目達原に木幡少尉と堀口曹長残留。
 無線機は中隊長機11と小隊長機21,23に装備していました。緊急時と突入時の合図をきめて使用することで、ところが中隊長機は大阪で事故大破し無線機は回収せず、のこりの二機も出撃に間に合わず、結局出撃機は全機無線装備なしでした。戦闘機の直掩なし。偵察機の戦果確認の手段もとられずに出撃して行きました。途中で何も障害がなかったとすれば、3時間後位には突入したでしょうが、その事実は確かめようがありません。唯一いえることは中沢軍曹が徳之島に」不時着して生還した外は6名ことごとく壮烈な戦死をとげられたということです。
 中沢軍曹はその後大島(古仁屋)から海軍の水偵で軍司令部(福岡)に帰還しております。
 負傷のことはきいておりませんが、なぜか終戦時まで万世の原隊に復帰になりませんでした。何もききだすことはできなかったのですが、仄聞するところでは敵戦闘機の攻撃をうけて命からがら不時着したとのことです。九九襲は両翼に一挺ずつの7ミリ機関銃を装備していましたが、特攻機には不要なもの、他に使ってもらおうと全機とりはずしました。爆弾を落として身軽になっても敵戦闘機に歯向かう武器を持ちません。秘術をつくして逃げるより方法はないのです。先に記したように、島伝いに進路をとった者と島から遠く離れた洋上に進路をとった者とでは、敵戦闘機に遭遇した場合に、退避の手段に差があったことは否めない事実でしょう。亡くなった六名がどのような末路であったかはいつまでも気にかかることです。

24 榊原 乗
23 難波 下
21 木幡 特操
22 後藤 下
12 宮 下
11 久保田
13 廣瀬 下
14 中沢 乗
32 服部 少飛
31 高田 特操
33 堀口 下
34 佐々木 乗

下 下士官操縦学生
少飛 少年飛行兵
乗 逓信省工員養成所
数字は、垂直安定板と方向舵の下部に白色で書きました。

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