高校の頃に、原町混成合唱団というグループがあって、高野楽器の二階で練習してた。練習もいいが、桜の季節だからピクニックに行こうということになり、富岡町の夜の森の桜並木が見事だそうだから行ってみようということになった。脳裏に、常磐線の列車の記憶の断片があるから、わいわい列車で行ったのだろう。
定期演奏会というのを何回かやり、歌った曲もいくつか覚えている。
松野さんという看護婦さんが一緒で、ちゃんと看護セットを持ってきた。遠出をするから、何が起こるか分からない。一般の人は昼の弁当以外に何も準備しない。さすがプロはすごいなあと思った。爛漫の桜は、まことに満開でみごとだった。
その数年後に、大学を卒業して「相双新報」という地域誌の編集長という職に就き、近所の病院につとめていた看護婦さんと交際し、何度目かのデートに富岡の小良ヶ浜という日本一小さい港というふれこみの漁船が二艘でふさがるような小さな入り江に出かけた。
狭い導入路が坂になっていて、運転免許を取ったばかりの彼女は、ターンもできない坂をバックで坂道発進するのは、ちょっと困難であったが、ちょうど僕の誕生日で、そこで誕生祝のネクタイをもらった。
その四月には、東が丘公園の夜桜を見に行った。昭和50年ころまでは東が丘公園でも地元の市民は夜桜を楽しみ、夜店も出た。ヤクザさんがはびこって廃れた。夜の森公園での花見は、そのあと盛んになったのだ。

富岡の深谷という海岸沿いの農家に富沢さんと言うところが、昭和初期に国からの払い下げで、逓信省の磐城無線電信局の受信所の跡地である。昔のままに桜の並木があった。
夜の森の駅前に但野芳蔵の顕彰記念碑が建立されたのが昭和51年のことだから、駅前の一等地に住んでいた駅の誘致功労者の長女から依頼されて、但野の伝記をまとめ、自分の新聞にも記事にした。
但野の子孫らしい親戚とは、サンパウロで逢ったことがある。
とりとめもなく、いろんなことが連想される。
万朶の桜は変わらない。