5月11日

 5月11日の共同通信の配信でジャーナリスト作家立花隆が特別随想を寄稿していた。

 ローマ法王と日本人の少女との対話が紹介されていた。

 「田中角栄研究」で、一国の宰相を辞任に追い込み、ジャーナリストとして成功した同氏は、自由な論者としての地歩を築き上げ、自前でヘリコプターをチャーターし、東北の津波被災地を空から鳥瞰し、神の視点の必要をいい、瓦礫の海岸に立ち、虫の目からの視点の必要を説き、次のように対話を引用する。

 

「なぜ神様はそれをお許しになるのですか?」と少女は問う。

 法王は「私にはわかりません。私も、なぜなのですか? と神様に問い続けています。」と答え、「でも神様はいつも私たちのそばにいます」と付け加えた。

 立花氏はアウシュビッツなど、多くの人類史上の残虐な出来事を例に挙げて、同じ問いを発し「こういう場合、神が返すのはいつも沈黙という答えなのだ」しかし「問い続けることが大切なのだ」とする。

 法王ベネデイクト16世も、立花氏も、神が、今回も沈黙している、というのは、まるで遠藤周作の小説と同じではありませんか。

 彼らは「なぜ?」と問うが、神は答えない、というのです。

 驚きです。

 すでに神はイエスをとおして、シロアムの塔の倒壊事故で犠牲となった18人について「彼らに罪はない」と答えられているではありませんか。またノアの洪水の物語が、ロトのソドムからの脱出の物語が、モーセの流浪の物語が、聖書には備えられているではありませんか。

 地震と津波と原発事故に困惑しながら、マタイの24章がずっと頭に浮かんでいた。

 世の終りとは、このようなものなのか、と。

  

 天罰、と言った政治家がいる。天災ではあるが、天罰なら、罰を受けるのは貪欲な東京の電力消費者やテレビ局ではないのか。それは「警告」というべきだった語ではなかったか。

 「神も仏もない」という神は、人間を守るためにだけ存在するものなのか。

 限られた知識と言葉で、大それた口を開くことなかれ。沈黙するのは、われら自身であろう。

 干潟であった土地を干拓して米作耕地や宅地にしたエリアが再び海面になった。谷を埋めて造成した宅地が山崩れした。海岸に造成した土地が液状化で陥没した。もともとの自然がもとにもどったことに人間の都合で、人間を中心にした価値観で抗議するのか。

 自然現象にあってさえ、神の主権の下で「許可されて」地上に間借りした仮住まいの身の上で、生かされ、奪われるという事実に対して、われらは何を抗議できるのか。

 人間が有限である事実を痛いほど示されてなお、神は人間を守るために存在するのではないのか、と問う不遜。

 自存・・・ありてある方の超絶を、そのままに受け入れざるをえない人間がわきまえ、ただ畏れ、ただ挑むというのが、親を前にした子のありかたではないのか、などと思うばかりです。