社会福祉と葬儀の流行

かつて南相馬の葬儀文化革命をもたらした新風習が誕生した。
高齢者の身内がめでたく紅白饅頭を配るような人生を卒業されて、葬儀とあいなった。
親戚知人や近所の多くが葬儀に参列し、香典も大いに集まった。
これを観て、遺族の長老が「さらに故人を栄誉で飾りたい」と思い、20万円を「故人の遺志により地域の社会福祉の向上に役立てたい」と、古人も同じ考えだったし、善事は急げと、社協に寄付してきた。
初七日であったか二七日だか、四十九日だったかに、仏事でまた遺族が集まった時に、社協の女性職員がやってきて、社協会長の揮毫のある「感謝状」を届け置いて行った。
この光景を目撃した地域の物知り、世話役で有名な某氏が、「葬儀に社協職員でも、できれば会長に出てもらって、喪主に感謝状を渡すセレモニーのプログラムに花を添えてもらえれば、さらに完璧だな」と一人ごちた。
このアイデアは、日をおかず別の葬儀で実現した。
町の進歩派、改革派で有名な某氏の音頭で、社協からの表彰状伝達式は、南相馬における葬儀の儀式の新機軸となった。
提唱者も、普及者も、みな善意の人である。
きっと故人も、満足であろう。それから葬儀を迎えそうなご本人さえ、生前の意思、を家族に言い残す人もあったのではないか。
かくして南相馬の葬儀に偉大な慈善ブームが交流した。
毎年の11月3日の文化の日には、市民功労賞の表彰式が行われ、生前故人の意思の体現者である遺族の姿が、かならずそぼ年の市長や偉い人たちに並んで、紋付き袴やモーニング姿ではれある公式の記念写真に見るようになった。

一方、ぼくは、原町市時代のことだが、市当局が、福島県では唯一の彗星発見者の羽根田利夫氏の晩年をなぐさめるため、しばしば訪問し、「今年の冬は越せるかなあ」と気弱な気持ちを漏らした老友のために何かできないかと思い、」偽善者の差異たるぼくは、自己宣伝して自分の新聞に大いにラッパを吹くように、南アフリカの共同彗星発見者のカンポス氏に面会に行き、国際電話で、羽根田氏との直接生の会話を演出して帰国し、新聞雑誌に報道して宣伝した。
ハネダさんは、本当によろこでくれたし、ぼくも最後の御奉公ができて満足した。
息子の小学校入学式には間に合わせて帰国したのに、あんたって人は、奥さんからこっぴどく叱られた。
そのご、羽根田さんは、老衰で亡くなり、ぼくはまたその記事を書いて喧伝した。

さて、この羽根田さんには、市の功労賞というものが与えられていなった。
のちに身内の葬儀で20万円包むと、市長とならんでし市の功労者になれる、という噂が立って、おおいに流行した。なぜか20万円。南相馬の相場のようだ。
葬儀の伝達式と、市功労賞のセットで20万は、遺族の名誉を買うにはてごろか安価にさえ思えた。

科学や歴史など学術分野の特筆する発見があまりにも大きすぎたために、旧原町市はついぞハネダし生前表彰さえしていなかった。
ぼくは苦言を呈して、表彰って何だろうな、とぽつりと考えた。

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