原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

muto famnily memo

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ノブの父母

 ノブの父親は、武藤喜七 明治21年8月15日生まれ
 母親は斎藤家出身のタツ 明治26年9月3日生まれ
明治44年1月29日、婚姻。同日入籍。
 タツさんの父親は伊達郡富田村大字小神字上都ノ内21番地戸主斎藤熊次郎 母はサワという。長女。
 タツ昭和13年12月28日午前11時本籍に於て死亡 戸主武藤喜七届出同日受付

 さらにノブの父親の一代前は、祖父 喜作 祖母 フジ
 喜作 嘉永5年9月20日生まれ 武藤喜八 シュンの二男
  明治20年7月23日、家督相続。戸主となる。
 フジ 安政4年3月2日生まれ 当郡秋山村 橋本多蔵二女
 英朗がノブさんから聞かされてきた肉親の名前については、ここまでである。フジは気風の良い昔の女だったという。生年については戸籍から転記した。

祖父喜作の兄弟 

喜作には次のような兄弟姉妹がある。
喜作自身は二男にあたる。(長兄は生後一日で早世)
三男 喜六 安政5年9月16日生まれ 明治30年2月3日鍛冶内15番地へ分家
 妻 ユウ 明治元年正月10日生まれ 明治18年2月24日当郡秋山村 橋本多蔵三女入籍
 四女 ウン 明治21年1月10日、当郡月館村田代忠次郎ニ嫁ス
 四男 喜三郎 明治6年3月7日生まれ 明治30年2月20日兄喜六に従い分家。
 養女 コマ 明治6年3月7日生まれ 宮城県宮城郡南目村 熊谷団治孫入籍ス
  明治26年11月27日死亡
 のちの戸籍によると、ここに喜六の長女ミツ井 明治20年11月6日生まれ 
喜六長男 喜代八 明治24年7月11日生まれ 明治30年2月20日父喜六に従ヒ分家ス
養妹コヨ 明治26年9月14日生まれ コマの子 明治26年10月29日死亡
喜三郎妻 イセ 明治12年1月10日生まれ 明治28年4月24日伊達郡福田村大字羽田 仁科久次郎養女入籍 明治30年2月20日夫喜三郎に従ヒ分家ス
喜六二男 喜重 明治28年11月5日生まれ 30年2月20日父喜六に従ヒ分家ス
などが加わっている。
長男は明治29年7月9日に生まれたが、8月10日に死去している。
また喜三郎の長男は明治29年8月9日に誕生し喜一と命名され一時は同居していたが、明治30年2月20日父喜三郎に従ヒ分家ス。

