1984年7月16日の朝、とつぜん出てきた霊のようなもの、失礼、聖書がいう聖霊様だと信じてますが。

畠中ちあき 様
敬愛するカリタスジャパン南相馬ベース長
2月2日、久しぶりの日曜日に、駅前の姉と母に一瞥のあいさつで、一か月間の電話の声だけの連絡では伝えきれない思いと、かれらの肉の弟であり、肉の息子である私のいまの病状も顔色も、実際に会えば正確に見てもらえるし、母の年齢は佐々木美代子シスターと同じ年齢なので、神戸のシスターへの月一度ほどの手紙と同じで、あいする人の消息を知りたい、会いたいというあふれるような思いは、すでにパウロの時代に、信仰によって結ばれた信徒に、具体的に会いたい、行きたいという熱望と何らかわりません。
わたしにとっては、日本の貧しさゆえに南米へと移民していったおおくの近所の人々の御子孫も、同じです。そして、原町という小さな町の中で出会った最も大切な教会の友に会う事は、肉親と逢うのと同じ切望と、念願に支えられています。
私達が死んだあとのことは、科学者や物知りの人らが、いろいろと定義したり、説明してくれますが、カトリックの二千年にわたる教会の博士たちが編纂したカテキスト以上のことはわかりません。
しかも、それを信ずるか信じないかという入り口の差異だけで、どうやら私どもの行方は決まるようですし、それならば死後のことは、聖霊におまかせするほかにありませんので、川俣町の唯一のキリスト教会で、結婚直後に妻の係累の死者たちをしのぶ記念式に出席した時に聞いた、女性牧師の説教が、ヨハネの黙示録からの引用聖句であったため、このとき以来、「ああそうか。僕も死んだらこうなるんなら、それを信じて一生を暮らすほかないな」と覚悟いたしました。
わたしはもともと高校の現代国語の教師でしたので、本を読むのは好きでした。しかし聖書と出会ったのは、父親が59歳で急性の膵臓末期がんで亡くなった1984年の7月から8月の、家庭的には大変な時期のことでした。
医者が宣告したとおり、「あんたの親父さんは40日で死ぬよ」と言ったとおりの日数で絶命いたしました。
ところが、家族の愁嘆場で姉の三浦ユミ子も、わたしも、実際の肉親の死に直面すると、世界は一瞬で価値観も思い出も、ひっくりかえってしまいました。
父の死によって、私はある晩、奇妙な霊体験をいたしました。
父の手術の日の朝方3時の頃でした。真っ暗な未明の闇の向こうから人のような気配を感じましたが、それまで経験したことのない状況と感覚に恐れと恐怖も感じました。ところが、その霊らしき巨大な存在感は、私の目の前の宙に浮いたまま、にこにこして語りかけたのです。
驚きました。本当に驚きました。
その霊のような存在は、形も色も大きさもなく、ただやさしく私の魂に直接語りかけるのです。
「あなたはいったい、どなたですか」と、私は思わず空無に対して質問しました。すると、彼は、いいえ彼女なのかもしれませんが性別もないのがわかります。
「私は、こういうものです」と名乗りはせず、その存在だけで、神聖な世界からきたものであるということが直感されました。
霊はこう語りました。なんと。
「祈りなさい」と。驚きました。こんな経験も、聞いた言葉もありません。
これが宗教者が体験する霊的体験なのだろうか。
しかし、命じられたのですから、やってみました。
第一、私は、祈ったことなどないのです。神の存在についてさえ、真剣に考えたこともなく、本で調べたこともなく、興味もなかったのですから。
それが、いきなり、これでした。「いのりなさい」と。
何を祈ればいいのか、それは単純明快でたった一つでした。ここ数週間、父親はなにが原因かわからぬ奇病で、小野田病院に黄疸まで出て入院しました。
担当医師は「レントゲンを撮影しても胃のあたりにもやもやと影が映りこんで見えるが、わからない。胃の陰のインスリンを出す機関の部位だろう。切ってみればはっきりしたことがわかる」と、手術の日を1984年7月16日に決めたぼでした。
その日は、まさに午後の手術で父の病状の真実がわかる。糖尿病で、分泌系の小さな器官らしいことは想像できても、手術でどう展開するのか素人には見通せない。
その朝、父が作った隠居家をタダで借りて住まわせてもらっていた息子の私は、何の心配もせず、自分の仕事の大変さに追われて寝る暇もなく、毎晩12時をすぎる頃に家に帰って、やっと眠りについた午前三時頃のできごとでした。
その結論から申し上げます。この日から40日後に、父は絶命いたしました。医師の言う通りです。
二上家の宗派は浄土真宗ですので、母も姉も女故に仏事をみずから取り仕切ることが憚られて、けっきょくごく普通の、葬儀屋が仕切って、坊さんがやってきて、なんとなくそれっぽい日本人の葬式が出されました。
わたしは、いみもなく経典の読経にありがたく聞き入って葬儀に参列している親戚、近所の人々の、なじみの顔をながめながら、一時も早く、この場を離れて「聖書には、人の死についてどのように書いてあるのか」と、渇望と知的欲求とが、どっとあふれていました。
知りたい。人に死とは何なのだろうか。これまで、というより、7月16日の奇妙な霊体験が、はたして仏教でいう阿弥陀仏なのか観音さまなのか、それから宗教書のリサーチが始まりました。

つづく