あさの祈り

天地を創り、天地を統べ給う天の父よ
ねがわくば、聖名があがめられますように。
御国が来ますように、天になるように、われらの地にても。
日ごとの肉と霊の糧を、日々与えてくださいまして感謝いたします。
われらをこころみの苦しみに遭わせないでください。
外からの悪意にも、我が内なる悪が絶えずこみあがることをも抑えてください。
主の御教えを、かみしめてよく考え、真実に至りますように。
愛するかたがたが、その与えられた園で、あなたが豊かに慈雨をそそぎ
この極寒の季節にも、地下にも、ふくらむ種子をあたたかく包み、
春の芽吹きの時に備えて、準備なさって下さることに感謝します。
そして永い人生に満足しつつ、あなたにみちびかれて生命のともしびを最後の1ミリまでも、あなたを賛美するように、美しく燃え尽きようとしているわが母の91歳を、祝福されて、やがてあなたの御国に迎えてくださいますように。
二上よしい 昭和3年3月1日生まれの、わが母を。

90過ぎた巳年の母から、なにか宅配で届いた。さっそく実家に電話して尋ねたら、母の介護してる姉が出た。
「あれは何を入れてよこしたの?」
「書いたとおりの衣類だよ」
「衣類って言ったってわかんねべした。セーターなのか、今頃なんで」
「あれはおまえが来て寝るパジャマと肌着だよ」
「そんなもの捨てるほどあって、奥さんも俺も捨てられない症候群で困ってるぐらいだよ」
「だからおまえに誕生祝いすんだったよ」
「今頃なんで、急にほんなごどすんだべ。なんか謎かけかな」
「いいや、本当にそのまんまの誕生日祝いだよ」
「それにしても普段やんねごど、なんで急にすんだべ」
「いやね、だからわたしも聞いたのよ。これがらは、実際にここにいる母さんが、わたしに言ったこと、あんたに伝えます。
『わたしはこれまで91年生きて来て、十分に生きた。そろそろ、頭のぼけてきた。自分の考えで何かできるのは今のうちだ。それで考えたんだが、これまで息子の英朗から誕生日に必ずと言って誕生日のお花を届けてもらってきたけど、息子には一度も誕生日のお祝いなんて、したことない。らいねんまでわたしが生きてる保障は何もない。だから今のうちに誕生日祝いを送った」
俺「沈黙」・・・・。

「これ、お姉ちゃんの演出か?」
「ほんなごどねえてば。ここにいる母がそういったとおりに自分で考えて、お金渡されて、どこでもいいから衣料店に行って、パジャマと肌着をきれいな包装紙に包んで買ってきてくれって言われたから、そのとおりしたんだ。私は言われてその通りにしただけだわ」
俺「沈黙」
いよいよ、来るべき時が来たな、と思った。今年の正月には、いつものように母は、訪問した私の子ども3人、孫2人、娘たいの婿さん2人、ぼくの最愛の奥さん(1人)に、お年玉を最後に手渡して、「また連休にね」と、しばらく先の五月まで会える次の機会を楽しみに分かれる。
母はいま、自分の畑で春耕し、種まきの準備を楽しんでいる。歩いていけない自分の畑まで、電気四輪車でトコトコと九時頃行き、とことこと昼に帰ってくる。水道をひいてるわけでないから、ペットボトルに水を入れて少しは自分で運ぶが、あとはふぐたますおさん状態で同居している姉の夫とその息子に頼んでペットボトルで水を運んでもらっている。
そんな母と、直接言葉を交わす機会は少ない。

ふっこうステーションというのは、この母の寿命と、自分の寿命を勘案して、被災地の故郷で何が出来るかという限られた時間と労力で感が出したイベントである。
いま多くのボランテイアが、南相馬市の助力になりたいと、次々に移住してきている。
しかし、復興のためなんだか、自分探しなんだか、ぼくにはよくわからない。才能のある人々は、南相馬市で気の利いたボラセンを作ったり、カフェを立ち上げて商売も軌道に乗せたりしているが、原発事故で新聞やテレビに出て面白そうだからという理由だけで、移住してしまった人の、自分の人生の分岐点をみきわめて、予定どおり去っていった人もこれから去ってゆく人もいる。みんな自由だしそれぞれの選択である。いつまでいてくれる賑わいなのかなあ、とぼくはぼんやり考えているだけで、いいの、わるいの、なんて批評はしない。それは各人の自由だし選択である。気に入ればここに住めばいいんだし、だいいち僕自身が福島市在住のよそものなのに、なぜか母と姉が住んでいるというだけで、ぼくの家に泊まれるからと言って役場からは一銭も出ない。よそのホテルに泊まるより便利だからそうしてるだけで、実は困っている。バス代もそうだった。
最初、ふっこうステーションは、イベントをやるごとに、自分がバス代を払って、小高町まで出向き、従兄弟や友人に助けてもらってきたのも、私的な交友の範囲だけで、とおく仙台市に住む無二の親友の高篠君には、ふっこうステーションのイベントすべてに参加してもらって、写真撮影の活動をサポートしてもらってきた。第一、僕が原町無線塔物語という面白い原町の郷土史を書き上げるっことができたのは、彼に教えてもらったからこそ、それを延長してしつこく何冊も本にしてきたからこそである。
それなののに、高篠に満足なお礼をしたことなどなかった。
母の今回のものいいとまったく同じだ。
明日死ぬかもしれない身の上が、あと何年生きて、何が出来るか、なんて傲慢なことをあたりまえに考えている自分は、いったい何者なのか。
聖書はいう。
神が許すなら、明日これをしよう、何をしようと、言うべきだ、と。そして母は、いまそれに気が付いて、行動した。
今、息子に毎年の自分の誕生日に花を送ってくれた息子に、いまのうちに何かプレゼントしよう。何を、よりも、今自分が実際にやることが大切なんだと、思いついた。
これは、死を前にして初めて神の知恵に到る、ということだ。