武藤家のルーツ

ノブの祖父喜作は、父武藤喜八の二男にあたる人物。では、曽祖父の喜八とはどんな人物であったのか。
実は、最古の戸籍によると、彼は文政11年6月10日うまれ。伊達郡小神村字鍛冶内24番地の武藤武兵エという人物の養子に入った人物。出身は当郡石田村 渡辺忠吉二男。明治20年7月23日引退。つまり明治20年に自分の二男喜作に家督を譲って引退。
ところが、これが老境に達して引退したのではないらしい。別な戸籍があるのだ。
こちらによれば、出生は伊達郡石戸村大字石田字宮下2番地渡辺忠治二男 母親はソヨといった。明治40年11月17日廃家届出 同日受付 明治40年11月17日富田村大字小神字鍛冶内24番地戸主 武藤喜作方入家届出 同日受付除籍
という内容である。
すなわち伊達郡富田村大字小神字紙敷内3番地を設けて、そちらに引退し新戸籍として、別居しながら、(当然、前戸主の欄は空欄になっているので新戸籍と判明する)のちになって、息子の喜作の戸籍に戻った経緯が歴然としている。
しかも、妻のシュンの父が武藤武兵エ、母がデンといい、その長女とある。
この戸籍によって、初めてシュンこそが、武藤の血を引く系統であったことが確認された。
明治35年1月8日夫喜八分家したるに因り入籍。
45年に喜八に従ひ入家したる因り除籍、との記述がある。
シュンが生家にもどったことがわかる。
喜八という名前は、長男の名前として頻繁に登場するが、明治の喜八と大正の喜八とは別人。またわれわれ世代が覚えている喜八伯父や喜吉伯父でさえ、生前の親戚間の家系に関する会話を漏れ聞いていても、しばしば混乱をきたしていた。
武藤家の墓所には、喜八とシュン夫妻および喜作とフジ夫妻のものだけに限って神道形式の巨大な墓石が建立されているので、この時代すなわち明治期までは経済的にきわめて裕福であったことが類推される。近世末から近代はじめの武藤家の初代といってもよい武兵エの墓石が、小ぶりの自然石であることを考えれば、その比較によっても、武藤の栄枯盛衰の波が、経済力のバロメーターとしておのずと理解される。さらには、ノブの両親の墓がないのは、クリスチャンだったから、別の扱いをしたものだろう、喜六という弟の自然石の墓石が残っているのに、長男夫婦である喜七とタツの墓石が見当たらないことが不思議である。
かつてブラジルにも親戚がいる、と聞かされて1984年もしくは1989年にブラジル訪問の直前に、武藤の家系について喜吉伯父から教示してもらうべく小神の喜吉氏宅に向かったものの不在のため断念、しかし帰宅途中に川俣公民館前でバイクの伯父と偶然遭遇。出発寸前の前夜に、簡単な家系図の概略を教授された。しかし、今から思うと、あれは偶然でもないような気がしてくる。今回の戸籍調査と親戚訪問による聞き取りによって初めて武藤家の全貌が判明した。

 ノブのイトコの斎藤正成さん(飯坂)

 飯坂の親戚斎藤さんの家とのつながりは武藤喜作とフジの世代までさかのぼる。かれらの子供の世代にあらわれた喜七が最年少の男子で、長姉はる、という女性が嫁した安達郡東和町の斎藤家、というのが、飯坂の親戚斎藤さんの起源であり、彼らとのつながりは、ノブさんのイトコどうし、ということになる。
喜作長女はるの息子が正成さん。妹は栃木の氏家に嫁した。
戒名 棟雲正徹清信士 平成2年10月8日没 曹洞宗
妻 カツ 壽光勝安清信女 平成10年3月14日没 山形県天童市出身
正成さんは大工の棟梁で、宮大工の腕をもっていた。20数年前にお会いしたときのβビデオが残っている。同じものをVHSにダビングして飯坂の斎藤家に渡してある。最初の訪問時、生後まもない、我が家の長女しのぶも写っている。

 喜作の子供たち=喜七の姉たち=

長女 ハル 通称おハルさんは、実にきっぷのいいあでやかな派手な女性であったという。明治9年2月10日生まれ。飯坂の斉藤家の系譜である。
明治28年12月28日伊達郡飯野村飯野 菅野元蔵長男為蔵ニ嫁ス
明治29年5月7日離婚
明治30年4月17日伊達郡飯野村西飯野 斎藤芳助二男健助に嫁す
 次女 チョウ おチョウさん。明治33年3月21日、伊達郡福田村大字秋山字霧ヶ窪15番地の佐藤家に嫁し戸主直蔵と結婚した。明治12年5月28日生まれ。ここの長男が光雄さん。
福島市森合一盃盛20の佐藤家は、この光雄氏の直系。戦後一時期、小神赤羽に住んだ。光雄氏の代から曹洞宗。姉に長女の直江さん(斎藤家に嫁した)、次女ノブさんというブラジルに海外雄飛した女性がある。2001年、平成13年4月、ブラジルサンパウロで死去。在伯の佐川一族はその子孫である。
 ほかに、姉アヤ子、弟に、ツトムというひとがある。面ちょう?で死去。
 15日、智恵子未亡人の話による。佐藤家は、佐藤正信継信の系統と伝承される。これを当主光司氏が写真アルバムにくわしくまとめあげたものを、拝見した。2000年の旅行で、ブラジルの佐川ノブさんは当時健在で、ブラジル佐川の当主ガブリエル氏に、これを手渡して来た。

