皇魂隊紋章

 

寺田増生は兵庫県出身。ほか少年飛行兵十三期3名とともに戦死。

先般は寺田君達原町に行ってごちそうになったとのこと、いろいろと楽しかった話を聞きました。寺田君も今特攻隊の一員、八紘隊雄志として二、三日内に出撃します。今日は八紘隊の山本隊を送りました。先日同期生の心尽くしで壮行会を実施しました。演芸会も行い大いに敵艦撃沈の意気を挙げました。

原町へ死ぬまで一度は行きたいと思って居ます。

十一月二十四日。小飛13期の生存者からの手紙

秋燕日記p20

文芸春秋

寺田兵長

 自分は何もいうことはありません。ただ今度休暇をもらって、国へかえる途中で、汽車でも電車の中でも、自分が航空隊の者であることを知って、みんな親切に、席を譲ってくれたりしてくれました。それで、国民の期待を強く感じました。責任が重いことを感じました。家へかえって、岩本大尉殿の話をしながら、自分も第一線へいよいよ立つなと思っていると、万朶隊の戦果が発表になりました。家でも期待しておりますから、その期待にそむかないつもりであります。

 寺田兵長も十九歳。小柄であるが、怜悧な眸(まなこ)、子供々々した口もと。国民の期待と責任の重大-こんな言葉が、しかも、私たちが不用意に使えば概念的に耳を掠(かす)め去るこんな言葉が、私の胸に強く響いたのは、皇国の神兵たる十九歳の熱血と燃えるような肉体とがよく裏うちしているからである。そしてこれは、もは言葉ではない。肉体で書かれているのである。肉体と精神そのものなのである。

八牧女史の葛藤

 八牧美喜子著「いのち」白帝社 p135
 昭和五十一年慰霊碑建立のあと、この手記をまとめているうちに、戦争というものを改めて考えねばならない事になった。
 ある日「寺田さんが戦果をあげたかどうか不明なのは残念でならない。命を捨てたのに」と遊びに来ていた青年に 私がつぶやいた。
 「だったら敵を大勢殺して死ねばよかったんですか」。彼に反論されて私は大変な衝撃を受け、頭をなぐられた様な思いだった。
 そうなのだ、戦果というのは相手を殺すということなのだ、人間である相手を・・・・。
それまで、私の頭の中は戦後三十年もすぎていても、戦争は机上の戦争と同じだったのかも知れなかった。
 撃沈される船にのっているアメリカ兵も、親も子も、恋人もいる人間であることに思い及ばぬ幼さというか、戦時中で、思考の止まってしまっていた人間だった。
 ただ、死んで行った知人の誰彼を惜しむ思いのほかに、別の思いを浮かべたことはなかった。戦争について書く能力など私にはない、ただ事実だけを残したい。(引用ここ迄)

 大学を卒業してすぐ地元の地域新聞の編集をやりながら、町のトピックスとして最初期に取り上げた話題が、原町陸軍飛行場の関係者だった。

 注記 秋燕日記のあとがきに「編集をお世話くださった二上英朗さん、未整理の原稿を持ち込んだ印刷所には大変なご苦労をおかけしました。熱く御礼申し上げます」としるしてあった。
 たしかに、昭和五十一年に美喜子さん宅に通って「秋燕日記」という手記をまとめる編集を手伝ったときに、彼女に忌憚のない意見を申し上げたことを覚えている。遊びに来ていた青年というのは、大学生のときの私である。
 わたしの母は、祖母に連れられて太田村から原町へ昭和13年に引っ越して来た。小学2年生の時だったという。3年生か4年生のときに、同じクラスの隣の席どおしだったとも聞いて居る。4年生のそのころから病弱を理由に加藤美喜子さんは学校を欠席した。松永牛乳店の松永時雄社長の姪御さんという当時から有名な深窓のご令嬢で、学校に出ないでも家庭教師から勉強を教わっていたと母から聞いていた。わたしが高校、大学のころに文学好きという共通項で八牧家とは交際していた。親子ほども年齢の離れた間柄であったが、町では稀な文学派だった。

 八牧女史が気がかりだったというのは寺田増生という少年飛行兵13期の航空兵の戦果である。
寺田増生は兵庫県出身。ほか少年飛行兵十三期3名とともに戦死した。
 八牧女史が少女だった時期に、同期の戦友からの消息に、その様子がしるされている。

 先般は寺田君達原町に行ってごちそうになったとのこと、いろいろと楽しかった話を聞きました。寺田君も今特攻隊の一員、八紘隊雄志として二、三日内に出撃します。今日は八紘隊の山本隊を送りました。先日同期生の心尽くしで壮行会を実施しました。演芸会も行い大いに敵艦撃沈の意気を挙げました。
 原町へ死ぬまで一度は行きたいと思って居ます。
十一月二十四日。小飛13期の生存者からの手紙

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