原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

  新地町の磯原聖ヨハネ教会 聖公会

教会のあゆみ
磯山聖ヨハネ教会
大正9年7月福島県相馬郡福田村字埒浜(磯山)三宅傳一所有の山の中腹に米国夫人アンナ・エル・ランソン先生の家が建てられた。先生は仙台市のミッションスクール青葉女学院長であり、避暑と静養が目的であった。
さて、この磯山には常磐線新地駅の北東約2キロの地で太平洋に面し白砂と千古の松原があり、はるか水平線に牡鹿半島や金華山を、西に阿武隈山脈を、前方はひらけた水田で畑地が眺められる、冬暖かに夏涼しの地である。
しかし、農家数軒あるのみで、きわめて僻地であるのに、何故米国夫人がと疑問がわいてくる。これよりさき磯山地内に仙台市小塚病院のサナトリウムが、大正8年7月に開設されている。この病院長小塚文治氏と、ランソン先生の住居が近隣なのでこの話がすすめられたという。大正9年7月にランソン先生は氏家きく姉(女学院生)と避暑のためこの家に滞在したのが、たちまち近在に磯山にアメリカ人来るとひろまった。そして周囲が何となくざわめく日がつづいた。当時コレル先生も時折訪ねてきた。
「ランソン先生もこれる先生も、この地に伝道の必要があり布教に着手いたしました。ある日不思議にと恩恵があり布教の端緒が見つかりましたから、山上に立って話しますと20~30人の子供が集まってきた。大人も集まり中には何時までも質問することもあった。連日子供の会は山上に開かれ、管理長兄稲垣先生、ランソン先生の説教会も開かれ、恩恵のなかに一粒一粒よき種子はまかれたのです(以後この伝道を山上の垂訓と誰ともなしに呼んだ)
文書伝道はトラクトその他書籍を配合し、また旧式であるが幻灯会も開いて布教いたしました」氏家きく姉の手記。
これがそもそも磯山農村伝道のらんしょうとなった。この子供の会をダビデ会と称した。そして更にコレル先生は幼児教育なども考えられておられたが、この年12月に永眠となった。
大正10年7月の幼児教育のため埒浜区長荒央記氏宅において無料夏季幼稚園を開き好評、山野栄子、千葉茂、守口八重子、今井ふみの諸姉が併せて伝道にあたった。
大正11年も同所に夏季幼稚園を開き、千葉氏、原田かね、鈴木みなとの諸姉がつとめ、また稲垣長老、前川長老の伝道説教会が催された。
しかしらんそん先生の勤務地がかわり後任カールセン先生は伝道と夏季幼稚園をより効果あらしむるため磯山地内三宅傳一所有の山林に家を建て大正12年7月より此処において無料夏季幼稚園と伝道にあたることになった。埒浜の家並みとは異なって遠慮することなくったので、近在から多くの人が集まった。カールセン先生、前だ長老の伝道説教会が開かれ、常時は幼稚園と伝道に原田かね、三国蔦、駒野鞠枝、田中筑紫、羽太鐐子、大河原よね、山野栄子の諸姉があたった。
しかし、求道と嘲罵と迫害との日とがつづく中で、若き情熱と信仰とによって対処していた。ある日には10キロもの道を歩いて来たという数人の青年の純朴な求道には、更に自分の信仰を強め道を説いたという。
翌13年以後も夏季幼稚園、ダビデ会、伝道説教会がつづけられた。そして毎月何回かダビデ会がこの家で開かれた。渋谷小波、島田きん、三国蔦、安部伸子、上野益子、高瀬郁子、高瀬まつの、岡村初代、村田俊子、富沢みさを、小田島あい、中島千代、片田美智子、門崎まさゑ、酒井千代、諸姉つづき、この間も嘲罵と迫害との苦しい日があったが、カールセン先生、前川先生、メードレー先生らの伝道があり、漸く基督教に対する理解の兆しも見えてきた。しかしその頃不幸にもカールセン先生のご永眠は全くこの伝道を暗くした。
そして再びランソン先生は青葉に戻り、夏季幼稚園と日曜学校に力を注がれた。千喜良ちや、野田ただ、藤林きよし、相馬きく、寺井妙子、工藤トク、長山裕子の諸姉があたり、それに細見貞子先生、前川先生の伝道も回を重ねるに、農村の若者から好意をもって迎えられた。徐々に種子は芽吹かむとした。
昭和7年2月ランソン先生の家(星見荘)で8名の受洗者が生まれた。(これよりさき昭和3年2名受洗者があったが他教に走った)そして昭和8年8月ランソン先生はいよいよ磯山に永住し、農村伝道に献身の決意を披露した。遠藤あい、四分一すみ、佐藤芳子、田中正緒、田中敬、千葉茂、村山勉、の諸氏と記念撮影したあと、ランソン先生は話の一端に「磯山の人々はほんとうに田舎人で心から親切ですし、交際しやすい人々です。ここに家が二軒ありまして一つは常に天を仰いで祈れという「星見荘」です。一つは主に従いて祈れという「種子蒔きの家」です。それに初めて磯山伝道をした藤原氏家きく先生のため、この伝道は成就させなければなりません。藤原先生はほんとうに礒山を愛していました」
