森城#歴史・沿革

Total Page Visits: 2 - Today Page Visits: 0