これまで何度も原発の記事を書き続け、安全性と乖離した財政的理由だけで推進されてきたという点を指摘してきたが、この警告は世に受け入れられずに、憂愁の谷間にいたような思いだったが、いざ現実のものとなった今、エレミアの悲しみはわが悲しみとなった。

 神を信じた者も、信じなかった者も、生まれて来る者も死に行く者にも津波は来た。

 なぜか、というなら、そう問うものは何ゆえに生かされたのかを問え。

 

 われらがなおほろびざるは、ただ主の憐れみによる   哀歌 3章

 

 飯館にも川俣山木屋にも浪江にも、数十のエレミア、数十のヨブが生まれ、家畜を奪われ、土地から引き剥がされた。

 三陸の海岸部に数千のエレミヤ、数千のヨブが生まれただろう。キリストも生まれたのだと思う。

 飲み込む津波に死を覚悟して最後まで防災無線のマイクを握ったまま死んだ海辺の町役場の女性職員。避難誘導に立って波に飲まれた巡査たち。

 二万余の犠牲者、行方不明者の間にキリストが懸命に往来し、神の声が響き渡った光景。神が人間に現れ、生まれるために、このような生みの苦しみが必要だったことは、人智を超えることであるが、キリストは生まれ、神は雄弁に物語った。

 この二千年の人間の歴史に神は立会い、歴史のいずこかで、戦争のたびに、災難のたびにキリストは生まれ、神は咆哮した。いまほど雄弁に神が自己主張した日があっただろうか。

 けれど、何千人のキリストが地球上に生まれようと、私の心の中にキリストが生まれなかったら、千年に一度の艱難と遭遇しても、うなじのこわい驢馬のようにくびきを負って他郷にひき連れられるのだ。いまや放射能という占領軍が、われらの故郷を支配した。若草が繁る風景の中で風がわたり、木々に鳥たちがさえずり、放たれた牛たちが奔走している。

 このように巨大な機会に、悔い改めずに、古い人のままであったなら、何の意味があるだろうか。 

 日本は復旧・復興に向かう、というが、二万余のいけにえがなだめと贖罪の犠牲でなく、運の悪いカードをひいただけの役回りだったとしたら、彼らの声をも聞かないことだ。彼らは沈黙しているのだ、と法王も立花氏もいうのだろうか。

 神は沈黙などしていない。鼓膜が敗れるほどの音声で臨み、強盗よりも激しく掴みかかって揺さぶり、わたしは在る、と宣言されている。その声を聞かないのであろうか。今ほど神が強烈に自己主張されたことがあったか。

 法王は「わかりません」と答えたのは人間として正しい。主の最もそばにおりながらしばしば叱られ悟りの鈍いペテロの後裔なら当然だ。超絶の神を、いま、すべて人間が理解できると思うことが不遜なのである。

 神はそばにおられる、という。遠いバチカンからはそうみえるのだろうか。

 神は許しもしなければ、禁止もしない。ただ神は人間に超絶して存在する。無関心でもなければ、ともに悲しまれ、ともに働き、ともに喜ばれる。

 神が沈黙していると見えるのは、人間が自由な存在として作られているということの証だ。だからこそ自問し、自答しなければならない。これでよいのか、自分は間違っていないだろうか、と。 

 日本では、神はまさに真正面におられる。