 三女 コウ 明治19年2月8日生まれ。ハワイへ移民。在米の廣田一族はその子孫である。
 長男 喜七 明治21年8月15日生まれ。ノブの父親。
 二男 定  明治29年7月9日生まれ 29年8月10日死亡 わずか1か月弱の命であった。
 
 ハワイの廣田コウおばさんとブラジルの佐川ノブさん

 武藤コウは明治19年2月8日うまれ。大正元年9月4日愛知県渥美郡福江町字高木 53番戸主 廣田寛政と婚姻届出同日同町戸籍受付
 Sam O. Hirota Jun Hirota ら二世の日系アメリカ人家庭については別に記す。
武藤家は、大正元年に愛知県出身の廣田寛政氏と結婚してハワイへ移民していった喜作の娘(喜七の姉)コウさんが、苦労してサトウキビ畑での労働で稼いだドルを日本の(小神鍛冶内の)実家に送り続け、両親と兄弟を助けた。家督は長男の喜七がついだが、ハワイでキリスト教信仰にはいったコウはお金と一緒に、熱心な手紙でキリスト教信仰に入信するように勧めた。
ハワイで発行されていた日系人のキリスト教伝道のための新聞が存在する。小神の家にあったのを見たことがある。コウさんが送ってきたものだろう。
 経済的に不如意な実家では、ハワイからの送金はどれほど助かったことだろう。明治末の日米の経済格差は、今日の比ではない。
 7月1日付け毎日新聞福島版に支局長がかいてくれた「ふくしま有情」には、(機業で栄えた川俣で武藤家も養蚕をしたが)、絹の暴落で没落・・・とあったが、没落したというのはそれ以前からで、苦境にあった生家の親を助けるつもりでハワイへ出稼ぎしていったのがコウさん。ハワイの廣田家の系譜についてはまた別に書く。

 武藤喜七の基督教入信

武藤喜七は姉コウが廣田寛と結婚してハワイに移住した大正元年(1912)以前の明治40年頃には、19歳の独身で川俣教会の記録によるとすでに初期会員であった。
 川俣教会七十周年記念の「70年史」によると、
 「川俣近郊の富田村小神鍛冶内の武藤喜七も熱心な求道者であった。同氏の姉がハワイに渡ってそこで基督教を信じ、武藤に経済的援助を与えながら信仰の書籍を送ったり、手紙で教化を怠らなかったので、彼は川俣教会の門を叩いて山野牧師に会いその旨を告げたのであった。そこで時折家庭集会を催すことになった。長谷部ミツも、近くの部落で産婆を開業しておって、助産に頼まれたのを動機に家庭集会に出席することになったのである。そして、大正六年四月二十八日、武藤喜七、令夫人タツ、長谷部ミツの三人が東北学院神学部教授サイプルによって受洗している。」(長谷部俊一郎記)
 山野虎市は川俣教会の初代牧師で、文学者詩人として有名。相馬教会の牧師に転任。五代目小林寿雄牧師は、原町教会の牧師も勤めた。
 同誌年表によると、武藤喜七は明治四〇年に、すでに教会メンバーであったようだ。瓦町、浮世小路の民家を借りた川俣講義所はこの年に創立。会員として名を連ねている。
 年表の大正六年には「ノッス博士により小神の武藤喜七宅にて、大伝道集会を行った」とある。この年に夫婦で洗礼を授かった。大正5年から小神集会を開き、大正8年からは川俣教会の長老として役員をつとめた。
(大正7年2月21日民報)
○本県基督教信徒
本県学務課神社係の調査に係る大正六年十二月現在各基督教会信徒数は左の如し
▲福島市ステパノ教会八三
▲日本基督五八
△天主公四七
▲日本メソヂスト七五
△福島基督一一七
△組合二七
△救世軍小隊一○八
▲信夫郡日本基督飯坂伝道教会三四
飯坂基督・一
▲伊達郡日本基督長岡講義所四六
△日本基督川俣講義所 四

