◇業務の変遷◇
対米無線電信が船橋で取扱われた頃は、業務草創の際であって、電報数の如きも わずかに小笠原海底線の輻?を幾分緩和する程度を出なかった。大正10年磐城 局が完成してからも、開始当時は双方手送信で、受信機も長距離通信用としては 不十分なものであったから、毎語を二度ずつ反復せしめ辛うじて受信するような ことも珍しくなかったが、以来技術の発達は日進月歩の情勢を示し、送信受信 両方式に幾多の改良が加えられ、遂に高速度印字通信を実施するに至って全く 面目を一新し、ケーブルと対抗して何等の遜色なきまでに進歩した。事業の 発達とともに局務はいよいよ多忙となり、人員を増加し、事務運行の方法にも 微に入り細をうがち、不断の努力を傾けて改善を計ったのて゛、昭和2年8月 東京無線電信局に移管されるまでの8年間(大正9年富岡開設以来)磐城局は その内外において常に躍動的革新状態にあった。 これらの通信施設と業務の変遷を、年代順に列記して、簡に説明を加える。

◎北米合衆国全部に取扱地域拡張
大正10年3月26日原町送信所事務開始とともにまず取扱範囲を合衆国全土に拡張した。

◎カナダ及び中南米全部に取扱地域拡張
大正10年8月10日から実施された。

◎至急無線電報開始
大正10年11月11日以降華府軍縮会議開催に伴って電報激増の結果、 同19日から布哇、合衆国及びカナダに限り至急の取扱いを開始した。 なお会議中は輻湊緩和のため、米海軍の布哇パールハーバー局を利用して、 本邦著官報の受信を始めた外、カフク局と臨時三重通信をなしまた桑港からも 直接受信して疎通をはかった。

◎陸上通信線
当局陸上通信線は、最初東京中央電信局へ接続した二重一回線のみで大正10年 5月26日からこれを時間によって横浜へ延長し、両局へ時間通信としたが、 華府会議の通信激増に備えて、更に東京当局間に臨時二重一回線を作り、10月 19日から開通した。大正11年3月末日から臨時線を廃止し、代わりに横浜、 東京、磐城の3局を接続する二重一回線が増設された。

◎自動通信機採用
大正11年3月31日から当方の無線送信を自動機によることとした。布哇側 ではまだ手送通であり、かつ彼我とも高速度受信機がなかったから速度は1分 間に100乃至130字の割にすぎなかった。

◎至急電報取扱地域拡張
大正11年4月27日から従来の布哇、合衆国、カナダの外更に南米及び西 印度に延長した。

◎タイプライター受信開始
同年7月以降布哇局でも自動送信機を使用しはじめたから、当方では受信機 を改善し且つタイプライターの猛練習をやってタイプ受信を実施した。

◎クラインシュミット鍵盤サンコウ孔器採用
大正11年8月28日から従来の杵サン孔を改めて、クラインシュミットを 使用し能率を上げることにした。

◎リコーダー受信開始
日米間に無線電信技術者の交換派遣を行うことになり、大正11年末RCAから 技師ラチマー外2名が来日して以来、受信方式を改良して面目を一新した。同 12年4月19日から米国クインベルゲルの無線高速印字機を採用し高速度受信 を実施した。当初は午前中のように受信感度の強勢な時のみ使用し、現字紙の モールス字号を翻読しつつタイプ受信をしたが、2ヶ月ほど経て有線の自動通信 と同様に現字組貼附を試みることにした。しかし米国のやり方などに倣ってまも なく現字紙を見乍がらタイプ受信することに改めた。リコーダーによる高速受信 は日本側は布哇より早く始めたが、布哇ココヘッドでは地勢の関係上ロング・ア ンテナの建設が遅れたのと、原町の送信機のキー・アクションが始め余りよく なかったので、大正12年12月まで布哇側は音響によるタイプ受信を続けていた。

◎磐城三宮間直通
大正12年4月21日から横浜磐城線を臨時に三宮(神戸)へ延長し、両局と時間 通信をすることになった。(この頃外国無線電報の誤謬は陸線の中継によるものが 甚だ多きを占めていた。誤謬坊遇は重要施策のひとつであった。

◎三宮との直通復旧
大正12年9月1日の関東大震災後中止していた三宮との直通連絡は、同13年 5月1日から横浜磐城線を延長する時間通信を再開すると同時に、自動二重方式 に変更した。

◎後廻電報取扱再開
後廻電報は欧州大戦のため日米通信を中止した大正7年2月末日限り取扱を廃止 され、その後日米通信再開後も後廻は扱わなかったが、大正14年1月1日から 再び取扱を開始した。

◎東京磐城線の自動二重方式
大正14年4月1日から自動機に変更した。

◎通信時間制限撤廃
従来日布間の通信時間は毎日午前6時より布哇からの送信を受け、午前8時より 原町の発振を開始しして二重通信をなし(午後0時半頃より1、2時間布哇へ 感度低減のため当方発振を中止することがあった。)
大正14年4月21日から24時間連続通信をすることになって、疏通状態が 著しく改善された。

◎対外放送無線電報開始
同局の対外放送は大正14年6月15日から1日3回取扱を開始。
①正午、日本電報通信社より発する日本語。
②午後6時、帝国通信者より発する英語。
③午後11時、東方通信社より発する英語。
の本文のもので、1回200語以内、1分間20語の速度で放送した。

◎欧州発着信米国経由取扱開始
大正14年7月1日から同局無線を経由して、欧州に発着する電報の取扱を 開始した。最初は通常電報のみに限ったが、同月11日から至急と後廻を 同月23日から新聞電報も取扱うことになった。

◎日本無線電信株式会社創立
大正14年10月20日、本会社の成立とともに、磐城無線局は政府現物 出資として会社に譲渡され、その設備の維持、改良、機械運転は会社の 手で行い、富岡で取扱っていた電報送受の事務のみ通信省吏員が引続き 行うこととなつた。

◎新聞電報料金引下げ
大正15年11月1日からアメリカ合衆国に発着する新聞電報の料金は 無線経由に限り低減された。

◎日欧間新聞電報廃止
昭和2年1月21日限り当局無線経由の取扱を廃止した。

◎無線中央操縦方式実施
日本無線電信会社が建設中であった埼玉県下の福岡中央受信所の完成と ともに、中央操縦方式を実施することになり、昭和2年8月7日限り 磐城無線電信局を廃止、同局の事務一切をあげて東京無線電信局に 併合された。

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