徳田 忠成  2008.11.15
陸軍知覧特攻基地

1. 朝鮮人特攻隊員

以下に記すのは、平成4年8月、西日本新聞に連載されたコラム「忘れられた特攻隊員」から引用したものである。

大正10年12月に韓国の全羅南道で生まれた李充範(日本名・平木義範)は、昭和12年頃に日本へ移住、熊本県有明海に面した鏡町が終の棲家になった。以来、日本で成長していった李青年は、14年12月、米子航養所5期生として入所した。当時の教官は馬詰太郎(陸委18期)である。在学中、平木義範という日本名に変わった。朝鮮人も天皇の臣民として、「創氏改名」が強制されたのである。

知覧特攻平和会館に残されている李軍曹(戦死により少尉)の遺影の下には、「第八十振武隊、平木義範少尉、昭和20年4月22日、朝鮮・23歳」と記され、「陸軍曹長平木充範」の寄せ書きと共に展示されている。

西日本新聞の記事がキッカケになって、わずかながら彼の周辺が、ようやく明るみに出た。福岡県博多市に従兄弟の平木新吉氏が住んでいたのだ。特攻志願については、親戚の間では「本人の希望でもあり、お国の為だからやむをえない」という雰囲気だったらしい。しかし、その希望については、周囲の仲間の熱意に動かされ、「朝鮮人の肝っ玉をみせつけてやる」という心意気になったことが、容易に想像できる。

鏡町で隣に住んでいたという人々の微かな記憶によれば、利発な子供で、いつもニコニコしていた。特攻出撃の直前に上空を飛行するという情報が入ったが、母親は一歩も外へ出ようとしなかった。日本人なら涙ながらに見送ったであろう息子の飛行は、日本人への、そして息子への無言の抗議だったのだろうかと、記者は言う。

特攻出撃の後、彼から遺髪と爪の入った封筒が送られてきたが、戦死を知らされる「戦死公報」はない。彼の弟も特攻を志願、8月20日に出撃予定だったが、終戦によって救われた。李一家は、戦後、韓国へ引き上げたが、未だに戦死公報は届かない。

知覧基地からの特攻出撃は、20年4月1日以来、2ヶ月間にわたり、436機が出撃した。特攻隊員は1,026名にのぼり、その内11名が朝鮮人であったが、彼らの本名が分かったのは、今だに5名にしかすぎない。終戦によって、本来ならば「英雄」として靖国の杜に祀られる筈の彼らは、本国では、「朝鮮民族の裏切り者」としての評価を受ける屈辱を受けなければならなかったのである。

本国での彼らの遺族は複雑であり、意図的に本名を名乗り出ることを忌避しているのかも知れない。息子が、あるいは兄が、弟が特攻出撃をしたということを、決して口外しない。遺族にとって特攻は、「報いなき戦い」であり、犬死でしかなかった。日本全国に、特攻隊員の慰霊碑が建立されているが、いまわしい植民地時代の遺物のような顕彰の碑を、彼らは決して望んではいないのである

平成3年夏、馬詰太郎氏がこの会館を訪れたとき、平木少尉の朝鮮名が判り、戦後46年目にして、ようやく日本名の下に「李充範」の三文字が書き添えられた。
http://www.aero.or.jp/web-koku-to-bunka/2008.11.15youseijo23.htm

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