 ノブの長兄喜八とてい

 長男喜八は明治45年1月1日うまれ。
昭和3年5月にノッス博士より洗礼、と教会記録にあるので17歳の時である。家を出て職業軍人となった。陸軍大尉で終戦を迎える。
大正10年産まれの東京都杉並区の菅野純一三女ていと昭和19年2月4日に結婚。昭和63年11月24日没。子供はない。

ノブの次兄喜吉と昭

二男 喜吉 大正3年9月20日うまれ
岐阜県恵那郡中津町中津川77番地ノ52分家届出 昭和15年3月12日中津町長受付 除籍。これは昭との結婚にともなう戸籍離脱。川俣教会の長老を長くつとめた。
1991年、平成3年2月26日に死去。福島県立医学大学付属病院に検体、解剖実習に付されて一年後1992年、平成4年5月24日に日本基督教団川俣教会で鈴木牧師の司式により葬儀を執行した。弔辞、別掲。

 教会記録には大正時代の発展期として、「武藤喜七の家についての消息も記さねばならないものがある。その子供達は次々に幼児洗礼を受け、模範のクリスチャン・ホームを築き、家運も次第に展けていったし、その遠縁にあたる齋藤なおえは熱心な求道者であった。なおえの妹信子はブラジルに渡航した青年佐川義信に嫁して、ブラジルにおいて成功している。また喜七の甥勝恵は苦学力行して福島師範を卒業し、さらに東京高等師範を卒業して、熊本県の総務部長にまで栄達している。一連の基督教の感化によるものである」と記述されている。(川俣教会七十年史)

 娘の愛子と幸子もクリスチャンとなったが、若くして死んだ。
 幼児洗礼とあるのは、夭逝したとわ子、功らのことだろう。彼らの名前は小さな四角柱の墓石の四面に刻まれている。標柱の正面上方に十字が掘ってあり、クリスチャンとして葬られたのがわかる。
 三郎は後年、唯一武藤の名前を残すことになる一家をなしたが、彼にも両親は洗礼をさずけたであろう。
 三男 三郎 大正15年2月16日うまれ。命日は昭和47年3月18日。詳細不明。

小神集会(大正五年~昭和四三年)

 小神村の集会の発端は武藤喜七の姉コウが、ハワイに移住し、熱心な基督者広田寛と結婚し、広田夫妻の物心両面のたゆまざる福音伝道により喜七が受洗し、自宅にて集会を開いたことより始まる。それは大正五年であった。その頃、小神には農談会が組織され、たまたま杉山元次郎(小高教会牧師)を迎え大集会を開いておった。当時、多忙な養蚕のみで生きる農村の集会は定期的なものではなかった。集まった人は定かでないが受洗者名簿によると、大正五年より八年にかけて、武藤喜七、妻タツ、長谷部ミツ(長男俊一郎、二男晋二、共に牧師となる。ミツは、助産婦業のかたわら川俣教会に良き伝道と奉仕をした。)斎藤蔀、妻タミヤ、斎藤虎三郎、斎藤徳重等、八、九名受洗しており、以上の兄姉が中心となって山野虎市牧師及び津田一郎牧師のご指導を受けておったようである。
 大正六年頃にはノッス博士を迎え大集会を開いている。昔の田舎道は非常に悪く、ぬかるみを父喜七がノッス先生に申し訳なく詫びると、先生は「道の悪いのは土壌のよい証拠である」と語られた。そして、伝道のため農村をよく研究され、又、日本語を熱心に研究され上手な会話をされて驚かれたそうである。大正十三年より昭和四年までは後藤金治郎牧師、小林寿雄牧師により集会が開かれておった。
 昭和五年から十一年までは石川泰次郎牧師(令嬢三人、信子、愛子、幸子と偶然にも我が家も同じ信仰的名付けをしておったことを父は得意であった。)
後略            (川俣教会七十年記念誌・武藤喜吉記)

