tower1大正9年10月、原町無線塔が竣工した

◇◇巨大無線塔が消える◇◇

大正10年、福島県原町に巨大なコンクート塔が出現した。対米磐城無線電信局原町送信所 のアンテナ主塔である。当時の日本政府が渇望する国際無線局の施設の一部として建設され たのであった。というのも、日露戦争後とみに活発になった列強の外交戦略のなかで、独り 日本だけが情報戦争に遅れをとることを憂いて、国家が総力をあけて取り組んだ事業であっ た。工事は昼夜兼業で強行され、日韓併合後に日本へ流出してきた多くの朝鮮人難民なども 労働者として投入された。超高層という建設はこの当時他に例をみない。建設と改修の工事 では数人の犠牲者さえ出している。

その業務は、先に完成した磐城無線局富岡受信所に中核があり主に商業と外交の通信を取扱 った。大正12年9月1日の関東大震災では、ここからアメリカへ向けて第一報が打電され た。その電波は原町無線塔が支える直径1キロにわたる傘型アンテナから発射されたのであ る。当時の磐城局の固有波長は1万5千メートルの長波で花火式送信機という原始的な手段 が用いられた。国家的急務を担って大正10年7月に開局した原町送信所は、昭和3年に大 改造されてそれまでのハワイ中継通信からアメリカ本土サンフランシスコと直接通信が可能 となった。しかし大正末期に真空管が発明されて、受信機の性能が飛躍的な進歩をとげたた め新時代の国際無線局は短波が主流となり、原町送信所は昭和6年には廃局の浮目をみる。 しかし短い活躍にもかかわらず、200メートルの高さをもつ塔は東京タワーが昭和33年 に出現するまで、東洋一の高さを誇ってきた。太平洋戦争では、東北で最初に原町が空襲さ れ、その目印となったりしたが戦後は永く原町市民の象徴的存在として親しまれてきた経緯 がある。

◇◇無線塔物語◇◇

◇富岡通信所の沿革◇
政府逓信省は、大正7年4月、佐伯、中山両技師および吉田技師を派遣して磐城局の敷地選 定に着手。翌大正8年9月には機械装置工事を開始した。そして大正9年5月1日には富岡 受信所の工事を完成、大正10年3月には原町送信所が竣工した富岡受信所は開所当時、 高さ75メートルの木柱に架渉した水平距離約300メートルのループアンテナを使用し、 受信機はテヘロダイン検波低周波増幅一段という所謂二球式を使用するに過ぎなかった。 これらの設計および建設工事は通信局工務課、佐伯技師と中上無線係長の指揮の下に若松 技師、小山、寺畑の各技手及び無線係員の全員がこの仕事に携った。稲田工務課長の隠れた 苦心があったと伝えられている。

