原町私史シリーズ1

原町無線塔六十年史



10代「修行時代」 30代「青年時代」 晩年「壮年時代」の高倉快造

◇◇写真師、高倉快造のこと◇◇

正月、家でゴロ寝をしていた所へ、兄から姪たちの七五三の写真が届いた。 四倉町の高倉写真館、という封筒であった。ピンときた。私の探していた 高倉快造なる人物が、四倉町へ引っ越したらしい事は、六年前の取材の折 に聞いたことがあったが、締切り間際であったのでそのままにして追わなかった。 おもむろに電話をかけてみると、やはりそれが高倉快造の縁者であった。 であるばかりか、直系の子孫であった。現在の館主は、快造が始めた仕事を 継いで三代目にあたる敏彦氏という。
「二、三日前にF T V からも電話がありましてね。無線塔建設当時の写真機材 は改築の時に処分してしまいました。」福島テレビの遠藤卓さんが、別の ルートから調べてゆくうちに、高倉快造にゆきあたったという事を後で知った。

二月中旬、原町市駅前ダイエーカツミヤ店で開催した「無線塔パノラマ展」 の初日、敏彦氏は夫人と三人の子息を伴って、一家をあげて来訪して下さった。
高倉快造は、代々原町に居を構える僧侶の家系の出身で、父の名を雄快という。 快造が何故に写真師を志したのか、その理由は分からない。が、当時写真師と 言えば、時代の最先端の職業であり、何しろそれ以前には、写真機という文明の 利器は、片田舎の町には一台も存在しなかった。写真機の周辺に漂うハイカラ さが、快造少年の魂を強烈にひきつけたであろうことは想像に難くない。 彼と同じように、新時代の酔いの中に無数の少年がいただろう。
新時代゛精神そのものの徒弟たちは、ある者は東京で開業し、また郷里へ戻って
文明開化の波を各地にもたらした。 快造少年は、単身上京し、王子の吉川写真館の扉を叩いた。そこで修業時代を 送り、妻帯し、帰省して写真館を開業した。大正初期のことである。

三代目敏彦氏の語るところによれば、祖父高倉快造の仕事ぶりは見事であった。 無類の酒好きは血筋であるらしい。仕事の前には必ず景気づけに一杯やってから 出掛けたという。仕事の合間にも、背広の内ポケットにしのばせたおちょうし から、麦藁ストローでチューチューやっていた。
写真機は巨大であった。というより当時はすべての機械が巨大であった。 近代史の曙は人間精神の開明であると同時に、自然原理の応用の第一歩 でもあった。機械と人間との邂逅はつねに幸福でありえた時代であった。 この巨大な写真機を、据え付けるのが、先ず一苦労する。それを子供達に やらせるのだ。快造自身は、本陣中の信玄よろしくどんと腰をおろし、小さな 助手たちを采配しているのである。そのなかに、敏彦氏の父である二代目の 寿郎氏もいた訳だ。
当時の写真は、一日に二件も御祝儀があると一ヶ月は食えたという。
当時、写真を撮って貰うことは目玉の飛び出るような贅沢であった。 快造は、東洋コンプレッソル社の専属写真師として、無線塔建設の写真を 一手に引き受けていたから、大いに稼ぎまくったという。尤もその稼ぎは 殆んど呑みつくしてしまったが。あるいは、町の有志が金を出し合って 記念写真を撮ることもあった。そうした写真の一部と思われるものが 数葉残っている。たぶん町会議員の面々なのであろう。

七年前、渡辺敏氏宅を訪れて、知った顔がないかと尋ねると、氏は「どうれ 点眼鏡を持って来い」と家人に命ずるや、豆粒のような顔を覗き込んだ。 「これは松永七之助、木幡徳松、佐藤優輔・・・あとはわからんな」 すでに歴史上の人物となってしまった人々の名を、無造作に隣組の如く 言うあたりが、この人物のシーラカンス的文化財たる所以を物語って 愉快であった。
さて、この時携えて行った写真こそ、高倉快造の名を始めて私に教えた 一枚なのである。それは、六十年という時間を超えて私の魂を揺すぶる いわば時限爆弾であった。