 武藤喜七は大正8年から昭和16年まで教会長老をつとめた。
 ノッス宣教師は、会津伝道などで活躍し大正時代、農村伝道に尽くし福島県に多大な影響を残した。長男喜八、次男喜吉も同宣教師から洗礼を受けている。

 武藤喜七の聖書

 武藤喜七とタツ夫妻は大正6年に洗礼を受けた、と伝えられる。
 彼らは明治44年に結婚しているので、当時は23歳と18歳。洗礼時には29歳と24歳の年であった。
 晩年の父喜七の姿について、「よく陽当たりの良い自宅の農家の縁側で、愛用の聖書を読んでいた光景を覚えている」と次男の喜吉は語っていた。
 その聖書というのは、大正10年の「引照 旧新約聖書」で、神戸市の英国聖書協会の発行によるもの。黒皮表紙の立派な製本である。
 本文中には何カ所か赤鉛筆などでアンダーラインが引いてある。
 たとえば、列王略記下には欄外の同タイトルに赤印が付されている。第二十章3節の「嗚呼エホバよ願くは我が真実と一心をもて汝の前にあゆみ汝の目に適ふことを行ひしを記憶(おもひ)たまへと言て痛く泣り。」すなわちヒゼキヤ王が預言者イザヤを通して神から病気と死が告げられた時の祈りの部分に唯一ここだけに赤印が付いている。続く歴代志略上にも欄外のタイトルと頁の数字に赤印がある。歴代志略下にも欄外タイトルに赤印し。第二十四章15節16節に赤印。21節22節にも。
 続くエズラ書、ネへミヤ書の冒頭欄外タイトルにも赤印がある。こうしてみると、各書の頭出しのためのブックマークのようだ。それ以前にもエステルにもタイトルの赤印はない。
 ヨブ記にもタイトルと頁数に頭出しマークが復活する。9章1節から5節まで赤印あり。11章1節から6節まで印しあり。20節もある。12章12章11節まで長文にも記し。13章1節から5節まで。14章1節から6節まで。こうして見ていると、喜七という人物がこの聖書を通読するリズムを刻んでの赤印のような引証でもある。ヨブ記全体は擬人の受難と神との論争で構成される古い文学であるが、ヨブの身の上に対する共感なのかこれらの箇所のほかに31章25節から27節の「我もしわが富の大なるとわが手に物を多く獲たるとを喜こびしことあるか われ日の輝くを見または月の輝(てり)わたりて歩むをし時心ひそかにまよひて手を口に接(つけ)しことあるか」というヨブの弁明の部分に、人間としての共感があったものか。
 ヨブ記42章(最終章)や続く詩篇第一編から第三十三編まで、読了したという記なのか、心に留まったという意味なのか、全文に赤印が施してある。ヨブ記の終結部分の全文が、不条理な受難の解決と大いなる慰めである。喜七は得心できたのだろう。
 そのあと、詩編40編の4節「エホバをおのが頼みとなし高ぶるものによらず虚偽(いつはり)にかたぶく者によらざる人はさいはひなり」に印があり、45編の2節「なんぢは人の子輩(こら)にまさりて美しく文雅(みやび)そのくちびるにそそがる、このゆえに神はとこしへに汝をさいはひしたまへり」、52編1から7節、62編、91編11から16節、98編、142編7から9節などで印象に遺ったらしい跡がある。
 イザヤ第二章22節、第九章6節「ひとりの嬰児われらのために生れたり我等はひとりの子をあたえられたり、政事はその肩にあり、その名は奇妙、また議士、また大能の神、とこしへのちに、平和の君ととなへられん」の箇所に赤印しがある。21章末尾。52章11節、14節、53章1から7節、10節、11節あたりには、赤の上に更に黒い傍線まで引かれている。苦難の僕すなわちキリストを予言したといわれる部分である。
 エレミヤ16章11節から13節。「汝らの先祖我を棄て他の神に従ひこれに奉へこれを拝しまた我をすてまたわが律法を守らざりしによる」という11節は、先祖の罪の理由をエホバが語ったという部分である。ここは、没落した武藤家の当主である喜七にとって、最も胸の痛む指摘であったことだろう。思い当たることがあったというより、我が身の不条理を説明できる最も端的な箇所であるからだ。
 旧約マラキ書の末尾、第四章5節「視よエホバの大なる畏るべき日の来るまへにわれ預言者エリアを汝らにつかはさんかれ父の心にその子女を慈はせ子女の心にその父をおもはしめん是は我が来りて詛をもて地を撃ことなからんためなり」に赤鉛筆の跡がある。
 新約ではマタイ全文に赤鉛筆で逐次なぞった跡があり、さらには青インクでチェック・マークで記した箇所もある。5章余白に、「福音は常に注意して心に銘すべし」との書き込みがあり、18章から19章にかけて頁が折られており、22章から23章も折られている。
 続くマルコ(本書の表記はマコ伝)もまた全文に赤鉛筆の跡がある。4章が折られ、頭注の引証箇所を示す数字にも赤で印しがある。
 ルカでも4章まで全文に赤鉛筆で跡をなぞったが、ここで、再び余白に「エリアの時三年六ヶ月雨降らず偏地大なる飢饉なりし、サラパテの一人のやもめに遣されたり(エリヤ)」との書き込みがある。
 ここまできて、福音書の文章に赤鉛筆で記すことを止めて、以後の部分にはない。この調子でいくと、すべての文章を真っ赤に塗ることに気が付いたかのようだ。ここから以後は6章を折ってある。ヨハネに至って、再び1章32節あたりから赤鉛筆が復活する。が、一部分のみ、所々の字句に印しが付されだけである。
 思い出したように使徒行伝の18章6節から8節に赤が印され、19章23節から27節に赤が入り、またロマ書1章、10章でも赤印しが見える。
 コリント前書6章が折られ、11章22節30節に赤。15章42節から58節まで赤。末尾の16章22節にも赤。
 コリント後書では、11章12節から33節まで。
 テモテやエぺソにも一箇所わずかに赤い印しがある。