そしてこの年から幼稚園を廃し、春秋二期の農繁期託児所を開設して農村の母の助けをし「命の母」をつくって農村の母のためよき相談相手となった。そしてこの伝道のため長山裕子姉が助手として種蒔きの家に住むことになった。また毎週の日曜学校と相まって前川先生、ビンステッド監督の伝道説教会が励行された。そして来日して最めての説教がドレーパー先生によって種蒔きの家で行われた。
それに年々潮害を守るためのの施設、慈善事業等をなしたことはランソン先生の無言の伝道であった。
「礒山にも教会を」誰からともなく求道者の間に交わされた言葉だった。そして若い人達が「愛星会」なるものを組織して稲作をなし、その余剰金を教会建立のため年々捧げることとなった。昭和8年2名、昭和9年6名と受洗者があり順調な伝道がつづけられた。この地を誰ともなくガリラヤ伝道地と呼んだ。
しかしランソン先生と長山裕子姉ははからずも病床に倒れ、伝道に一抹の不安をかもした。これに対して千喜良ちや、瀬尾和子の諸姉はなみなみならぬ努力をもって伝道にあたり何の支障もなかった。ランソン先生、長山裕子姉退院後は教会建立目標に努力、これに対して信徒も力を結集し、あらゆる協力をなし遂げ、昭和11年12月27日の聖ヨハネの日御前9時、新築落成した聖ヨハネ礼拝堂は東北地方監督ノーマン・エス・ビンステッド博士によって聖別された。
勿論、前川先生、長山裕子姉の精神面での苦労、信徒の協力も勿論だが、大正9年初めてよき種子を蒔いた氏家きく姉から荒地の草を刈り笹の雪を払って道を拓いて来た青葉の人達のはるかな日日を忘れることは出来ないだろう。
この日ビンステッド監督夫人、礒山として忘れ得ない青葉女学院職員生徒、これまた多大の援助を下さった仙台聖公会並に有志、稲垣長老、前川長老夫妻、福田村長、村会議員、小学校校長、信用組合長、ほか村の有志、近村の有志など約200名ほど臨席された。この日14名の受洗者がありのち会館で祝賀会。
聖ヨハネ教会と命名された屋根に三ツの十字架が輝いたが、この地に最初一粒のよき種子を蒔いた氏家きく姉はこの日を見ずにご永眠されたのは残念であった。
この日以後も農村伝道は更に進められ受洗者も増したが、緊迫せる国際関係、わが国もその難局にさらされ、軍縮会議脱退、日独伊防共協定調印、2・26事件、廬構橋事件、国民精神総動員中央連盟結成となり、これらをとおして次第にキリスト教に対して反感、迫害が目立ってきた。
昭和13年国家総動員法が施かれ、礒山伝道にも漸く難渋さが迫った。信徒からの応召も多くなり求道も減った。
この年の8月ランソン先生は老齢のため辞任され9月3日礒山を出発帰国の途につかれた。感無量のうちに時は流れるがこの機会に教会の内容について一言しておくのも贅言でないだろう。
礒山聖ヨハネ教会は木像にて総建坪50坪余、敷地200坪、全工費5千300円。ビンステッド監督により米国聖公会より寄贈、大工左官すべてを土地の者であり、会館に炉を設け自在かぎ(戦時中不明となる)がかけられ、厨房と児童衛生室がある。この児童衛生室はランソン先生の父君記念のため先生の献設による。オーク製の祭壇と背後の飾障は地元信徒一同の奉献係り、オーク製聖洗盤はこの地に縁故ふかい故女執事カールセン先生と故氏家姉のため青葉女学院の奉献である。
ランソン先生の後任としてハバート先生が着任せられ伝道に当り農繁期託児所が継続せられ小野寺たみ姉、清野しげ姉らの協力を得て日曜学校も継続したが、緊迫せる国際関係や戦争の拡大し、キリスト教や外人に対する疑惑の眼は次第に露骨となる。昭和15年8月教務院会議により日本聖公会即時自給断行となり9月には外国宣教師の辞任となり、ハバート先生、ビンステッド監督も同調となり、礒山聖ヨハネ教会の伝道は渋滞となった。
昭和16年12月8日太平洋戦に突入、信徒よりの応召も多くなった。この年宅間六郎先生親子「星見荘」に入り管理に当る。
間もなく礒山に縁故ふかい長山裕子姉退職、かくして礒山はきびしい試練の上にたたされた。礼拝の会衆も1~2名の日が多くなる。
昭和17年1月4日礒山聖十字教会となる。そして教会に宅間先生の長男夫妻子供達が疎開して来る。当時青年訓練所として教会を解放するよう要請再三あったが断わる。
昭和20年1月礒山聖ヨハネ教会となる。その年8月15日終戦後、宅間先生長男ら教会を去る。この間、礼拝がつづらけられたが1~2名、その後も信徒達は復帰しないまま時が移る。
昭和38年宅間先生ご永眠以降滝口先生の管理となる。
(注。三宅康の校本より引用)

はらまちキリスト教100年史

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