9月 15日メモ

9月15日 木曜日
◇長安寺の遺骨
三瓶宝次町議、ほんじつの議会は午前で終了したため、ごごから拙宅に来訪されて、もくじ構成についての打ち合わせとインタビュー第四回目をおこなう。長安寺のその後を聞いた。檀家役員なので寺から相談されて、福島市の移転先に地所を探して、駅西の高湯街道方面の旧柔道場跡地を改築して大広間として改装し別院とした。預かっている遺骨も100柱を収容する棚も作った。全町民が避難指示で町外に出てしまったので、その後の葬儀もすべて出張しての司式となる。津島の寺として、あの311以後には総勢80名もの人数が生活していた。全体の世話人は、あのときの三瓶町議の斡旋の奔走にいまも感謝の連絡を絶やさないという。渡辺印刷の経営者。
我が家のセカンドハウスを提供して、これを県の借り上げ住宅として二年ほど住んでいた井手地区の井手夫妻は、交際のあった人達だという。ご主人の末期の癌治療のため、狭くて寒い住環境から、日当たりのいい病院近くの部屋を探していた。最初に出合った浪江の被災者で、もっとも近くで被災体験を聞いた人々だった。その井手さんが亡くなられたと、きょう三瓶町議から聞いた。なんと、息子さんも死去されたとのこと。あの壮絶な津波体験を生き延びた奥様だけが、いまは市内に建てた新築の家で一人で暮らしている。何をかいわんや。一冊の本をまとめながら、重い話題がつぎにやってくる。自分の体調を整え、休息をとって仕事にそなえ、将来を見据える。それから原稿を叩きにパソコンに向かう。原発事故関連死がこの5年半で、倍増しつつある、その数字を記録してほしいというのがきょうの三瓶町議の要望であった。1時間半の短い会合だったが、背負ったものの負託を思い、特別の祈りの必要を思う。
この数年に出会った人々の魂のために、どうか彼らの無念と残された愛する人達への思いを、審判と命の神が受けとめてくださいますように。
◇くみ上げ井戸が枯れるほど津島に人口集中
3月11日の大地震と津波。12日の原発最初の爆発から15日までの最初の全町民の津島避難。浪江町始まって以来の空前絶後の未曽有の出来事。下津島の三瓶町議宅にも、30人を超える姉妹、親戚、縁者、知人が転がり込んできた。奥さんの孝子さんが言った。「くみ上げ井戸の水の出方が悪くなった」、と。学校の体育館を避難所にし、福祉、文化、農業関係すべての公共施設を満杯にし、すべてが着の身着のままだった。食事の準備、食材の確保、洗濯用水。一万五千の人口がいちどきに津島地区に集約されたのだ。地下の伏流水にも限りがある。そこに潤沢な水道生活になれた都市生活があたりまえの町民が、親戚縁者をたよって津島に集中した。いちどきにくみ上げる尋常でない水量を肌身で感じたのは主婦たちだった。米をどうする、水をどうする。ガスも燃料も、限りがあった。そこへ、20kmと30kmの同心円という抽象的な作図が現場からはるか遠くの政府の机上で引かれ、つぎつぎに「避難指示」と発表された。
人間が生活できる最後の空間がまだ東北にある。古い日本の文化に敬意をはらって学び実行してみる。世代をこえて伝承してゆく。DASH村はその理想の形だ。それを破滅させるのも日本人の選択なのだ。村に帰りたいのはやまやまだ。最初は帰還まで二年、と答えて居た。しかし、5年以上たって、故郷に帰ってみると、田圃には草がぼうぼう。あまりの荒廃の現実を目の当たりにして、みじめな気持ちになってしまう。諦めの感情でおおくの若い世代が帰れない。
津島地区原発事故の完全賠償を求める会を馬場町議とふたりで共同代表になったのも、その思いを受け止めるからだ。
この会から、訴訟団が生まれ、ADRの財物補償の戦いのグループの両戦が生まれた。
本日の会話の内容でした。

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