海辺の町にあった東北の原町陸軍飛行場。特攻機の訓練基地での士官学校第56期の航空科の教員クラスのパイロットた根こそぎ特攻隊の隊長に充てられた。これに少年航空兵たちの隊員がチームを埋める。さらに最後の昭和20年の沖縄戦での局面では士官学校卒第57期の顔ぶれは、ほとんどすべてが特攻要員といってよかった。
戦略設計を作った大本営には国家デザイナーともいえる頭脳たちが、すべての飛行機を消耗しつくして敗戦までの時間かせぎをした。
さらに軍国主義教育で最初から特攻精神に染め上げられた世代の58期生らは、死ぬ気満々の真っ盛りの最中に、ぶちんと人生を断ち切られた終戦の詔勅の放送すなわち玉音放送でもエンジンの踏みっぱなし状態に制動が効かず、敗戦後の特攻を試みて自爆した者が多かった。
残された者。それは誰か。
パイロットの人生の視点でしか見えない視野での話である。
あれから50年後、70年後の現代で、慰霊すると言っても、主催者も遺族も90歳になっていた。もう仕掛け人も見物客もいないのだ。残されたテーマだけが生きている。それを担当するのは、サラリーマン社員のマスコミ編集者だ。その企画と指示によって動くのは、さらに若い二十歳そこそこの記者である。
なんだか、まるで70年前の戦争末期の「特攻戦」の現場の再現のようだ。
ワンパターンでステレオタイプの「思想」と「感傷」。あとは「資料を貸してください」「当時の関係者を紹介してください」というお調子ものの要領の良いプログラム制作を心得た優良な若者だが、8月15日が過ぎれば役に立たないネタという訳だ。
いろんな事情があって人間は生き延びる。
敗戦の詔勅が発表された時点で、ものごとは終わったが、それ以上の価値観転換の激動を処理し、対応しなければならない。
実は、それこそが実際の本物の人生なのだ。ノスタルジーは、それからさらに20年以上が必要だった。