一方、門口少尉は翌二十五日、ラオアグ飛行場に近い場所に不時着した。門口機には整備の岡部功軍曹、富田正衛雇員が同乗していた。門口機が不時着すると、フィリピン人が近づいてきた。はじめは飛行機を遠巻きにして、めずらしそうに見守っていた。門口少尉は飛行場から救援をの来るの待っていた。そのうち、だんだんとフィリピン人の数がふえると、次第に人垣の我がちじまり飛行機に近寄ってきた。夕方になると、不穏な空気になってきた。フィリピン人は敵意を露骨に示して、攻撃に出てきた。
門口少尉は飛行機のそばを離れないでいるうちに、フィリピン人に捕らえられた。岡部軍曹と富田雇員は飛行機の機関銃を持って反撃しながら脱出した。このふたりは、のちに日本軍の憲兵隊にたどりつき、クラーク中飛行場に送られてきた。
 門口少尉機と前後して、渡辺軍曹機も不時着して消息を絶った。
 八紘第一隊から第十二隊までの核特攻隊は、それぞれの基地を出発してフィリピンに到着するのに、ほとんどが二十日前後もかかっている。短くても、十日である。ところが、富嶽、万朶両隊は、三日、四日で」到着している。これは機種の性能の違いだけではない。八紘各隊の場合は、飛行機、気象なdの悪条件のほかに、操縦に未熟の者が多かったことが大きな原因になっている。また隊員の心理、心境にも、さまざまな変化、動揺があった。鉄心隊のように、明らかに途中の滞留を長引かせた隊もある。こうしたことが前進を遅らせた。
 その中でも、三浦隊前進に二十七日もかかり、その上ゲリラ襲われて隊員二名が行方不明となったのは、異例の事であった。

 陸軍特別攻撃隊 高木俊朗p429