高倉快造は、その後原町を離れる。平に出て写真館を始めようと決意 するが、既に平には幾つもの館があった。知人の紹介で、ひとまず 四倉町に店を構えることにした。昭和十二年のことである。 快造は、その年に四倉で没した。享年四十六歳であった。
無線塔と原町を撮った夥しい写真が遺された。私の取材は、高倉快造が生きて 呼吸し、歩き廻った足跡を追う旅であった。この写真集は、それらの楽しき 旅の余滴のアルバムでもある。

五月五日。いわき市での京劇公演を観ての帰途、四倉町の高倉写真館を始めて たずねてみた。高倉敏彦氏をはじめ、ご一家はちょうど祭りの宵の団欒の ひとときの中にあった。その家族を見守りながら、高倉快造の肖像写真は 仏壇から静かに微笑みかけていた。
これまで多くの人々に会い、さまざまな人生をかいまみてきた。取材を 終えて、手紙やテープや沢山の写真が残った。これらを資料として本を 書いたが、もとより一部にすぎない。これだけしか紹介できないのが残念と 思いながらその都度締切をむかえた。だがもう締切はとうに過ぎている。 もはや誰もあの塔の話題をもち出すことはない。

五月八日。N H K 郡山局で、岡田アナウンサーと再会した。最初の番組 でご一緒してから、十年ぶりのことである。なつかしかった。この十年 で、当時を知る人たちは一人去り二人去りしていった。

取材の年に亡くなられた米村嘉一郎さんはじめ荒川大太郎さん、関場清松 さん、佐藤啓助さん等々。 多くの人々が、この巨大な一本の塔巡って青春を過ごし、遠くあって追憶し そして死んだ。
私は彼らの人生を見た。撮った。そして書いた。 私自身の三十年の時間を、横切っていった長い影がある。その影は六十年の 時間を閉じた。

その同じ憂愁の影が横切っていったわが町の人々の、人生のアルバムの 一頁にこの写真集を役立てられんことを・・・・・・・・・・・・・

佐久間ジンさん

◇◇開局式に飛行機が飛んだ◇◇

「何も分からないよ、みんな忘れちまったから。ただ、ポンプで水を汲み上げてただけなんだ。あん時は、 人手が少なくて、みんな働きにでた。娘の頃は、家があの(塔)の根っこにあって、子供でもはたらかされた んだな。鳶職の人たちは「俺たちは明日をも知れない身だから」って、大酒のんでは騒いでた。 背中に刺青を彫ってるのがいたりして、子供心におっかなかったわ。」

佐久間ジンさんは、今年七十七歳。陽だまりの中で、微笑をたやさず、ずっと伏目がちに答えていた。 「呼ばられて(解体着工式へ)行ったのが六十年ぶりだ わかんねえわよ。こんなに年とったんだもの」 開局式のことをたずねると、しかしはっきりとこたえた。
「飛行機が飛んだのを見たのは覚えてる」

米村局長

◇◇巨大文明から極小文明へ◇◇
・・・・・真空管が世界を変えた・・・・・

大正十四年、磐城無線電信局は多数の職員とともに民間国策会社「日本無線電信株式会社」(現在のK D D I の前身) へ”払い下げ”られた。大正十五年から昭和二年にかけて、原町送信所は大改修工事のために、二年間その機能を停止 していた。この空白期間を埋めるため、あらかじめ富岡受信所に、短波送信機と送信アンテナ用の鉄塔が設備されて いた。真空管の発明が、世界の通信体系を変えようとしていた。

原町送信所のアンテナ支柱いわゆる無線塔は、頭部の鉄骨構造の形をすっかり改造され、傘型空中線を半径四百米 の円周上で支えていた十八本の六十米木柱は、半径五三五米円周上の五地点に建設された五基の二百米鉄塔にとって かわられた。こうして偉容ととのった巨大長波送信所は、しかしたちまち無用の長物となってしまった。

磐城局は、昭和二年八月七日廃局され、事務中核は東京へ移され富岡受信所は単なる出張所となった。原町送信所 もまた、昭和五年に対米小山送信所(短波)が完成した後は発信を停止し、廃墟となった。

