青田信一という原町駅前で個人商店を経営していた婦人洋装店主は、少年の時に、昭和15年に開場した原町陸軍飛行場が前年から募集中の「軍属」の第一回に応募した。だから昭和14年あたりにことである。元亨に北関東から奥州相馬に移封してきた殿様に従ってやってきた家来の家系で、最古の旗帖にも先祖の差し旗も載っている。ちょっとしたコネクションがあって、熊谷飛行学校の先輩職員から就職採用試験の漢文の出題に何が出るのかを、それとなく漢詩の一節を口ずさんでくれた。ピンときた信一少年は家に帰って、くだんの漢詩を丸暗記して試験に臨み、易々と合格したのだという。本人自身が語ったのだ。このサンコー洋装店の、いつもの定位置で。
青田氏は、小さな短波ラジオで放送している気象庁の太平洋全体の気圧配置を、ひたすら数字で読み上げるだけの番組をいつも聞いていた。そのメモが終了すると、大学ノートの見開きに、緯度と経度を基準にして、すべてのポイントに気圧の分布図を展開して記入してゆき、壮大な太平洋の気圧分布図が出来上がるのだ。
気象の聞き取りから、気圧図制作の基本らしく、戦争にやっていたのは、まあ、こんな具合だよ、と大学を出て田舎に帰っ士官学校のて新聞家業をはじめた僕に、暇つぶしに披露してくれたものだ。この特技というか趣味はユニークな楽しさを僕に印象づけた。

原町にかつて陸軍の飛行場が存在し、たった5、6年で閉鎖されてしまったエピソードは、すぐに町ダネの記事になった。

森鎮雄という鹿島町柚木の神社の神主で、丸三製糸に勤務していた人物と、原町の新旧の通りの交差点で薬局を経営する八牧通泰(みちやす)氏は、旧陸軍士官学校の同期。この3人を「原町の陸軍三人男」と名付けて、通った。

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