憲兵分隊秘史 英軍パイロットを原町に拘引

昭和二十年八月十三日午後三時半頃、平警察署に敵飛行士二名が警防団に捕らえられて来ていますから、身柄を引き取りに来て下さいとの電話連絡がありました。分遣隊長の命令により八木原平一伍長、伊藤増夫上等兵と私の三名が平駅午後四時半頃の列車に飛び乗り富岡警察署に向かった。
西側の窓より眺めれば美しい阿武隈の山並み、四ツ倉駅を過ぎれば太平洋の海岸が雄大に広がり、なんら戦争の感も無いようで、一時間あまり旅行をしている気持ちがした。列車内では誰一人われわれに遠慮してかそばに近寄らず、ちょっと離れて座るばかりであった。軍服より私服勤務の私には一般の人たちの話の収穫はなかったので残念な気がした。
八木原さんは年配だから何か面白い話でもするかと思えば、無愛想なあの顔で睨んでいるようでおかしくなって、伊藤君と顔を合わせていたら、八木原さんも、にやりとしたようでした。あの長い金山トンネルを通過し、富岡駅に到着したのでした。
下車したら駅員や待合室の人たちはただ無言のまま我々の姿を見て驚いているようでした。警察署に行く途中、夏の夕日を浴びながら青田の中で草取りの女の人たちが三人、四人と働いている姿が見受けられました。
富岡駅より七百米くらい西に行き富岡警察署(現東邦銀行)に着いたのです。警察署は道路の南側にあり、一段高くなっておりました。
玄関を入ると右側に二名の外人搭乗員が、布の襦袢に布ズボン、布のズック靴(色は薄黄色)を着用しておりました。
山野を逃避したせいか、見るに見られぬ貧弱な様子でありました。ただ大切にしていた所持品は、女子用(肌色)の片方のストッキング一枚が我々の目につきました。
警防団員は発見から逮捕までいかに処置したかはわかりませんが、ただ荒縄で米を俵で出荷する時のようにぐるぐる巻きにして、手は後ろに縛り、警察署に引渡して帰っていったそうです。
警察署では手出しの出来ない人間と決め込んでか、そのままの姿で置いたのです。
警察署でも困っていたそうで、我々憲兵の姿を見たので一安心のようであり、一般の人々も「ああ良かった」と自分たちの諸行動を眺めているようでした。搭乗員の貴重品は全く無く、ただ一枚のストッキングを気にしていた。搭乗員の階級は少尉と伍長の二名と判明いたしました。言葉が通じないのには全く困っていた。
そのうち間もなく原町より岡分隊長がおいでになって「おお、早かったなあ、ご苦労」と元気な笑顔が見えました。私たちも一安心した次第です。富岡警察署の身柄受領書は三浦さんが書き、岡分隊長指揮下に引き取られていたようです。
あの分隊長殿の勇ましき姿、ちょび髭の下条さん、痩せ細った三浦さん等の顔がいまだに目に写って夢見る時が多々ある次第です。
阿部班長の回想。
十三日、富岡警察署から英国空軍パイロット外一命を捕獲している旨の連絡があり、富岡警察署から護送するため、ただちに原町飛行場からトラックを借りて、岡分隊長、下条軍曹、三浦伍長、憲兵兵長と補助憲兵らが急行して身柄を受け取り、原町憲兵分隊の留置場に宿泊させ、訊問した。
「戦時中原女校長として」という文章を引用すれば(「学徒動員から四十年」斎藤清三)
或る夜のこと、憲兵隊から呼び出されて、敵兵を捕らえたから取締りのため通訳せよ、との事であった。爆撃後にエンジン故障で不時着した飛行隊員で日本の竹槍部隊に捕まったとのことで、驚いたことに、二名の将校は米国人ではなく英国人であった。
十四日、仙台の憲兵隊本部・軍法会議に捕虜二名をトラックに乗せて護送した。
阿部喆哉の回想。
その日の朝早く分隊の前にトラックが来て荷台に藁束が敷き詰められて、彼らはその上に寝かされた」
空襲により、東北軍管区司令部をはじめ師団司令部、軍法会議、拘置所は焼かれていたため、輜重兵第二連隊に軍法会議が移動開催されていた。身柄は仙台憲兵隊に留置収容した。

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