佐々木充さんの電話。2014.5.27.
中央大学法学部。学徒動員されたのは、すべて文科系。理科と医学は授業を続けた。最初、千葉の自動車整備部隊で、次に鈴鹿の山の中の航空整備に回され、そこで19年3月から12月まで10か月研修させられた。99式襲撃機を専門に学んだ。飛行機としては2000機以上作られた機種で簡単なほうだ。鉾田に配属になり、そのまま原町飛行場に赴任した。終戦までの期間中、6月から8月初旬に57期と一緒に青森の基地で実践訓練に同行した以外は、原町での整備が戦争体験のすべてで、米軍の空襲も原町飛行場で経験した。
青森から原町に帰還したとき、本陣山の山腹に掘られた掩体(壕)に木製の偽装飛行機があった。
空襲の銃爆撃では、すさまじい攻撃で、そのなかで田辺大佐が身じろぎもせずにずっと立っていた。中国戦線を生き抜いてきたつわものだけあった。
焼夷弾がばらばらに風を切って落ちてくる音は、気味悪く恐ろしい。
・・・友軍機と比べて、米軍の飛行機は金属音だったと言いますが?
戦闘機の機銃というのは、進行方向にしか向きませんから、地上めがけて全速力で突進してくる急降下の飛行機が地上近くで急上昇するときのエンジン音は、すざましい爆音を立てますから、訓練での日本の飛行機は、そんなことやりませんから。
空襲が終わった翌日には、50人ぐらいの町民が、飛行場にやってきて、穴だらけの滑走路の補修工事を手伝いしてくれた。

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