◇通信取扱の推移◇
磐城無線局が大正9年富岡受信所に於いて受信業務を開始以来、昭和2年 東京無線局に移管されるまでの8年間における業務発達の跡は年別取扱い 電報通数によって数学的にこれを明らかにすることができる。

 


以上8年の内、前半の4年間における増加率の著しいのは、無線電信が 創業の当初において、その相次ぐ施設の改善と取扱い地域の拡張に伴って 、漸く世人の注意をひき且つ海底線に比し料金の低廉なのと相まって、急激 に利用者が増加したため外ならない。すでにこの業務の能率が利用者一般に 周知されて来ると、これを利用する電報はほぼ一定量に達し、その後は業務 の急変を来すような特殊の事情がない限り、順調な経路をたどって、ひっきょう 電報の累年逓増の法則に従うことは容易に考えられることで、本表がよく これを示している。
勿論、毎月の取扱数には多少の高低を示しつつ、逐年増加して来たもので、 日米間無線電信に最も影響のひどかったのはグァム線の不通であった。 海底線は一度障碍にかかると短時間に回復しないのが常で、月余に及んだ ことも珍しくない。またそれが必ず年に数回あった。かかる際には電報は 無線に殺到集中した。当時の日米通信の状況を観察すると無線と海底線 とは丁度水管で通ずる二個の水槽(大少の差はあるが)のような関係に あった。若しケーブルがグァム以東で不通になるか、又は東京グァム間 の障碍と同時に、マニラ、上海を迂回する線路が不通になれば、日米 通信のほとんど全部を無線が負担することとなって、異常な輻奏に直面 するのであった。しかし大正の末期における両者の割合は無線7割強 ケーブル3割弱であった。
その他、磐城時代の取扱数を左右した主な事情をあげると、増加の原因 としては、大正10年11月から同11年1月までの華府軍縮会議開催 、大正13年4月、5月の米国のおける日本移民禁止法案即ち排日問題 に関する官報と新聞電報の増加、これに伴う移民呼寄に関する私報の 一時的増加、大正14年秋以降の一般経済界の復興、大正15年11月 より無線新聞電報料金の低減、同年12月大正天皇の御登遐にあって 新聞電報と官報が増加したことなどがかぞえられる。
また、電報が著しく減少したのは、大正12年9月の関東大震災、、 同13年以降の一般経済界の不振、同年6月米国の日米移民禁止法案 可決に伴う俳米運動、米貨排斥の結果対米貿易の沈衰、大正14年 7月よりグァム線経由料金を無線料金と同額に引下げたための無線の 一時的減少、同15年4月下旬全国各地に突発した財界の変動等が主 な原因でその都度取扱数に影響を及ぼした。
受信所と送信所を夫々離れた地方に設置しこれを中心都市にある通信 取扱局で、連絡線によって操縦運用する無線の中央操縦方式の地は アメリカで、RCAが紐育の中央を中央通信局(ラジオセントラル) ととなえ4ヶ所の送信局と、1ヶ所の受信局を紐育で操縦し、対 欧州及び対南米諸国と多数回線による多重通信を行うようにしたのが 代表的なものであった。これらの送信機は、大体に対手局をきめ られているが、通信の繁閑に応じて、彼此融通するもので、時には 数々の通信機を同一対手国に集中し、また時として一機の送信機で 数回線に共用することもできる。また多数の受信回線を一受信局に 集中し、中央通信局で操縦するので、経費節約と作業能率の向上を 期し得るのである。
なおこの方式は商業中心地にある中央局で直接電報の送受信を行う ので、受信局における人手の中継作業を省き、従ってそれだけ 経過時分を短縮し、且つ誤謬を防ぐ利益がある。
磐城無線局でも対米通信を改善するため、この方式を採用すること になって、日本無線電信株式会社が新たに埼玉県の福岡受信所を 建設し、これを連絡線(トーン・チャンネル)で東京無線電信局に 導いて、同局で直接受信し、別に東京原町間に送信機操縦用の 連絡線を架設して、東京で直接二重通信を行うこととした。
これらの工事が昭和2年に完成し、磐城無線電信局は同年8月 7日限り廃止されて、その業務の一切をあげて東京無線電信局 に合併し、ここに無線電信中央操縦方式を実施するに至った。
富岡より東京へ事務を移転するには、日米無線通信を片時も 止めることなく、実行せねばならないので、特殊技術を必要 とする日米無線通従業員の人繰りなど相当困難な事業であった。 従って事務引継の手順、40数名の人員移動の順序等に慎重な 準備と計画を要した。
実際の事務移転は同年8月14日(日曜日)と15日(月曜日) との2日間に行ったので、日曜日本邦送信の少ないのを利用 して予め所要人員を出発させ、この日は東京で送信のみを 取扱い、受信は富岡で継続した。
月曜日は米国よりの来着信が少ないので、この日から東京で 送信も受信も一切できるように人員を都合して赴任させ、無事 に切替えを終えたのである。しかし予め準備しておいたとは いえ、実際の引継にあたっては種々の思わぬ問題に逢着して、 少なからぬ困難を感じたが、ともかく大過なく目的を達し得た のは幸いであった。
東京へ移転後の日米無線電信業務は、更に一段の改善を目指 して、東京と桑港間の直接通信を実施すべく、双方の設備の 改修を急いだ。本邦では工費130万円を投じて、原町送信 所のアンテナと接地装置を改修し、送信勢力を増大すると共 に、引上げ後の富岡に新たに短波送信機(SFR5キロワット) を設備して、原町の工事中送信の杜絶を防ぐため、富岡の 送信機を代用し、またある時は原町、富岡の両送信機で二重 送信ができるようにした。
富岡の新設備は昭和2年末に完成し、原町の改修工事は同 3年3月大体竣立し、引継ぎ試験を経て、同年6月16日 から桑港への直接送信を正式に開始し、桑港よりの直接 受信は9月1日から正式実施を見て、ここに布哇中継を 発し日米直通無線通信を実現し、一新紀元を画くすることになった。

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