2017312

3月12日 22:02 ·
巨大メンチカツで有名な磐城太田の今野畜産が経営する「千寿」にて会食。和牛ステーキどんぶり、至福の3月11日の夜。光のモニュメントもすばらしかった。友有り遠方より来たり。またたのしからずや。

3月12日 21:40 ·
3月11日、満6年の慰霊の日。
高見公園で光のモニュメント見学。
小高方面見学。
浦島寿司で昼食。
千寿にて夕食会食。
3月12日、一日ツアー。
①明治大正の政友会総務代議士松本孫右衛門の実家「松本醸造」の311廃業店舗を見学。
②夜の森公園の神風特攻隊敷島隊二番機中野磐雄の顕彰銅像を見学。
③原町陸軍飛行場の遺物、格納庫跡地を訪問。
④グラマン艦載機の20m機関砲の直撃壇を受けた雲雀が原神社石柱を見学。
⑤陣が先公園墓地内原町陸軍飛行場関係者戦没者慰霊顕彰碑を訪問。特攻兵碑銘板。空襲被害者銘鈑。
⑥羽田利夫さん彗星発見記念碑と、愛犬頃コロの墓石碑、ハネダ・カンポス彗星発見の現場。ハネダ氏を世話した甥の嫁は津島生まれ。彼女の人生談義をインタビュー。
⑦鹿島の鹿島の一本松。間もなく枯れ死目前。
⑧くまもん訪問の山田神社の復活現場から八沢浦干拓地を眺望撮影。
⑨蒲庭温泉の徳富蘇峰の宿泊旅館と津波被害絶滅地磯辺地区。
⑩松川浦復興現場。
⑪丹下左膳記念碑。
⑫松川浦大橋
⑬昼食。ほっき飯。
⑭相馬駅より仙台へ常磐線復旧区間を乗車。
⑮仙台駅内プロムナードにて、名物牛タン定食で夕餉。解散。ご苦労様でした。

11日の夜、柳美里さんとの会食は美里さん一家と、初めて15歳の息子さんとの対面になったが、南相馬に越してきて短時間でも鉄道事情について詳しく知悉し、「川俣線の延長線が昭和8年に予定されていた調査跡というのを見つけました」という。然り。昭和40年代まで稼働していた川俣線というのは、モータリゼーションの影響で廃線となってしまったが、明治29年ころから常磐線の開通と同時に開発が検討されていた。家庭的な会食であった6人のなかの対角線に、マニアっぽい鉄道談義が入り混じった。地元の郷土史ばかり熱中し、しかも鉄道史と地域開発という100年のスタンで311災害を含めた文明史的な、いかにも男の子のヲタク会話に、岡さんが新潮社の編集者になったころからの担当の柳美里さんとのつきあいを懐かしむ女の子の作家ビジネスだのオシャレ談義も交差する対角線上でかわされる。そこへ今野畜産の人気メニュー「黒毛和牛ステーキ丼」と特大野菜サラダ盛り合わせが参入だ。面白くないわけがない。

ふりだしはおかえり

311の追悼イベントは全国でやっている。南相馬市ではごご二時からゆめハットで市主催の追悼式典が予定されている。道の駅の光のモニュメント・イベント会場に行ってみると、騎馬武者姿の人物をちらほら見かけた。すぐさま記者根性の岡さんが、とっとことっとこ近づいて行って駐車場の侍に声を掛けた。原町警察署では、双葉管内で殉職した二人の警察官の顕彰碑があらたに作られたという。彼等は式典で法螺貝を吹奏すべく集まった人員であった。しかもかつての相馬農業高校で同僚だった原教諭だ。こういう野馬追ゆかりの扮装で、しかも螺貝役(かいやく)というのも、いかにも相馬原町らしい。数日前に、消防と警察の殉職者について記述したばかりで、名前も書いた。
警察署に建立されたのは顕彰碑である。慰霊碑ではない。人民を護る、という警察らしいプライドだ。
こと土地では、結婚式でも、追悼式でも、地鎮式でも、何でも陣貝というのを吹奏する。こないだは、新地駅の開通に仙台までの特別仕立てのフル―テイ―ふくしま号というのに乗ったが、陣羽織姿の駅員が全員で見送ってくれた。
まず人生で最も大事な第一は腹ごしらえである。小高の浦島寿司へ行こうとなり、出かける。最初に行ったのは小高駅。はいはい入って。改札まで進んで、ここで振り返って。岡映里がまたフクシマに来るなら、ここに連れてくる、と決めていた。
は、ここで、振り返って。
ほら、あった。
きみが出会ったやさしいフクシマは、もっとも困難なフクシマだった。
いまも複雑な事情だけど、けっこう面白く他の詩句元気に生きてますよ、という姿を見て欲しい。
いっしょに喜んでくれるよ。
ここでなら息がつける。
息の詰まる東京や、金のことや仕事や、おとこや、めんどくさい事情から何もかも解放されてね。
お。か、え、り。