畠中ちあき 様
敬愛する畠中ちあき南相馬ベース長
2月2日、久しぶりの日曜日に、駅前の姉と母に一瞥のあいさつで、一か月間の電話の声だけの連絡では伝えきれない思いと、かれらの肉の弟であり、肉の息子である私のいまの病状も顔色も、実際に会えば正確に見てもらえるし、母の年齢は佐々木美代子シスターと同じ年齢なので、神戸のシスターへの月一度ほどの手紙と同じで、あいする人の消息を知りたい、会いたいというあふれるような思いは、すでにパウロの時代に、信仰によって結ばれた信徒に、具体的に会いたい、行きたいという熱望と何らかわりません。
わたしにとっては、日本の貧しさゆえに南米へと移民していったおおくの近所の人々の御子孫も、同じです。そして、原町という小さな町の中で出会った最も大切な教会の友に会う事は、肉親と逢うのと同じ切望と、念願に支えられています。
私達が死んだあとのことは、科学者や物知りの人らが、いろいろと定義したり、説明してくれますが、カトリックの二千年にわたる教会の博士たちが編纂したカテキスト以上のことはわかりません。
しかも、それを信ずるか信じないかという入り口の差異だけで、どうやら私どもの行方は決まるようですし、それならば死後のことは、聖霊におまかせするほかにありませんので、川俣町の唯一のキリスト教会で、結婚直後に妻の係累の死者たちをしのぶ記念式に出席した時に聞いた、女性牧師の説教が、ヨハネの黙示録からの引用聖句であったため、このとき以来、「ああそうか。僕も死んだらこうなるんなら、それを信じて一生を暮らすほかないな」と覚悟いたしました。
わたしはもともと高校の現代国語の教師でしたので、本を読むのは好きでした。しかし聖書と出会ったのは、父親が59歳で急性の膵臓末期がんで亡くなった1984年の7月から8月の、家庭的には大変な時期のことでした。
医者が宣告したとおり、「あんたの親父さんは40日で死ぬよ」と言ったとおりの日数で絶命いたしました。
ところが、家族の愁嘆場で姉の三浦ユミ子も、わたしも、実際の肉親の死に直面すると、世界は一瞬で価値観も思い出も、ひっくりかえってしまいました。
父の死によって、私はある晩、奇妙な霊体験をいたしました。
父の手術の日の朝方3時の頃でした。真っ暗な未明の闇の向こうから人のような気配を感じましたが、それまで経験したことのない状況と感覚に恐れと恐怖も感じました。ところが、その霊らしき巨大な存在感は、私の目の前の宙に浮いたまま、にこにこして語りかけたのです。
驚きました。本当に驚きました。
その霊のような存在は、形も色も大きさもなく、ただやさしく私の魂に直接語りかけるのです。
「あなたはいったい、どなたですか」と、私は思わず空無に対して質問しました。すると、彼は、いいえ彼女なのかもしれませんが性別もないのがわかります。
「私は、こういうものです」と名乗りはせず、その存在だけで、神聖な世界からきたものであるということが直感されました。
霊はこう語りました。なんと。
「祈りなさい」と。驚きました。こんな経験も、聞いた言葉もありません。
これが宗教者が体験する霊的体験なのだろうか。
しかし、命じられたのですから、やってみました。
第一、私は、祈ったことなどないのです。神の存在についてさえ、真剣に考えたこともなく、本で調べたこともなく、興味もなかったのですから。
それが、いきなり、これでした。「いのりなさい」と。
何を祈ればいいのか、それは単純明快でたった一つでした。ここ数週間、父親はなにが原因かわからぬ奇病で、小野田病院に黄疸まで出て入院しました。
担当医師は「レントゲンを撮影しても胃のあたりにもやもやと影が映りこんで見えるが、わからない。胃の陰のインスリンを出す機関の部位だろう。切ってみればはっきりしたことがわかる」と、手術の日を1984年7月16日に決めたぼでした。
その日は、まさに午後の手術で父の病状の真実がわかる。糖尿病で、分泌系の小さな器官らしいことは想像できても、手術でどう展開するのか素人には見通せない。
その朝、父が作った隠居家をタダで借りて住まわせてもらっていた息子の私は、何の心配もせず、自分の仕事の大変さに追われて寝る暇もなく、毎晩12時をすぎる頃に家に帰って、やっと眠りについた午前三時頃のできごとでした。
その結論から申し上げます。この日から40日後に、父は絶命いたしました。医師の言う通りです。
二上家の宗派は浄土真宗ですので、母も姉も女故に仏事をみずから取り仕切ることが憚られて、けっきょくごく普通の、葬儀屋が仕切って、坊さんがやってきて、なんとなくそれっぽい日本人の葬式が出されました。
わたしは、いみもなく経典の読経にありがたく聞き入って葬儀に参列している親戚、近所の人々の、なじみの顔をながめながら、一時も早く、この場を離れて「聖書には、人の死についてどのように書いてあるのか」と、渇望と知的欲求とが、どっとあふぇれていました。
知りたい。人に死とは何なのだろうか。これまで、というより、7月16日の奇妙な霊体験が、はたして仏教でいう阿弥陀仏なのか観音さまなのか、

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