気の毒な3人の子どもの犠牲者の肖像写真が、1面に掲げられていた。これでは晒しものではないか。かわいそうに。
こうした問題を、これから新聞記者になろうとしている入社試験の受験者に、民友新聞の偉い人達が、口頭試問として問う、というのがある年の民友新聞社の入試問題だった。
 もちろん、福島県内の社会事件しかも殺しの事件ネタなので、全国記事である。おそらくは共同通信の配信を、細かな部分で地元の地の利を得た新聞記者が細くすることがあっても、基本的には共同から記事を買ってくる民報でも仙台の河北でも地方も、ブロック紙も同じ構造だろう。
仕事とは、そう新聞が政府に迎合し批判せず、いうものだ。 考えてみれば、残酷な行為である。犠牲者の親戚、血縁、同級生、友人から新米記者は犠牲者の肖像写真を何としても借りてこいと言われるのが最初の仕事だ。
 そういう非人間的な内容なのが「社会のために実感こめて感じてもらうため」という理屈で、洗脳される。
 警察官の仕事も、災害地の遺体を処理する自衛隊員も、人間的感情を押し殺して、遺家族のために働くわけだから、同じ神聖さを持っているが、結果としてやっていることは、新聞という情報を商品として売る、金もうけの面も否定できないからだ。
 すべての公的な仕事は、そういう公務である。
 金儲けの仕事と見下される一般の商売ですら、国民の消費生活を底辺で支えるある種公務であり、必要な労働なのに、役人や新聞記者だけが、われこそは正義の味方、われこそは社会のリーダー、などと妙なプライドを持っている。
 大卒者を前に、犠牲者の人権と加害者の人権をならべて、紙面を作る技術者は神のごとくなったつもりなのだろうか。
 読売、サンケイ、はじめ、民報、民友まで、あらゆるマスコミが安倍政権を批判せず忖度し、原発再始動を推進しはじめてから、もう新聞を購読するのをやめた。しばらくしてみた新聞で、思うのは、新聞も読まない者の健全さと、純粋なこの世の印象であった。
 一年点検の一時間、二時間、地方紙をんがめて、いろいろと思うことがある。
 

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