 賀川豊彦の墨書

 なお、我が家には賀川豊彦が川俣で講演した時に、襖紙に筆で書いた墨筆が残されている。原町での講演会でも、模造紙に墨書しつつ、宇宙論や世界、基督を論じたというから、いつもの恒例だったのだろう。祈りのポーズといい、情熱的な説教といい、日本人ばなれした迫力ある講演にはカリスマ的な魅力があった人物らしい。戦前、戦後に東北にはなじ深い基督者だが、川俣には昭和23年11月に来て講演したのが最期である。くだんの襖紙は、喜吉伯父が表具して一度は我が家の新築祝いに贈呈したのだが、気が変わって川俣教会に献呈したいから、と言って戻したものの、終戦直後の町の熱気については知らない教会では飾らなかった。すでに若い牧師に代替わりしており、伯父の死後、訳を話して私が帰宅に引き取ってきた。
 原町の農村の基督教信徒であった渡辺瀧蔵は、やはり原町での賀川豊彦の講演の時の模造紙を記念にもらって自宅に保管していたことを、息子の布川雄幸氏はよく覚えていたが、現物がみあたらないとのことであった。

 さて、ノブの生涯の青春時代に大きく影響をあたえた父親の後妻について、徳富蘇峰の姪であったという。
 淳子 明治40年6月19日うまれ。父鈴木秀雄 母すみ
東京都淀橋区下落合2丁目808番地戸主 鈴木速彦妹昭和17年6月27日武藤喜七と婚姻届出同日入籍
 昭和22年2月26日夫喜七死亡

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