◇名前で苦労した磐城無線局◇
大正9年4月富岡受信所が竣工したがこの無線電信局の名称を何と付けるかという問題が あった。最初、局所設置主管課の案では局長の在勤する富岡が本局なので「富岡無線電信局 と名付け、原町をその分室として「原町分室」と称することになっていた。しかし、もとも と両局の敷地はそれぞれ富岡が1万坪、原町が2万坪を寄付したものだから2万坪の原町を 富岡の分室とし称えるのは地元の人達に面白くない印象を懐かせることになるので省内に 反対もあって名称についてはいろいろ議論が交わされ、東北地方にあるから「東北無線電信 局」福島にあるから「福島無線電信局」とする案もでたが、いずれも適当でなく、さりとて 「福島県無線局」では県が施設しているようで面白くない。そこで主管課長三宅福馬の発案 で、国名を採用し「磐城無線電信局富岡受信所」「磐城無線電信局原町送信所」と命名する ことになった。以後これが先例になって、敦賀付近に若狭局ができ、兵庫に摂津局ができた 通信省内で技術側は送信所と受信所を独立した別個の電信官署としたい希望を繰返したが、 主管課はこれらは分室の名称があるという主張を変えず、落石無線電信局が受信所たる本局 を根室に移し、元の局舎に送信機だけをおいて根室からこれを操縦することになった時、 ここを「落石送信所」と称え爾来方々に「○○送信所」「○○受信所」ができるようになっ たが、決して各々が独立電信官署ではなく、一方は分室の名称であった。磐城局の場合は 富岡が本局で原町送信所はその分室であった訳だ。磐城無線電信局富岡受信所はどのような 規模の施設だったのだろうか。
①局 舎
局舎は木造瓦葺約140坪で建物平面、送信室、安定装置は0.5ミリの厚亜鉛板で遮蔽し 床は亜鉛版板の上にリノリュームを敷き、窓は銅網を張り、配線溝も送信室から電源室に 向って約10メートル遮蔽した。送信室、周波数安定装置室への配線はそこから10メー トル迄木枠の上に大小被鉛線を格子のように一本一本並べて間隔を置き線の多い処は段に して動かぬように絶縁するなど、接地、振動防止に注意を払った。
②電 源
電源蓄電池は各2組あり一方使用中は他方を充電する様にした。受電用変圧器は屋外用 3500V/200V/100V単相60∞30KVA3個現用、1個予備、配電盤は受電配電、蓄電池 充放電及び水、油、空気ポンプ用の5面で充電用電動発電機は合計5基あった。

③冷却装置
空気ポンプは圧力型で水冷真空管のガラスと銅の継目、陽極、格子、織条を吹き陽極の水冷 には口上のタンクから自然流通によって真空管を冷却し、排水は地下タンクに溜まるように して上部タンクの水量が減ると自動的に水ポンプを運転して、地下タンクから揚水する。 飽和変圧器冷却には油を使用し、水却装置同様に自動操縦を行った。

◇送信所にもなった富岡受信所◇
富岡の施設は福島県双葉郡富岡町字深谷にあり、常磐線富岡駅の北方約4キロメートルの 丘陵の上にあった。開局当初(大正9年から)は磐城無線電信富岡受信所として長波によっ てハワイの電波をキャッチして、原町送信所が完成するまでの間、船橋局の送信業務と連 係して短期間二重交信の便を果たし、大正10年原町送信所が出来てからは磐城電信無線 局の体制に移った。富岡の受信所には受信装置のほかに原町送信所を操縦する装置があり 東京、横浜、三宮の外国電報の中心地と陸線でつながっており、対外電報を取扱った。 大正14年、逓信省から日本無線電信株式会社へ移管後、福岡受信所の完成とともに当所 の受信業務は福岡(埼玉県)に移転し、昭和2年夏中央局事務も東京無線電信局に移った。 同年フランスのSFR社から輸入した短波送信機を据付け、原町送信所の予備として使用 することになった。(大正末から昭和2年暮れにかけて、原町の無線電信塔と空中線は大 改修工事がおこなわれていた)
このため昭和2年夏頃から富岡は送信所に適するように改築工事が行われ、また空中線の 建設工事も開始された。空中戦はクラックス・メニーのCM式鋸歯形空中線を開いた波長 16、3メートルで、送信室から10メートル離れた処に23.75メートル鉄塔を二基 を70メートル間隔でホノルル向けに建てた(この鉄塔の基礎コンクリートは残っている) 同年秋機械類が着荷し12月には組立各部手直しも終わり調整にはいった。SFR社のゴ リオ氏が調整のため来日したが、同氏は後にレジオン・ド・ヌール勲章を授けられた程の 人物で、富岡では連日連夜調整の手直しに努め、その疲れを知らぬ熱心な仕事振りは共に 働いた者に深い感銘を与えたという。当所は電力の小さいにもかかわらず、予想以上に活 躍し、短波通信がその後の通信の有力な武器であることを広く深く認識させた。 その2、3年を経ずして短波万能の時代が来て、短波による対外通信業務は新たに完成さ れた小山送信所に移された。

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