真空管はもともと第一次世界大戦が生み出した。だがこれを実用化させたのは、国家ではなく、アマチュアたち であった。真空管はやがて、今日の超 L S I までの道程を足早に歩み、それは巨大文明から極小文明へと大きく 世界をかえた。

昭和30年
◇◇お召し列車が走った◇◇
・・・・・日本は敗れた。・・・・・

焦土となった祖国の町々に、特別仕立ての列車が走った。人間宣言をして全国巡幸に旅立った”人間”天皇を のせた、いわゆるお召し列車である。

二十世紀の時代になって、自分は神でなく人間である、という宣言が白昼堂々と行われた奇怪な国。 童話かお伽噺の世界からでもやってきたかのような、その列車は素朴な田舎の人々を感激させた。日の丸の小旗が振られた。万才が唱えられた。
駅頭につめかけた原町町民はそこでうやうやしい車両(ハコ)の中に、柔和な表情で手をふる日本国の元首 を見た。

昭和三十年四月
終戦から十年たっていた。天皇の東北巡幸のついでに立ち寄った原ノ町駅は、空襲で七人の犠牲者を 出している。 遺族たちは、どんな思いであっただろう。”元首”を運ぶ役目の機関区員は、ことさら緊張の中にいた。 平から仙台までの往復区間を担当したのは、若林機関士であった。

その日は原町にとって、”戦後”がやってきた日でもあった。

(昭和42年)

◇◇新国道 六号線開通◇◇

原っぱの・・・それが原町の名称の由来になった。
明治三十年に町制が施行され、鉄道が開通する以前までは”原町村”であった。明治二十二年当時の 人口約二千五百.戸数四百。

昭和二十九年、市制施行。まもなく三十周年を迎える。昭和五十七年五月一日現在の人口は四万六八四六人

原町の歴史にとって、これらの節目に加えて、大正十年の磐城無線電信局原町送信所開局、昭和二十年の 空襲などが、大きな歴史的事件であった。

明治三十一年の鉄道開通が、原町の近代化の窓であったとすれば、昭和四十二年のパイパス開通は、遅まき ながらのモータリゼーションへの窓となった。昭和三十年代にテレビ受像機が普及し、昭和三十九年の東京 オリンピックでは、P T A の配慮で全教室にテレビが配置され(原二小)観戦したのを覚えている。

小野田レミコン(株)が道路敷設を主目的に創業したのが四十年。原町市民は、六号国道パイパスを”新国道” と呼んだ。

当時小野田レミコン(株)に勤務していた州崎竹次郎さんは、社員慰安のヘリコプター試乗会で初めて空から 原町の町なみを見た。「飛びたってすぐ無線塔を撮った。夢中でカメラのシャッターを押しました」 真っ白な”新国道”が、原町無線塔の根本を真っすぐに南北に縦断している。道路標識など全くなかった。 地上を馬車がのんびり歩いていた。アスファルトの舗装道路は殆んどない。埃っぽい町だった。

(昭和四十二年)
◇◇さよなら S L◇◇

去りゆくものは、すべて美しい。巨大な鋼鉄の汽罐(かま)は、一国が農業国から工業国へと脱皮する索引力の象徴であった。
巨大な長波無線施設・・・原町無線塔も、これによく似ている。戦後の復興に力を尽くした、全国の鉄道路線は、やがて来る モータリゼーションによって衰徹してゆくまで、力強く三十年代の日本を引っぱって行った。

歴代の政府は、重科学工業を頂点とする石油文明に未来を見出し高度経済成長に邁進した。 石炭は見放され、エネルギーからプラスチック、トイレットペーパー、米づくりまでが石油漬けの時代になった。

自動車産業は、つねに花形でありつづけ、全国に立派な道路がゆきわたり。土地が値上がりし列島改造が最後の仕上げをした。 その一方で、国鉄のターミナル輸送は禁じられ、貨物輸送は大企業と自動車業界に奉仕させられ、手と足を縛られながら S L は走った。それは”国策”であった。

昭和四十二年十月ようやく平と仙台間が電化された。同年六月には新六号国道が開通していた。  常磐線は、今だに単線だ。

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