南相馬市原町区の青葉町と二見町との境界を駅方面から雲雀が原と折笠堤への登ってゆく坂道。青葉幼稚園がある。昭和28年に創立された。
311の光のモニュメントで壮大なサーチライトでイルミネーション・タワーが幻のように出現したが、ちょうどいい遠景をロングで撮影するために、ちょうどいい場所はないかというので、子供時代から慣れ親しんだこの坂の中腹から木ノ内さんが撮影しおえるまで寒い夜だったが、車の中で岡さんと待たせてもらった。
ここはぼくのホームだ。昭和28年にできた青葉幼稚園は、ぼくが昭和33年前後に通った場所で、その年の台風22号の大雨で原町が冠水した洪水の記憶が生々しい。北原掘というクリークが水を飲み切れずに道路にまで吐き出す吐瀉ぶりを記憶する。
停車していた目の前に、17日間透析できずに死んだ恩師の但野宗彦先生の家がある。左手の道路脇に共産党を支持していた宮崎校長の家がある。いまいる高見の丘の上には、フィリピン妻のテレシータさんがいて、すぐ下の交差点の益山肉屋のみどりさんは熱心なエホバの信者で、うちの煙草屋の姉に勧誘に来る。ナーサリー幼稚園という託児所を原町ベースというカトリックの世界的なボランテイア組織カリタス・ジャパンが昨年まで稼働していた。日本全国から簡易宿泊で500円ぐらいで食事までできるので、長期のまたリピーターの奉仕者が、カトリック信仰はもちろん、そうでなくとも趣旨に賛同する献身が実行されている。そんな界隈に、親友の高野光雄の生家があった。
世界中のどこよりもよく知っているこの場所に、映画プロデユーサーの木ノ内さんと、作家の岡さんを案内できた。それだけでも、この小さな町にとっては、おおきな成果になるだろう。今夜のイベントは、おおくの人から発信される。
なにより、この光のタワーが白い満月が登った寒空に眺めながら、無数の物語がぼくの脳髄を行き来する。

原町陸軍飛行場正門。ここで育った若鳥のうち、334柱の神鷲と呼ばれた男たちが戦死していった。学鷲と呼ばれた学徒から戦闘パイロットになったものたちもいたが、離陸できるぐらいだけで特攻要員につけられたものが多い。最後の日々のその日まで、門限すれすれまで町で遊んだ。へいわであろうといくさであろうと、最後の一刻まで、彼等の精神は自由であったはず。つはものどものがゆめのあと。2017年3月12日。

二上 英朗 私は苦労した、のセリフを3分おきに語ったおばさん。たしかにお聞きいたしました。ほんじつは日曜礼拝をさぼって、イエスさまの身代わりになって、あなたのぼやっきーをうけとめました。終戦帆費の原町飛行場のようすと、なきわめいていた整備兵たちの様子は書きとどめますよ。
いいね! · 返信 · 1 · 3月12日 21:49

中島 麻実 二上さんが話を切り上げるタイミングが突然すぎてウルトラマンが宇宙に帰るみたいにおばあさんから立ち去ったのでわりと唖然としつつも笑ってしまった。私はお礼を言って握手して辞去しました。
でも話長い人と聞いたことに答えてくれないひとにはこちらも対処をする必要があるよなーと

二上 英朗 先が長いので、かなりはしょりましたが、時間配分は、神の自由です。いずみちゃんっていったけ? 生きてたら、また会う日まで。

ハネダヨシさん、お久ぶり。津島生まれ。嫁いだ先は馬場のハネダ二三男さん宅。有名な彗星発見者のハネダ利夫さんの世話をした。子供のころは、女の子だけで、おはじきやお手玉などをして遊んでいた。おさないでした国鉄バスの「津島駅舎で映画を見せられたり。お弟と、出征してゆく兵士を激励する村の年長者と若い兵士のあいさつのようすを家で同じまねしていた。戦争中は、こんなことすら軍国調だった。長じて小高の農業学校に進む。小高神社下の菓子家に住んだり、小高福浦の親戚宅に預けられたり、そこで廊下の雑巾がけでは、子供ながらに半分だけにわけていたら、叔母から叱責されてぜんぶやらせられたり。
彗星発見し羽根田利夫さんは、嫁ぎ先の二三男さんの叔父にあたり、若い頃に東京に出て電気関係の仕事してましたが、心づかいの優しい人で、いつも何かしらを送ってくれました。わたしの子供のための衣類とか、食べ物とか。ほんとうにやさしい、神さまみたいな人でしたね。尊敬の念を、死後30年たってもきのうのように持ち続けながら語る。
兄は50歳のときに石材を扱う自営業を始めた。津島の平和公園を作った。
夫が、自宅庭に「ハネダカンポス彗星発見記念碑」を建立したとき、津島の石で作った。利夫さんの顕彰のために記念碑建立の話題を出したときに、利夫さん自身はもちろん喜んだが「できることなら、愛犬コロの墓も一緒に作ってもらえないだろうか」と言った。生涯ずっとそうだったが、なんとやさしい人なんだろう、と。

久しぶりにハネダさんちに行った。忠犬コロのお墓にも。甥ごさんの二三男さんが、津島の石屋に頼んで伯父の偉大な業績を顕彰して自宅庭に飾ってある。叔父の利夫さんにその件を申し打たら、利夫さんは喜び「できることなら小さくていいからコロの墓も作ってくれるなら有り難いんだが」と言ったので、ヨシ夫人は「なんてこころのやさしい人だろう」と思った。「神様のような人」「東京の電気会社に勤めて居る間じゅう毎月いつも何か買っておくってくださる」という話につづいて、この逸話が出た。ねんじゅう訪問して、昼飯をごちそうになりながら、ときには夕食まで馳走になり、帰りがけにはおいしい漬物や、新鮮な野菜をどっさり車のトランクに積んで帰る恩知らずの僕は、いつも同じエピソードを聞かされているのに、ちゃんと書いたことがなかったっけな。「東京から来られた出版社の記者さん」と、よそよそしい肩書を説明してから、「そうか。そうだよな。この話を書かなくちゃあな」と思った。あんまり羽根田さんの話は書きすぎたから、すべては終わった過去になっていた。でも、きょう初めて聞く人にとっては、やっぱり新鮮で大きな感動があるはずなんだ。もう一度、書いておく。

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